碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (91)

2019年08月27日 20時18分16秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (91)

        (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。                         日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。  エスペラント学研究者の高木 弘氏は『長谷川テルのこと』と題して、大陸に渡る前の彼女のことを記している。

  高木 弘『長谷川テルのこと』 ③

 (前回まで)

   一九七年の秋、九州で日本エスペランティスト大会が開かれ、私はそれに出席したが、その折り、たまたま名古屋の若いエスペランティストから、タイプで打った一枚の手紙を見せられた。

 それは、中国の古いエスペランティストから、彼が受けたとったもので、彼が尋ねた長谷川テルの遺児の消息について記されていた。それによると、彼女の子どもは現在、四川省で元気に暮らしているとのことであった。

 彼女には子どもが二人あったのだが、そのいずれであるのかはわからなかったが、テルの遺児が健在であるとの知らせは、私の心を暖めるものであった。

 いまは、壮年であるべきその子が、母親のことについてどれだけのことを知っているのかわからないが、幼くして死別した日本人の母親の志を生かして中国の社会主義建設のために働いているとの知らせは、長谷川テルが私たちの前から姿を消して、風雲急な中国に渡ったときから過ぎ去った時間の長さをしみじみと、私に感じさせた。

 それは四十年に近いときの流れである。 

 長谷川テルが奈良女高師を追われて東京に、積極的にエスペラント運動にたずさわったのは一九三三年のことであった。そのころ、プロレタリア文化運動ははげしい弾圧のもとにありながら、まだ活気を残していた。

 プロ・エス運動の中核をなしていた日本プロ・エス同盟「ポエウ」は、まだ存在していたが、その政治的活動が弾圧の対象とされ、その動きは次第に弱まっていった。しかしその外では、人民戦線的立場に立った、いろいろの集まりがかなり活溌に続けられていた。

 テルはそういう集まりに、よく顔を出した。たとえば、彼女が東京へ戻った年の七月八日には秋田雨雀を迎えたエスペラント文学会主催の集まりに、姉とともに出席した。雨雀は文学者・社会活動家としてはめずらしくエスペラント運動に関心を持ち、たえずその運動のために活動した人である。

 彼の誕生五十年を記念して築地小劇場で、盛大な祝いの集まりがあり、その記事は中国でも伝えられ、上海で出していたエスペラント雑誌『ラ・モンド』にも写真入りで大きく紹介された。エスペラント文学研究会もそのことを祝って、雨雀をよんでその話を聞いた。

 秋田雨雀はその日のことを日記に「僕の五十年の思想的社会的関連性について話した。十二、三名の女性を加えた六十名ほどのエスペランティストが集まった。エスペラントということに拘束されずに話を自由に進めていった。二時間ほどにわたって話した」と書いている。 

     そして、その会の終わったあと東京エスペラントクラブと、共催で水道橋の愛光園で開かれた祝いの晩餐会について「午後七時ごろから愛光舎の二階で晩さん会を開いたが、大変な盛会だった・・支那の三人ほどの同志がエスペラントの演説をしたのは強い感動を与えた。温かい自由な、しかし成功的な会だった」と記している。

 このようなエスペラント環境の中で、テルは、いろいろの会に出席したり、エスペラントの仕事をてつだったりした。そして、彼女は一九三七年(昭和22)に日本を脱出するまでの四年ほどのあいだに、いくつかの作品をのこしていった。

 彼女は、その主な作品を日本エスペラント学会の機関誌『ラ・レブーオ・オリエンタ』とエスペラント文学研究会の機関誌『エスペラント文学』に発表した。前者には、日本文学史の短い紹介と平安朝文学の小品「堤中納言物語・虫めづる姫君」を寄稿した。

 奈良女高師で国文学を学んだ彼女は、平安朝文学によく親しんでいた。いつだったか、その時代の文学作品について、私たちがなかなかむづかしいといったのに対して、どうしてそれがよみにくいのか不思議だ、と私にいったことがあったが、そのときに真剣な面持ちからみて、彼女がふつうには難解とされる古典文学をよく読みこなしていることが推測できた。

 そして彼女のこのような素養が、社会的な解釈をもとに手短かにまとめられた日本文学小史を彼女をして書かせたのであり、また特異なテーマを描いた堤中納言物語の小編を訳させたのだと思われる。

 しかしそのころ、彼女がエスペラントへの情熱を燃やしたのは、その文学的創作の才能を生かしておこなったエスペラント創作文学のための仕事であった。『エスペラント文学』に発表したいくつかの作品や日本におけるプロ・エス文学雑誌『マーヨ』への執筆、フランスのブルギニョンを中心とする国際プロ・エス文学への積極的な協力は、日本脱出を前にしたわずかの期間に激しく示された彼女のエスペランティストとしての行動の、具体的な表れであった。

 彼女が東京で活動したころは、いわゆるプロレタリア文学の波の高まりが、政治的な弾圧のもとで沈静させられ、それとともに機械的形式主義が反省され、内省的な傾向を見せたときでもあった。

 エスペラント文学研究会は日本におけるエスペラント文学の発展を目指して創られたものであったが、その創立の動機は、エスペラント運動としてのプロ・エス運動の無力化が進む中でプロ・エス系ばかりでなく、ひろく中立的エスペランティストを対象に、彼らのエスペラント文章をつづる力を高め、作文の技術を向上させることを第一の目的としたものであった。

 しかしそれはまた、日本のエスペランチストの欠陥であった原作・翻訳の発展をも目ざすものであった。終刊まで二十号発行されたその機関誌『エスペラント文学』は、この目的に沿って、かなり充実した内容を持つことができた。

 それには、エスペラント文学界の情報やエスペラント文学論などともに、毎号、エスペラントによる文学的作品も載せられた。その中にあって、長谷川テルの書いたものは、人目をひくものであった

     (以下今回)

 彼女は、『エスペラント文学』誌上で、まとまった作品としては″Ses Monatoj″(本書第Ⅲ部所収「六カ月」)と″Printempa Frenezo  ″(「春の狂気」)の二つの作品を発表した。

 前者は、一九三〇年代の日本では一般的な現象であった失業問題をとりあげ、真面目な勤労者が失業の泥沼にあえぐ姿を冷静に描き、後者は、彼女の奈良での学生生活を背景にして、社会的混乱の中に苦悩する学生の青春の動揺をテーマとするものであった。

 その文章は、のちに中国に渡ってから書いた作品にくらべて洗練されたものとはいえないが、それには、翻訳調のアカを落としたハツラツとしてスタイルが見られ、荒っぽいくらいに自由な用語法が目につくものであった。

 古い家族制度にしめつけられて生きていた、当時の若い女の内に秘められた奔放な熱情が、圧迫をはねのけて溢れ出たように感じられるものであった。切れ味のよい短い文をたたみあげて、キビキビと綴られた文章は、他の人たちの型にはまった文体とはいちじるしい対照をなしていた。

 そのような形式と内容を持った彼女の作品は、私たちしてエスペラント作家としての彼女の将来に大きな期待を抱かせたのであったが、たまたま結ばれた中国エスペランティスト(劉仁)との縁によって、彼女にたいする私たちの期待は日本においてはついに実現されるにいたらなかった。

 しかし、それは戦乱の慌ただしい中にあった中国において、見事な実りをみせたのであった。国内動乱の落ち着かない環境の中にあって、彼女は時局的ないくつかの文章をつづるととともに、ドキュメント『戦う中国で』『嵐のなかのささやき』をまとめた。

 前者はついに完結を見るにはいたらなかったが、そこには、彼女の持つすぐれた才能が女性らしいなよなよしたものとは無縁な、簡潔にしてたくましい文体をとおして発揮されていた。 

 日本と中国の真の平和共存のために貢献した人の数は、歴史に記されているだけでも少なくないであろう。しかし、近代における不幸な日中関係の状態の中にあって、献身して両国親善のために力をつくした人は少ないであろう。

 しかも「祖国」日本に抗して日中人民の真の友好のために活動し、その骨を中国に埋めた日本女性は、長谷川テルをおいてほかに存在しなかったのではなかろうか。

  エスペラントを学び、そのための運動にたずさわる者の多くは、その創始者ザメンホフの志を体して国際的言語生活における差別をなくし、対等な人間関係をきずきあげることを目ざしている。

 そしてエスペランティストとして長谷川テルは、一九三〇年代末期における日中対立の状況の中で、すすんでその摩擦の中に身を投じ、闘争による和平の道をえらんだ。

 今日、彼女の活動とその意義とは、日本においても、また中国においても、いまだ十分に評価されてるとはいえない。また、今日の状況からして、中国における彼女の活動の跡をたどることも充分になしえない。

 しかし、人類平和を念願してエスペラントを創ったザメンホフの志を一九三〇ー四〇年の混乱した時期に正しく生かし、アジアの平和のためのかけ橋となり、その短い生涯を終えた一日本女性の存在の意義は、将来においてより深く人々にみとめられるであろう。

 私が彼女に最後に会ったのは、一九三〇年代の半ばをすぎたころ、本郷のアパート一室で開かれたエスペラント文学研究会の委員会の日であった。

 それは、雨のふりつづいた日のことであった。水道橋の駅で待ち合わせた彼女と、雨の中を後楽園のヘリの舗道を並んで歩いていった。

 そのとき、彼女は水色の絹のコートに身をつつみ、朱い足駄をはいていた。灰色に煙る雨の中に際だったその色彩の鮮やかさは、そのしばらく後に姿を消して大陸に渡っておこなった果敢な行動とコントラストをなして、彼女についての私の遠くはるかな思い出のなかに、いつも浮き出てくるのだる。

 


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