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碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川企救男の欧米見聞記 (64) 番外編(8)

2012年07月23日 10時01分19秒 | 碧川

    ebatopeko

 

    碧川企救男の欧米見聞記 (64) 番外編(8)

 

    (私の見た英国の婦人)    倫敦にて(1919.6)         北蜂生
                    
        (3)キマリ良い習慣     

  (前回まで)

 鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男はは、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
 
 中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。『中央新聞』に載せた紀行文を紹介したい。
 彼のジャーナリストとしての、ユーモアをまじえた鋭い観察が随所に見られる。

 ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。

 三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。

 横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。

 碧川企救男はコレア丸で太平洋を横断しアメリカ西海岸に着いた。そのあと鉄道でアメリカ大陸を横断し、東海岸からさらに大西洋を越えてパリの講和会議を取材した。そのあとイギリスに渡ったのである。

 碧川企救男の「初見聞」と題する紀行文は前回の(56)で終わりであるが、番外編としていくつか記しているので、これを取り上げたい。
 

    (以下今回)

 碧川企救男の下宿屋の家庭で、英国一般の家庭を論ずることは勿論出来ませんが、それでも娘二人が相当に教育のある処から見て、家具などの揃っている処から見て、この下宿屋は決して余り悪い家ではないのです。

 それでいて、なおこの娘二人が三十、四十になるまで独身でいて、しかも平気でいるなどは、如何に英国の女が男に化けつつあるかが想像できます。

 その上に戦争(第一次世界大戦のこと)以来、英国人は特に生活という事に苦しい思いをしていますから、その生活費のごときも切り縮められる限りは縮めております。

 戦争前までは食べ物も安くて、幾らでも食べられたのですが、ひとたび戦争が始まって食糧を制限せられるようになってからは、碧川企救男の下宿などでも余程考えたようです。

 古くから下宿している人の話を聞くと、戦争前まではこの家でも昼ご飯と晩ご飯の間には、お茶(おやつ)の時間がこしらえてあって、一家族みな揃ってお茶を飲み、お菓子を食べたものだそうです。

 しかし物価騰貴の結果、このお茶をやめて晩ご飯に併合して、晩ご飯の時間を繰り上げ、
お茶とも晩ご飯ともつかぬものを食べております。これなどを見ても、英国の女のつつましい処が知れるではありませんか。

 もっとも英国では今も尚、区役所に行って食糧の切符を貰わなければ、お砂糖やバターは買えないのです。ですから窮余の策として、こういう工夫をし出したのでありましょう。

 もう一つ此の家で碧川企救男が感心していることは、下女が仕事をするのに如何にもキチンキチンとしていて、自分の仕事をやっている事です。そして家族の者が滅多に大きな声でこの下女を呼んで何をしろ、彼をしろと命じたのを聞いたことがありません。

 下女は与えられた即ち約束だけの仕事をすればそれで足りるのです。そして残った時間は下女のものですから、下女は勝手にどこへでも遊びに行きます。下女がチャンと着物を着替えて公園の散歩などに出掛けるということは日本では想像も出来ません。

 キチンとしている習慣には実に感心であります。碧川企救男が時々行く料理店には二人の給仕女がいます。その一人が食事をするときに、一人はチャンと普通のお客を扱うように注文を聞き、料理だのお茶だの菓子だのを運んで来てやります。

 そしてその一人の女はじっと座ってお客になりすまして、ご飯を食べてしまいます。そしてご飯が済むと、勘定を払うのです。これはこの料理店と女との間には食事付きで幾らという給料の約束がありませんから、いちいち自分で食っただけを主人に払うのです。

 この辺にもいかにもキマリのある処が、英国婦人の美点で、キマリきって少しも女らしくない処が、英国婦人をして、今日のようにならしめたものでありましょう。
                            
 ここでは、碧川企救男は英国の下宿で感じた英国女性の生き方、ルールに感心している。すなわち、第一次世界大戦を経験して、英国では女性の毎日の生き方がいかにも慎ましいことに感じ入っている。

 また、その生活の仕方がいかにも合理的で、例え下女(日本風にいうと召使いか)でも、勤務時間ははっきりしており、時間が過ぎれば下女は自由に自分の時間を過ごすことが出来るなど、絶対に日本では考えられないと、碧川企救男は心底驚かざるを得なかったのであった。



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