碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (93)

2019年08月28日 17時30分02秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (93)

        (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

   日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。   (以下今回)

 宮本正男氏に送られた、長谷川テルの遺児、劉星と娘、劉暁蘭からの手紙があるので、これを紹介したい。題して「テルの子として」である。

 宮本正男氏の紹介の文をはじめにあげる。

 以下にかかげる三通の手紙は、長谷川テル・劉仁の遺児二人から届いたものである。 1951年(昭和26)、由比忠之進の″発見″以来、長い音信不通の時間が流れた。この間、中国と日本のエスペランチストは二人の遺児の消息を求めて、息の長い、だが熱心な調査をつづけていた。

 そして1978年(昭和53)4月、相次いで二人からの手紙を受け取ることができた。劉星の手紙は原文のまま掲げる。                                                  「テルのことして」 ① 劉 星

 親愛なる宮本正男様  お便り本当に有り難うございました。

 私は四十日程前に利根光一様からいただきました『テルの生涯』の中に、あなたが「長谷川テルの生涯と事績」等の文章を書いたものだと存知ました。

 私は長谷川テルの子としてあなたに心から感謝し、尊敬しますが、今迄あなたと知り合う機会がありませんでした。ですから、思いがけないお便りはわたくしにほんとうに大きい喜びを齎らしまして、わたくしは非常に感動しました。

 お便りのお蔭で、わたくしは東京のある本屋から「長谷川テル重要著作集」というのを出すのが決まりましたと存知ました。わたくしはこれが亡母を記念するには大切な意義を持つことだと思います。

 わたくしは平凡なひととして、こんなに重大なことに対して、たとえ一つの句の話をしたら自己を恥ずかしく思います。

 だがわたくしは長谷川テルの子として、あなたおよびその他の一切の亡母の著作を片付けて出版し、亡母の事績を書くために貴重な精力と時間を捧げた友人に心からの敬意と感謝を示す機会があれば、これはわたくしの幸いです。

 わたくしはあなたが送りました本を、まだいただきませんが、どうも有難うございました。お暇があればどうぞお体、ご工作をおしえてください。お願いします。  ご健康をお祈りします。

 一九七八年(昭和53) 四月二十八日  <付記> わたくしは日本語を勉強しておりますが、言葉の面では、あやまりがたくさんあるにちがいありません。             (原文のまま)


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