碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (98)

2019年08月30日 21時33分07秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (98)

          (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

  (三)劉仁の生い立ち

 劉仁は1909年生まれで幼名を双酉といった。1916年、7歳で私塾に入り、よく年橋頭街にできた橋頭商立国民小学校に入学し、4年後卒業する。

 橋頭には高等小学校がなく、4年後の1920年秋に、本渓県立第一高級小学校を受験し、第三位の成績で合格する。この受験は家の者に内緒であった。

 この学校は当時の鉄道の本渓駅から南に歩いて10分あまりの小高い丘の上に建っていた。現在は本渓第二中学となっている。校庭から北に道路を挟んだその向こうに、本渓湖から流れ出てきた水をせき止めた水源地があった。

 遼東半島は東北三省の中でも内陸部の吉林省などに比べ、水に恵まれた肥沃な土地であり、さらに鉄や石炭などの鉱物資源もあり、渤海湾に面して大連や栄口などの港も早くから開けていた。

 1922年夏、高級小学校を卒業した劉仁は、同年秋、営口の水産学校に入学する。ここは漁業や、養殖などを教える専門学校であった。

 2007年三月二三日、私は瀋陽南駅長距離バスターミナルから午前七時三〇分発、営口行きの長距離バスに乗った。瀋大高速道路を西南へ186㌔、バスは休憩無しに走り、約二時間半で営口に到着した、

 営口市の档安館を訪ねる。ここに劉仁の学んだ営口水産専門学校と劉仁個人の記録が有るのではないかと考えたのだ。  档安館の係員はその学校の資料があるといい、一冊の薄本を見せてくれた。

 係員は「1922年当時、営口にあった水産学校はただの一つでこの学校に違いありません」と教えてくれた。

 その記録によると、営口の奉天省立水産高級中学校(前身は乙種水産学校、明国13年設立)とあり、所在地は営口双廟子南街で、制造、初級漁労科などがあったと記されていた。またこの係員は私をその水産学校の建っていた場所に案内してくれた。

 そこは現在営口市立中学となっていた。校門を入ってすぐ右にロシア式建築と思われる三角屋根、とき色の壁が鮮やかな洋館が保存されてあり、これは劉仁が在学当時の水産学校の建物の一部であるということであった。

 広い校庭で中学生たちが元気に体操をしていた。残念なことに、劉仁個人の档安、つまり個人の記録は閲覧させてもらえなかった。

 劉仁の親戚などであれば、閲覧は可能であるとのことであったが、外国人が档安を閲覧するには、北京の外事処の許可が必要だととのことであった。

 私は、北京の外事処許可が必要だということさえ思いつかなかった自分を反省するとともに、とりあえず劉仁の学んだ学校の所在地が確認できたこと、現在も当時の学校の建物が大切に保管されていることを知ることができ、非常にうれしかった。また突然訪ねた私に便宜を図ってくれた係の人に感謝した。

 営口は遼東湾に面した港町で、元の水産学校の500㍍くらい前を満々と水を湛えた大遼河が流れている。この河は水産学校の西で流れを大きく南に蛇行し遼東湾に流れ込む。 水産学校のある側から対岸まで1㌔くらいもあるのだろうか、対岸の工場群がかすんで見えた。

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。