ebatopeko②
長谷川テル・長谷川暁子の道 (92)
(はじめに)
ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。
この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。
このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。
またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。
その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。
実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。
長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。
長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。
日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。
そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。 (以下今回)
鹿地亘氏の夫人で、重慶でテルらとともに抗日活動に加わった池田幸子氏は、中国の文化人と接触が多く、魯迅の最期を看取ったという。残念ながら1976年、本書編集途上に亡くなられた。
彼女、池田幸子氏が『抗日戦中の″緑川さん″』と題する一文を寄せている。
池田幸子『抗日戦中の″緑川さん″』
私たちは、八年間も「戦う中国」でいっしょのところにいましした。チャムスで病死したという説もある、ときいて大変心配しています。
抗日戦争の始まった年(1937)の秋、長谷川さん夫婦は中国の憲兵隊につかまって、鹿地亘と私のところに救援をたのむと手紙がきました。
そのころ、郭沫若の軍事委員会政治部第三庁には葉籟士初め、亜克、サニオさん(注:亜克、サニオ、ともに本名など不明。亜克はあるいは丁克の誤りかとも思われる)など多くのエスペランティストがいたように記憶します。
それらのエス語の友人や日本人の保護者であった郭沫若たちの助けで、無事漢口へきて自由になりました。それから、当時国民党中央宣伝部国際宣伝処対日科長、日本にはおなじみの崔万秋さんのところで、放送の仕事をしていました。
武漢陥落の三カ月前に、国際宣伝処といっしょに湖南省衝陽に疎開し、しばらくして桂林を経て、私たちより一足さきに重慶へゆきました。
あとから一人で重慶へついた私は、上の娘が生まれる直前で、家もなくたいへん難儀をしましたが、長谷川さん夫婦の世話で、彼女がもらっていた宿舎の一室をかりていっしょに家をさがしました。
やっと四川人の金持ちの二階に落ちつき、向かい合わせの部屋に住んでそこで仲良く日本式料理などをつくって食べたものでした。
劉仁さんが遼陽の人で、私も遼陽生まれなので、同郷人というわけで兄弟もおよばぬ世話になりました。劉仁さんも長谷川さんもいっしょに国際宣伝処につとめていました。
長谷川さんは緑川英子、またはベルダ・マーヨといいました。劉さんはかんしゃく持ちで親切な人でしたが、長谷川さんはおとなしい、知的な人で、夫婦げんかはもっぱらエスペラントでやられるので、なんのことかサッパリわかりませんでした。
そのころー昭和十四年と思いますーから長谷川さんは微熱を出し始めました。夫人の身体を心配して劉さんはよく科長の崔万秋さんとも口論をしたらしく、長谷川さんも次第に反動的になってゆく国民党機関にいやけがさしてきたようです。
一年近く、寝たり、起きたりの病人になり、放送の仕事もやめ、劉仁さんもやめました。それか郭沫若の第さん庁に入り、重慶の大爆撃をさけて田舎に疎開しました。
長谷川さんがようやく丈夫になると、劉さんが腎臓で長わずらいをしました。 昭和十五年(1930)には反戦同盟もでき俘虜収容所もあるので、そのころはよく仕事をいっしょにしました。
十六年に″星々″という男の子が生まれて、劉さんも丈夫になりましたが、それから終戦までどんなにしてすごしたか、目と鼻の間にいながら私の戦争ボケのせいであまり記憶がありません。
私は戦争が終わりに近づくにしたがって日本のことばかり考えるようになり、彼女は中国人として東北にゆくことを考えていたかもしれません。
終戦のとき、二人目の子どもを生んで上海まできたということを、日本へ帰ってから大公報駐日特派員の高臨渡夫人から聞きましたが、結核で子どもを二人も生んだのですし、その後の動乱の生活の中でなくなったというのも、あるいはほんとうではあるまいか、と思われます。