アセンション アシスト ASーAS

地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

霊界通信2の5、宗教の真実と悟り、小桜姫のメッセージ

2020年09月28日 | 情報
小桜姫のメッセージ、続けます。この中で語られている、日本が世界の盟主(中心)として活動をする日、というのは,まだ、その兆候が、あまりありませんが、これは、先だってのベーエルダ人のメッセージにあった事情も絡んで、遅れているようです。私達、地上人の努力も求められているのが現状だと思われます。カッコ内は補注です。編集を加えてあります。

(ここから)

9.男の霊と女の霊

さて、ここからは、「男の霊と女の霊」についてお話いたしましょう。

あなた方の、地上では、今、男女同権運動が花盛り(1980年代)でして、女性も、男性がやることなら何でもやってみたい、と主張しています。事実、子供を産むこと以外では、男女の性差は縮まりつつあるのは確かです。

では、霊的に見て、男の霊と女の霊の区別は、一体、何なのでしょうか。肉体がない以上、男女の霊の、気質的な相違は、それほど問題ではないと思われます。とすると、男の霊と女の霊の違いは、単に、地上に生活していた時に、男女の区別が肉体上にあって、それが、帰天して後も魂の記憶として残っている、だけなのでしょうか。

でも、そうであるなら、肉体を去って何百年も経つと、生前の記憶も、あやふやになり、男女の区別は、なくなって行きそうにも思えます。しかし、実際は(霊界でも)男女の区別は、ずっと続いています。

やはり、男女は、肉体的に差があるだけでなく、霊的にも差異がある、という事なのです。フランスの有名な女性哲学者で――そう、ボーボワールとか言いましたか――その方が、女は女として生まれるのではなくて、女になるのである、つまり、女として仕込まれるのだ、と言っているそうですね。でも、この女性知識人の定義は、間違っています。女性は、肉体的に女性に生まれる前に、魂として女性だから、です。少なくとも、それが、普通の場合です。

キリスト教の物語(創世記)では、アダムとイブと言って、男性である、アダムの肋骨を取り出して、女性であるイブを創った、という事に、なっているそうです。

この物語を、そのまま信じられませんが、少なくとも、神のご意志によって、まず、男女が、霊として分けられ、次に、地上界へも、男女別々の肉体を採って現われたのは、どうも事実の様です。私が、様々な指導霊に訊いた限りでは、やはり、まず、霊的に男女が、次に、肉としての男女が分けられた、と、皆さん一致して、おっしゃっています。

どうやら、神様は、人霊となるのに、ふさわしいほど発達した塊を、一堂に集められ、その中で、陽性の強い魂に、男の霊となる事を命じ、陰性の強い霊に、女の霊となる事を命じられたようです。

この二種類の霊群は、男の霊は男の霊として、永年の転生輪廻を繰り返し、女の霊は女の霊として、永年の転生輪廻を、それぞれ、繰り返し、やがて、その過程において、男性の属性、女性の属性というものが、かなり、はっきりし、固まって来たようです。

そこで、次の問題が生じて来ます。つまり、では、男性の霊は、永遠に男性で、女性の霊は、永遠に女性のままなのか、という事です。

この問いに対する答え、としては、九割までは、イエス、という事です。

やはり、男性として生まれた霊は、九割まで、次の生でも、男性として生まれる事を望み、女性として生まれる事は、あまり望みません。逆に、女性霊としても、同じ事が言えます。

残りの、一割の例外は、次の様な場合に限られます。

一、転生輪廻の過程で、恥じらい、慎ましさ、優しさ、内気、引っ込み思案、などの、女性特有の気質を、霊的にも濃厚に身に着けた場合、女性として生まれるにふさわしい魂、として選別される事がある。その逆に、勇敢、大胆、戦闘的、剛気、粗野、といった男性的要素を、転生輪廻の過程で魂に刻んで行った女性の霊は、ある肉体生命を境に、男性霊の系列に組み込まれる場合がある。

二、生前、女性であるがゆえに、迫害した男性が、カルマの刈り取りの為に、転生して、女性として生まれ、同じ様な迫害を受ける様に仕組まれる場合。逆もある。何れの場合も、本人の守護・指導霊の指示する所による。

三、女性の地位向上の為に、男性の高級霊が、女性の肉体を纏って生まれる場合。女性の政治家、官僚、経営者などに結構、多い。彼女らの言動を注視すれば、本当は、女性ではなく男性霊である事がよく分かる。

四、本人の強い希望がある場合。例えば、過去世に、何度も、戦争に加わった事がある男性の霊が、今世でも戦乱に巻き込まれそう、なので、男性として生まれて来るのを拒否して、女性で生まれて来る場合。

右の様な場合が考えられますが、何れの場合でも、本人の守護霊・指導霊が、性を転換する事が、本人の魂の進化に役立つ、と判断した場合に限られます。

ちなみに、母胎に魂が宿るのは、卵子が受精して約二か月後ですが、受精の際に、男か女かの合図が、霊界へ向けて、放送されている、のです。

それを聞き届けた、転生担当の役人が、例えば「今度の赤ちゃんは男の子である。」と宣言して、生まれ変わりを志願している霊の中から、候補者を決定するのです。勿論、候補者が、両親となる人の霊と縁のある魂、である事は、言うまでもありません。

では、男と女の霊の話は、この位にしておきましょう。


1.キリスト教と仏教

さて、ここからは「キリスト教と仏教」という題で、お話ししたいと思います。

あなたも、ご心配の通り、果たして、小桜に、こんな難しい話が出来ますやら、心配ですが、少なくとも、これは〈神霊世界入門〉的なメッセージですので、内容的に、易しいものは、易しいものなりに、読者に訴え掛けるものもあると思います。

さて、あなた方は、キリスト教や仏教が、同根である事も、当然の事として、信じておられます。けれども、一般の方々の考えは、必ずしも、そうではありません。一般の人々は、キリスト教は神様を拝むもの、仏教は仏様を拝むもの、といった具合に、違っているふうに、考えています。ですから、まず、キリスト教と仏教という、代表的な二つの世界的宗教を、引き合いに出して話す必要がある、と思います。

まず、神様と仏様が、違うものかどうか、から、話したいと思います。キリスト教では、イエス様は、神様の事を「天の父」とか「わが父」と言っておられる様です。これは、ニつの事を意味している、と思います。

その一つは、霊天上界には、イエス様が尊敬する様な、一段と高い霊、が居られる事です。そして、いま一つは、そのイエス様よりも、一段と霊格の高い霊、でさえも、人格霊としての性質を持っておられる、という事です。

恐らくは、宇宙の根源の生命を、神とするならば、その神が、人間的な知覚、理解能力を有している、にせよ、大宇宙の創造の神が、イエス・キリストの様な、一個の人間の肉体に、宿る訳ではない事は、ある意味では、当り前だと思うのです。

ですから、宇宙の本源の神、という様な、人間の認識を超越した様な、大エネルギー体は、さておき、普通の人間でさえ、優れた人と、そうでない人、との差があるのですから、まして、霊の世界では、心の世界が、純粋に反映されますから、偉大な霊と、そうでない霊との区別、境涯の差は、歴然としたものである、と思われるのです。

ですから、一般霊からするなら、イエス・キリストの如き人は、まさに、神が、肉身をまとって出現したもの、の様でもあろうし、イエス自らが父と仰ぐような霊人は、殆んど、神そのもの、と言って良いほどの、高級霊であります。

同じ様な事は、仏教でも、言えると思うのです。仏教というのが、何を指すのか、釈然とはしませんが、そもそもの意味は、ブッタ、悟った方、という意味であった、と思うのです。ですから、悟った方、という意味での仏様は、お釈迦様その人、と言ってもよいし、他の方を言ってもよいですが、少なくとも、大宇宙の根源の神様には、ほど遠い、と、言わざるを得ません。

やはり、仏様というのも、人並み外れた高級霊、という事です。

ですから、キリスト教は神様を信仰する、仏教は仏様を信仰する、と言っても、元々、異ったものを信仰している訳ではなく、究極的には、大宇宙本源の神を、信仰しているにしても、直接の、信仰の対象となっているのは、神に近き高級霊、高度な発達を遂げた人格霊、という事です。

これで、一番、根本的な話は、し終えた、と思います。第二点目として、キリスト教と仏教の、思想的違い、を話しておこう、と思います。

キリスト教の中心思想は、言うまでもなく、愛の思想であり「心を尽くして、汝の主なる神を愛せよ」「汝自身を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ」(と言う言葉)に代表される、愛の思想、また、許しの思想が、あったのだ、と思います。

他方、釈迦の仏教は、八正道を中心とした、自己完成の道、を説き、また、慈悲というものの大切さ、を説きました。

この違いを考えてみると、結局、教えを受ける側の、人間の事情が、かなり影響している様に思います。

イエスの愛の思想は、既に、形式に堕(だ)していたモーゼの律法の、根本的な立て直しの為に、万人に分かる、本質的な愛、という事を、力強く訴えかける必要があった、のだと思います。つまり、イエスは、形式に対する、実質の大切さ、を、人々に教えた、のでは、ないでしょうか。また、人々も、それほど身分の高くない方が中心であった為、理性や知性に訴え掛ける、よりも、主として、悟性と感性に訴え掛けたものだ、と思うのです。

これに反して、釈迦の弟子達、釈迦教団の人々は、当時の、インテリ層に近かった、と言えます。釈迦の当時は、色々な宗教が、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)で、人々は、我を先にと争って、解脱(げだつ)しよう、悟ろう、としていたのです。ちょうど、第三次宗教ブーム、とも言われている、現代の日本の状態、にも似ています。ですから、当時の修行者達を対象としていた為、釈迦の教えは、どうしても、個人の努力を重視し、理性的・知性的な面に重きをおいたのです。

ですから、キリスト教、仏教の、思想的な違いも、ひとつには、教団を構成する人々の違いが、問題とされましょう。勿論、決して、釈迦が、人を愛する事の重要さを、無視した訳では、ないのですが、当時の仏弟子達は、宗教的な知性が高かった為、単に、隣人を愛しなさい、という事ぐらいでは、通用しなかったのです。

ここまで話を進めて来れば、現代は、どの様な宗教が、説かれるべきなのか、お分かりになって来たことと思います。やはり、現代は、知性と理性に訴え掛けて、神の道というものが、人々に説かれねばならない、という事なのです。

2.日本と神理

さて、ここからは、目先を変えて「日本と神理」という題で、お話させて頂きたいと思います。かなり、小桜の限界を越えた内容でございますので、もし、疑問に思われる事があれば、何なりと、ご質問下さいませ。

ところで、既に、お気付きになって居られる様に、今回の、正法神理の伝道、という事に関しては、この日本の地が、第一番の柱、として選ばれました。正法神理の流布は、時代を変え、所を変えて、種が播かれて来た訳ですが、私達の愛する、この日本から、世界に神理を広めるべき時が来たのです。

(中略)

思えば、古事記、日本書紀が編まれてより、あなた方の霊言集が世に出されるまで、千数百年、この日々が、いかに久しかった事でしょう。

単に、宗教的な面での、神理の流布だけではありません。日本の歴史の、時代時代を創る為に、血を流した、幾多の英雄達の努力も、今後、日本が世界の盟主(中心)となって行く事によって報いられるのです。

世界の盟主、日本――この言葉に、あなたは、一体、何を思い浮かべられる事でしょう。

科学文明は、世界一の発展をみ、日本から宇宙へと旅立つ人々も、たくさん出て来るでしょう。が、一方、国際政治、経済でも、日本はまさしく世界のよきリーダーとなります。各国の政界、経済界の重鎮(じゅうちん)が、毎日のように日本を訪れ、東京は「外交の都」と呼ばれるようになります。

他方、宗教の方も、日本を核とした、新たな、明晰かつ合理的な教えが、ヨーロッパに、北米に、そして東南アジア、中国にと、広がって行きます。産業界でもトップの国が、宗教でも、トップの国へと変貌して行きます。こうして、二十一世紀には、日本は「神と太陽の国」と呼ばれる様になりますでしょう。そして、あなた(方)が説かれた教えが、「太陽の法」として、諸外国に知られて行きます。それは、まさしく、日本の国の象徴が太陽であるとともに、あなた(方)の説かれる法が、太陽の如く、人々に注ぎかかる時でもあるからです。

特に、これからの十年間(1980年代)は、第一次の変革の波が訪れる時であり、これは、主として、一大宗教改革の様相を呈(てい)する事となりましょう。第二次の変革の波は、今後十年を経た頃、非常に明確な形で現われて来るでしょう。そして、それは、日本の政財界をも立て直す、一大変革となりましょう。第三次の波は、今後二十年を過ぎた頃に、明瞭になって来ましょう。日本が、盟主として、世界に号令を掛けるべき時が来る、という事です。

よいですか。どの様な大きな波も、最初は、小さな波紋でしかないのです。今、あなたのやっている仕事は、広大な太平洋に、一粒の雫(しずく)を垂らす様に見えるかも知れませんが、やがては、逆巻く怒濤(どとう)として、世界各国の湾岸に押し寄せるのです。どうか、その日の事を忘れずに、ご精進下さい。

3.自力と他力

さて、ここからは「自力と他力」という事について、お話させて頂きます。

あなた方が、こうして、多次元世界の霊達と語るに当って、一番、困惑するのは、いわゆる「自力と他力」の問題であろうと思います。自力論者は、飽くまでも、自らの苦境を、自力で切り拓いて行きなさい、と言われるし、他方、他力論者は、全てを、神の御心に委(ゆだ)ねなさい、と言われます。単純な人間なら、一体どちらを信じたらよいのか、が、分からなくなってしまいます。また、あなたにしても、自力と他力の間(はざま)で、随分と、心揺れている事と思います。あなたの思想として、一体、どの様に考えるか、という事です。

同じことは「予言」についても言えます。

あなた方が、高級霊の方々と話す過程において、様々な、予言が、なされる事でしょう。しかし、この予言を、既に決定したもの、不変のもの、と考えて行くならば、自力論者は、全く、立つ瀬がなくなってしまいます。

そこで、これは、小桜の試案ではありますが、次の様に考えてみては、如何でしょうか。

まず第一に、自力と他力の問題を、悟りの問題と、行動の問題に分けて、考えてみる必要があります。

悟りという事に関しては、八割が自力、残り二割が他力です。まず、大抵の人間は、自ら努力して悟ろうとする心、菩提心(ぼだいしん)を起こさなければ、高級霊達の協力を受ける事は、まずありません。

この例外は、ほんの僅かで、例えば、イエス様のお弟子を迫害していたのに、ある日突然に、イエス様の天上からの声を聞いて、翻然(ほんぜん)、悟りを開いた、パウロなどが、その例外ですが、大抵の人間は、自ら努力して修行しようとする心、即ち、菩提心を、起こさねば、悟りへの道は、まず開けて来ないのです。まず、悟ろうとする心、次に、心の修行の実践、が、あります。

或る人は禅をやり、或る人は神想観をやり、或る人は内観をやり、或る人は瞑想をやり、という事で、その方法なり、名称なりは異なりますが、心を高級神霊と同通させよう、とする、実践行為が必要です。この意味で、ここの段階でも、自力が必要です。

他力が、関わって来るのは、この次の段階です。即ち、本人の内観が深まり、また、反省が進んで、やがて、壁にぶつかる事になるのです。この、悟りの前に立ちはだかる壁を、打ち破る事が、高級神霊に課せられた役割です。言葉を換えて言うならば、神界下段階、中段階位、までの悟りなら、ある程度、自力による観法(かんぽう)で、悟り得る、という事です。しかし、神界上段階、いわゆる、光の天使の候補生になって来ますと、守護・指導霊達の、特別の指導を受けないと、諸天善神の境地には、到達し得ないのです。

この意味で、私は、「悟り」の問題に限って言うならば、菩提心―観法―高級霊の啓示、の段階になっており、やはり、八割が自力、二割が他力、だと思います。

では、次に「行動」の問題について考えてみましょう。

人間が、自力と他力の間(はざま)で揺れる場合は、ある行動を取るかどうか、言葉を換えれば、一つの判断なり決断なりを求められている場合、だと思います。それが、或る場合には、個人の人生設計であるし、或る場合には、企業の経営であろうし、或る場合には、伝道の方法、でもありましょう。

この時に、考えるに、飽くまでも自力でやって行くなら、あまり信仰の領域の問題にはならない、と思います。

では、なぜ、自力でやるにしても「高度な判断」が出来るのでしょうか。

結局の所、決断なり、判断なりと言うのは、インスピレーションの問題、だと思うのです。インスピレーションという言葉が、分かり難ければ、「ふと、心に思いつくこと」と、言ってもよろしい。

なぜ、ふと、重要な結論を考え付く、のでしょうか。

それは、やはり、八割方は、その人が現在までに培(つちか)って来た、教養・人格・人生観・交友関係、によって決定されるのです。いかに、高級霊が、インスピレーションを与えようとしても、その人の培(つちか)って来た人生観が、低次元のもの、であるならば、そのインスピレーションを、受け入れる事は、不可能なのです。

ですから、やはり、人間は、悟りを得る時、ばかりではなく、一つの、重大決断として、行動をする時にも、やはり、八割の自力が重視されるのです。そうして、初めて、残り二割の他力が、生きて来るのです。力となるのです。

これは、決して他人事ではなく、あなたにとっても同じ事です。あなたに、八割自力、の気概(きがい)があってこそ、高級霊達の、残り二割の、指導が、生きて来るのです。飽くまでも、悟りを求め続け、自らの人格を、高め続けて下さい。


4.内在する神

ここからは、「内在する神」という事で、お話ししたいと思います。

あなた方の書物の読者でも、神棚の祭り方がどうだ、とか、仏壇への配慮の仕方が重要なのではないか、とか、神や仏の礼拝の仕方に迷っている人の数は、尽きない事だと思います。

しかし、こうした行為の裏には、何かしらの、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)の匂いが、付きまとっています。要するに、神仏は、どこか、遠く彼方にいらっしゃるもので、それを、何らかの形を通して崇拝する、という気持ちです。

しかし、考えてもみて下さい。

人間は、神様が「是(よ)し」と思われて創られた、神の分御霊(わけみたま)なのです。つまり、一人ひとりの人間の、心の奥、魂の聖なる秘部には、神の生命が鼓動しているのです。

そうであるならば、本当の信仰とは、どこか遠く彼方にいる神仏を尊ぶ事ではなく、自ら自身の中にある、神なる心、神聖な自我、神仏の心そのもの、である大我、を見つけ出し、これを尊ぶ事、ではないでしょうか。

「内観(ないかん)」という、修行方法があります。これは、内なる自我を見つめ、真我と偽我とを峻別して行く方法です。そして、偽我を否定し去り、本当の自己の真我を、見出した時に、悟る、という考え方です。

また、「止観瞑想(しかんめいそう)」という修法があります。止観とは、決して、心を止(と)める事ではありません。心を静める、という意味です。つまり、止観瞑想とは、心を静める事によって、自らの内に潜む、澄み切った神理の湖を思い出す方法、と言ってもよろしい。或いは、真我を見出す為に、探し出す為に、幾重もの偽我の堆積層(たいせきそう)を掘り下げて行って、ついに、本物の鉱脈を探り当てる、という方法でもあります。

結局の所、「内観」にしても「止観瞑想」にしても、自らの心の中にある、真我、神なる我を探り当て、それと一体になろうとする、方法論に、他なりません。

ここで、あなたは、先にお話しした、自力と他力の問題を、想起される事と思います。

他力とは、どこか、遥か彼方に居ます、神なる実体に、祈りの橋を掛けて、一体となろうとする姿であり、自力とは、自らの、内なる神を発見して、それと一体となろうとする試み、に他なりません。結局、自力といい他力といい、その思考の志向性が、若干、異なるものの、「本当の神」を探究し、これと、一体となろうとする試みなのです。

ただ、私は、ここに、全く異なった人間観、が、派生する、恐れを感じます。

つまり、他力を主とする信仰は、どうしても、人間を、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の、凡夫と見て、或いは、極悪罪重(ごくあくざいじゅう)の悪人と見て、外なる光によって救われようとしている、のではないでしょうか。

これに対して、自力を中心とする信仰は、やはり、自分の中に、偽りの我を発見して、これを取り除き、真我を見出すのですから、結局、根本的に、人間を「是(よ)し」と観ている、或いは「人間神の子」を前提としていると言えます。

やはり、私としては、外なる、色々な神を信仰する事も、大切ではあるが、自らの内なる神、を見出す事、こそが、誰にも課された、悟りの方法ではないか、と思います。

あなたに於かれましても、今後、様々な、悟りの方法論を、展開されるのでしょうが、どうか、この「内なる神」という考え方、これを忘れないで欲しいのです。人間が、一人ひとり、内なる神を秘めた存在ならば、決して本当の悪人とか、本当の罪人、とかは、あり得ないのです。そして「内なる神」に目覚める事が、究極において、本当の意味において、人間を生かす事に、なるのではないでしょうか。


5.キリストの使命

さて、ここでは、多少、目先を変えて、「キリストの使命」という事に関して、お話し致します。

あなたから見たら、神道系の人間と思われる、八百万(やおよろず)の神々(かみがみ)の一人、でもある、私から「キリストの使命」というテーマを出された事は、不思議な思いが、される事と思います。

けれども、それは、決して不思議でも何でもありません。今、あなた方が、やろうとしている事業を思い返してみれば、よいと思います。あなた方の仕事は、過去の全ての宗教を一堂に会(かい)して、さらに、それを乗り越えて行く、という内容を持つものです。また、それだからこそ、イエス・キリストという人が、指導霊を務めているのでは、ないのでしょうか。

さて、それでは、過日、イエス様のご講演が、神界(六次元)上段階で行なわれた時の、内容を、かいつまんで、ご報告致します。

私達、六次元の人間に対しては、普通、七次元菩薩界の人が出て来て、常時、指導して下さっているのですが、月に一回位は、八次元如来界の方が来て、ご講演下さり、さらに、年に一回位は、九次元太陽界の方々の内の、お一人が、ご降臨され、私共、光の天使の一年生に対して、ご訓示を下さるのです。

そう、あなた方の時間で言うと、ちょうど、七月七日に当ります日、イエス・キリスト様が、ご降臨になり、約一時間ほど、お話をされると言うので、小桜達は、そのご講演の、演壇を造ったり、世話役の方を決めたり、聴衆を集めたりで、大変でした。その日の、イエス様のご講演を、一声でも聞こうと集まった、光の天使の数は、およそ一万人にも達したでしょうか。

如来界からも、お付き添い役として、エリヤ様、ミカエル様、ラファエル様、ガブリエル様など、キリスト教系の大天使が、続々、私達の世界に舞い降りて来られる姿は、さながら夢物語の様でございました。皆様、天使の象徴である、真っ白の羽根をピンと伸ばされ、それはそれは、神のご光栄を、まさしく、体現(たいげん)して居られる方々でした。

七月七日の、午後七時に始まった、イエス様のお話は、次の様な内容でありました。

(蛇足ですが、ちょっと、鎌倉時代の武家であった小桜姫的意識が、入っている様です)

「いよいよ、戦いの日は来た。皆の者、三次元に、神の国を、今回こそ打ち建てようではないか。この機を逃しては、二度と、この様なチャンスは巡って来ない。しかも、今、地上界では、歴史上、かつてなかった、未曾有(みぞう)の大危機が迫っている。

しかし、この大危機を、決して、サタンの襲来と考えてはならない。新しき神の国が、地上に打ち建てられる事を讃(たた)える、ファンファーレなのだ。決して、悪の勢力に怯(おび)えてはならない。怯えは、彼らが恰好の餌食(えじき)とする所なのだ。地上に降りた光の天使達の力を、分散させる事なく、一致団結させ、天と地に、黄金の架橋を造る為にも、私達は祈ろう。光の天使達の総力を挙げて。

イエスの、キリスト(救世主)としての使命は、ナザレで十字架にかけられた時に、終わったのではない。寧ろ、その時よりこの方、キリストとしての使命は、始まったのである。今、地上に降りた光の軍団を、キリスト(救世主)の力の再来とする為にも、私達は、悪の力を、徹底的に粉砕し、光の輪を、地上に投げ続けよう。かつて、光の大指導霊が地上に降りた時にも、形の上では、光の軍勢が闇の軍勢に破れたかに、見えた時もある。

しかし、今回は決して、形の上でも、光の軍勢は闇の軍勢に負けてはならない。私イエス、自らが陣頭指導を執って、地上の者共を指導しているのだ。幾千幾万の光の天使達よ、あなた方も力の限りを尽くしなさい。今回は、悪の勢力を、この地上から一掃する為の、徹底的な総力戦なのだ。」

大体、イエス様のお話は、以上の様なものでしたが、そのお言葉は、まさに、神の生命力に溢(あふ)れ、私達、幾千幾万の天使達も、感激の余り、涙を流して居りました。

どうか、地上の皆様方も、決して、孤立無援の想いに囚われる事なく、天上界でも、これだけ力の結集が為されている事を、お忘れなく。小桜の力は、微々たるものですが、天上界の人々の想(おも)いの一端なりとも、お伝えする事が出来れば、これに過ぎる喜びは、ございません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿