ebatopeko
碧川企救男の欧米見聞記 (65) 番外編(9)
(私の見た英国の婦人) 倫敦にて(1919.6) 北蜂生
(4)男子と同様に
(前回まで)
鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男はは、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。『中央新聞』に載せた紀行文を紹介したい。
彼のジャーナリストとしての、ユーモアをまじえた鋭い観察が随所に見られる。
ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。
三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。
横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。
碧川企救男はコレア丸で太平洋を横断しアメリカ西海岸に着いた。そのあと鉄道でアメリカ大陸を横断し、東海岸からさらに大西洋を越えてパリの講和会議を取材した。そのあとイギリスに渡ったのである。
碧川企救男の「初見聞」と題する紀行文は前回の(56)で終わりであるが、番外編としていくつか記しているので、これを取り上げたい。
(以下今回)
英国の婦人は堕落したという一般の世評である。しかしこれは男から見た事で、女自身にとっては向上であるかも知れません。
蓋し、どこに英国婦人が堕落したという実証があるかというと、いつでも数えられるのは、英国婦人が従来のような温順な性質を失った事、そしてすべての行為が野卑になったことを指摘しています。
しかし温順な性質を失うのは、婦人が男子のようになったからには、当然に来るべき結果ではないでしょうか。
分かりやすい例として、婦人が電車に乗っている時に、従来男子はこれに席を譲ったものです。しかし現在においては、婦人の方から席を譲ってもらいたくないのです。これは英国における労働者対資本家の争いにも似ています。
労働者は従来賃金値上げなどの場合には、臣下のようにして資本家に頭を下げたものです。しかし今日ではストライキという武器を使用してその都度々々に資本家を苦しめております。
即ち被告人を裁判所に引っ張り出して裁判するときに、まったく対等ですべての問題を解決しようというのである。
英国の婦人が男子と同等になりたがっている結果、従来のような温順性を失ったのは自然である。
婦人が野卑になったことは争われません。今まで婦人は絶対に喫煙せず、絶対に酒を呑まないことを美徳としていたものが、煙草を吸い、酒を呑むようになりました。がしかし、これも考えようです。
戦争前(第一次世界大戦のこと)に仏蘭西の婦人参政権論者は、仏蘭西国刑法に婦人は絶対に死刑を科せぬという条項のあるのに大反対をして、婦人にも死刑を科せよと争ったことがあります。
これは男子と同様になりたいからです。煙草を吸い、酒を呑むことが男子のみに与えられた特権だと考えていることは、人間に二つの類があるとするのと同様で、間違った考えではないか。
人間には男女の区別はあっても、人間たることは何の区別もない筈である。区別がない以上、婦人が男のような行為があるからとて、直ちにこれを野卑だなどと言うのは、むしろ男子からいう議論です。
すでに英国では七月に入ってから、男女両性の区別を取り除いた法律が施行されました。そしてすべての人は男子女子にかかわらず、その職業上に敬意を払うことを要求しうるようになっています。
そしてこの結果は、英国にはやがて婦人の貴族が出来るはずであります。婦人の上院議員が出来ても差し支えなくなった。英国婦人の進歩は実に驚くべきものではありませんか。
碧川企救男は、一方日本の現状を考えるとき、政治的には女性が政治に参加できないシステム制度が、女性に参政権を与えていないこと。さらに社会的にも女性蔑視の風潮が依然として蔓延していることを痛烈に批判しているのである。
このようなヨーロッパでの、女性のめざましい活躍の様子を、碧川企救男は遠く英国から日本にいる妻「碧川かた」に書き送ったのである。
それを知った「碧川かた」が婦人参政権獲得運動を市川房枝などと共に展開したことは、前に私のブログ「鳥取県の生んだ女性解放の先駆 碧川かた」でくわしく記しているところである。