碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (97)

2019年08月30日 21時32分30秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (97)

          (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

覚え書き「長谷川テルと劉仁の恋愛と結婚」①  木田日登美(ぼくだひとみ)

 中国演劇の翻訳・製作者である木田日登美(演出・制作では坂出日登美)氏が表題のテーマで記されている。木田氏は氏は、劇団「息吹」において俳優・演出家として活動後、1991年、北京語言学院本科(現北京語言文化大学)入学し、1995年卒業した。1997年~2001年の間、北京の中央戯劇学院劇文学科高級進修生であった。

 現在、劇団「息吹」に所属し、日本演出家協会会員であり、「日本、中国、韓国の文化芸術交流の架け橋」事務局員でもある。

 (二)劉仁の父劉振邦と橋頭街  

橋頭は劉仁の生まれた当時、人口一万人くらいの町で、そこには奉天(瀋陽)から朝鮮との国境の街新義洲も至る鉄道の駅があり、駅を中心に郵便局をはじめ、銀行、雑貨店、食べ物屋、散髪屋などが軒をつらねる駅前商店街があった。  当時は小さいがなかなか活気のある街であった。    この街で劉仁の父劉振邦は、橋頭街の郵便局長を勤めるかたわら、「徳元堂」という薬局を経営していたが、雑貨や酒、煙草、茶なども扱い、また後には精米、製粉加工所、搾油所を開くなど手広く商いをしていた。

 祖父の代から受け継いだ家業が発展し、かなりの財力を持つ劉家は橋頭では一、二を争う名士であり、劉振邦は周りから推挙されこの街の商店会の会長を務めていた。

 劉振邦には男三人と女二人の子どもがあり劉仁は長男である。  長男劉仁に続き次男劉介庸も日本に留学した後、三男の劉維箴が父を助け家業を営んでいた。

 現在、本渓市に住む劉維箴の娘劉艶月さんは、劉仁が日本に留学した後に生まれたので、 直接叔父(劉仁)と顔を合わせてはいないが、橋頭街の劉家で生まれ、そこで育っている。

 劉艶月さんに当時劉家の間取りを書いてもらった。前庭、後ろ庭を囲んで一〇以上の部屋がある大きな屋敷である。

 二〇〇七年三月二二日、私は劉艶月さんの夫の辺郡英氏に案内されこの家を訪ねた。二度目の橋頭訪問であった。

 橋頭街の中心地、数日前に降った雪が融けて、泥の川のような大通りに面して元の劉家の大きな門が有った。その門の両脇に、それぞれかって薬や、酒や油、米、小麦粉、雑貨、などを商っていた店と帳場などが並んでいたそうで、現在は美容院、クリーニング店などになっていた。

 門をくぐり奥に入ると、中庭を囲んで正面に母屋があり、劉仁は母屋の半分を占める広い部屋に住んでいたそうである。その向かい側に劉仁の両親の住んでいた部屋があり両脇に大きな倉庫がある。

 さらにこの裏にもう一つ庭がありそれを囲んで劉家の営む製粉所や搾油所があり、その脇には劉維箴の家族や使用人の住んでいる大小の部屋が、幾つもあったということであった。敷地はおおよそ二〇〇坪くらいであろうか。

 屋敷の裏に廻るとすぐ目の前は大きな川(太子河)で、中国では珍しく澄んだ水が流れていた。

 この屋敷は一五年前に劉艶月さん夫婦が本渓に転居した後は住む人が無く、母屋の屋根に久草がぼうぼうと生い茂り、窓ガラスはほとんど割れていたが、柱や壁はまだしっかりと屋根を支えており、在りし日の劉家の盛んな暮らし向きをかすかに伝えていた。

 劉仁は官費留学生であるが、兄に続いて日本に留学した弟の劉介庸は私費留学生であった。この二人の留学生活を支えるには実家から可也の仕送りが必要であったはずである。

 劉振邦の優れた商才と三男劉維箴の勤勉さによってこの大家族が維持されていたことが、この屋敷跡の大きさからよくわかる。

 このような家に育った劉仁は、暮らしに困らない裕福な商人の長男であり、おっとりしているが、正義感にあふれた好青年であった。

 『緑川英子与劉仁』によると、劉振邦は商売だけでなく、公共の事業にも貢献しており、たとえば、橋頭街に「義郷慈善会」という組織を作り貧しい人々の救済に務めたり、近隣の揉め事の仲裁を頼まれたりしていた。

 さらに橋頭には、橋頭の鉄道の駅や、通信所に働く日本人がかなり居住していた。

 劉振邦は子どものころ、生活のために、日本人の所で働いていたので、日本語に長けていた。それで日本人との難しい問題も上手く街の人々との疎通を図り、実情にあった解決をしたりして、多くの人から信頼されていた。

 しかし、これは当時この地方を支配していた日本の関東軍が、その街の統治を中国人が行っているかのように見せるための手段として劉振邦を利用していたのであって、実権を握っていたのは、副会長の上村某という日本人であった。

 このように劉振邦は日本人といろんな面で協力もし、商店街長として付き合いはしても、同時に中国人の良心、民族感情から売国奴と呼ばれるようなことを潔しとはしていなかった。

 そこで、この地帯で活動する抗日勢力には当然暗黙の協力をしていた。

 1938年(昭和13)四月二十五日、抗日義勇軍の二人の幹部をこっそり家に泊めたことを、スパイに密告され日本の憲兵隊に捕らえられた。すぐに麻袋に詰め込まれて連行され、そのまま打ち殺されてしまった。

 彼らは劉仁の行方も執拗に問いつめたが劉振邦は一言もそれに答えなかったという。

 劉仁はこの時、テルと共に香港に居たのだが、職が無く、住む所にも、食べることにも困窮している上に、国民党スパイの目を避けて暮らしており、故郷に連絡を取ることもできないでいた。

 当然家族は彼の行方を知らず、答えることもできなかったが、仮に知っていても父は決して息子の所在を明かすことはしなかったであろう。

 


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