碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (94)

2019年08月28日 17時30分51秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (94)

        (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

   日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

  (以下今回)

 宮本正男氏に送られた、長谷川テルの遺児、劉星と娘、劉暁蘭からの手紙があるので、これを紹介したい。題して「テルの子として」である。

 宮本正男氏の紹介の文をはじめにあげる。

 以下にかかげる三通の手紙は、長谷川テル・劉仁の遺児二人から届いたものである。 1951年(昭和26)、由比忠之進の″発見″以来、長い音信不通の時間が流れた。この間、中国と日本のエスペランチストは二人の遺児の消息を求めて、息の長い、だが熱心な調査をつづけていた。

 そして1978年(昭和53)4月、相次いで二人からの手紙を受け取ることができた。劉星の手紙は原文のまま掲げる。                                                  「テルのこ として」 ② 劉 暁蘭

 宮本様    長谷川テルの娘である私の心からの感謝とあいさつを、どうぞお受けください。  四月二十日(1978年)にあなたのお手紙を受け取り、あなたがいままでずいぶん精力的に私の母長谷川テルの生前における革命的業績の文章を作られたことを知りました。

 五月二日にはあなたのお送りくださった貴重な著作『反体制エスペラント運動史』を受け取りました。私はまだすらすらと日本語が読めませんが、亡父母の写真を見て母に関する個所をざっと目を通しました。

 私は潮が満ちるかのように、長いあいだ平静を失ってしまいました。日本民族が軍閥政府の駆使の下で戦争の危険にさしかかっていたときに、私の母長谷川テルは毅然としてイバラに満ちた正義の道を選びました。

 このことは当時の国内条件と国民感情の中で、大きな勇気と卓越した英知を必要としました。真理と正義、日中両国人民の平和友好と明るい未来のために、母は一切の非難と多くの苦痛を耐えしのびました。

 母は正義のために、うむことなく奮闘し、真理のために屈することなく、日中両大民族の友好の歴史の中にはっきりと有益な足跡を残しました。

 母がこの世を去ってから、もう三十余年になりますが、人びとがいまでも母をなつかしみ、忘れないでいてくれます。私はこのような母を誇りに思います。母はいつまでも、いつまでも、私の心の中に生きています。

 今日、日本で近く母の重要著作集が出版されることを知り、私は感動をおさえることができず、気持が高ぶっています。母の一生はとても短かったのですが、自分の民族、世界人民の平和に、恒久的な力強い足跡を残しています。

 一方、私自身としては、いままで日中両国の偉大な民族の友好事業に寄与する力がなかったことをはずかしく、心苦しく思っています。今後亡母の意志から行動力を吸収し、前進を早めたいと存じます。 

 私はもっとくわしく語り、自分の感想を述べることができません。このことはあなたを失望させますが、どうぞご諒解くださいますように。私は必ず努力してあなたの作品『反体制エスペラント運動史』を読みます。そして知恵と力を吸収します。

 平和への叫びは永遠に必要であり、日中両国人民の友好を両国民とともに真に念願していると私は信じています。この友好運動を促進するなかで、私はしっかりと母の意志を引き継ぎます。

 宮本様  次のことについて、あなたが不思議に思われるのではないかと考えます。それは、長谷川テルの娘である私が、今まで母の著作を理解していなかったことです。もっといえば、 一篇も読んだことがありません。「長谷川テル重要著作集」が出版されましたら、どうぞ私どもを喜ばす意味で、お忘れなくご送付くださるようお願いします。

 宮本様  兄はすでにあなたのお手紙を受け取り、日本語でお返事をしました。まもなくお手元に届くことと存じます。当地から、私もあなたにお知らせします。私と兄は中国政府と中国人民の配慮のなかで順調に成長し、十分な教育を受けました。

 劉星(兄)は中学を卒業後、一九六一年(昭和36)に北京大学技術物理系に入学、一九六七年(昭和42)に卒業、その後、四川省江油のセメント工場の子弟中学で教員をしています。

 私は中学卒業後、一九六四年(昭和39)に唐山鉄道学院電気系に入学、卒業後の一九七〇年(昭和45)から寧夏回族自治区の中衛鉄路学校で教員をしています。

 宮本様  最後に、日本で母の著作の整理、出版、母の業績と献身を書くために貴重な精力と時間を費やしておられるすべてのかたがたに、私の心からなるあいさつをお伝えくださるように、お願いいたします。

 心からなるお礼を申し上げ、ご健康をお祈りいたします。

  一九七八年(昭和53)五月三日                  劉 暁蘭                                                                 (中山 欽司)

 尊敬する宮本正男様 

 お元気ですか。心からのあいさつを送ります。  あなたのお作『反体制エスペラント運動史』を受け取って、自分の母をより多く知ることができました。

 それまで母について、あまり知りませんでした。日本人であり、反戦活動に従事した、ということだか知っており、母の経歴、家庭、その他についてよくわかりませんでした。まして著作につきましては。

 あなたのお心づかい、ご援助に感謝します。まだくわしくお作を読むことはできませんが、すでにこの作品が私の生活に何らかの作用を与えていることを感じます。母の一生の意義を教えてくれます。 (中略)

 今まで私たちは、日本で多くの友人のみなさんがこのように母について文章にしておられることを知りませんでした。

 いまでは、日本人民の心をずっと身近に感じられるようになりました。自分が日本語で感情を表せないこと、また適切な言葉をもって、尊敬する先輩に敬意を表明できないのが残念です。                 

               あなたの生徒                    劉 暁蘭

    一九七八年(昭和53)  六月十三日                                 (中山 欽司)


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