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霊界通信2の4、幽界と精霊界の実相、小桜姫のメッセージ

2020年09月26日 | 情報
前回の記事のタイトルを、変えましたが、内容は変更前と同じです。ご了承下さい。

小桜姫のメッセージ、続けます。霊界の時間について、ここでは説明されていますが、要は、時間という概念は物理的世界(三次元)の中だけのものだ、という事のようです。色々と興味深い事が語られています。結構、長いですが、時間をかけて、ゆっくり読むと、真価が分かるかも知れません。

(ここから)

さて、ここからは、趣向を変えて、「霊界の時間」という事について、お話ししてみたいと思います。

あなた方、地上の、人間界に居られる方々で、(ご自分が)神仏(と想定するもの)に近付く、縁と、なり易いのが、未来に対する不安、だと思います。

人間は、ともすれば、まだ目に見えぬ、未来の事を心配し、あれこれと悩み患います。

キリスト様の様に「一日の苦労は一日にて足れり」として、昨日の事や明日の事を考えないで、一日一生、の思いで生きて行け、と、おっしゃる方もいらっしゃるでしょうけれども、それで済まないのが、私達、凡人の悲しさなのです。

梅が咲いたら、桜はまだか、と心配になり、桜が咲いたら、夜半に嵐が吹くのではないか、と心配するのが、人間の常なのです。そして、先の事を、あれこれと取越し苦労する理由は、結局の所、自分自身の弱さ、自分自身の自信のなさ、に起因しているのです。

ですから、未来を知りたい、という気持ちは、同時に、神仏に頼りたいとする気持ち、と、表裏をなしているのです。

一日先の事さえ分からない、盲目の人間。だからこそ、努力があり、日々の精進もあるのですが、その「分からない」という不安ゆえに、心を空しくして神仏に祈願する姿、も、またあるのです。(そういう意味では)不安は、単に、不安の為の不安ではなくて、神に至る為の道標、でもあるのです。この事も、つくづくと考えるにつけ、ああ、神様は、至る所で、救いの手を差し述べて居られるのだなあ、と感嘆してしまいます。

さて、そうそう、今日は「霊界の時間」という事で、お話ししよう、と考えておりました。

人間が、未来の事を神仏に頼ったり、或いは、霊能者に頼って、自分の将来の事を知りたがる背後には、霊的世界の、時間の概念は、この地上的時間の概念とは様相を異にしている、という事を、本能的に知っているから、だとも言えます。確かに、それは正しい事で、寧ろ、本能的というよりも、微かなる過去世の記憶、とでも、言って良いかも知れません。

では、霊界にある時間、とは、一体どんなもの、なのでしょうか。

地上の方々は、時間、と言うと、何か直線的で、矢の如くに飛び去る、様に考えています。でも、私達の世界では、そうではありません。

時間というのは、(例えれば)真空の透明な箱の中に投げ込まれた、ゴムまりの様なもの、なのです。

ちょうど、選挙の投票箱のような物を、考えて頂くと良いと思います。上の方に、ちょうど人間の手が入る位の小さな穴があいており、(言ってみれば)神様が、その穴からゴムまりを投げ込まれ、その後、ピシヤッと、穴に蓋(ふた)をされたのです。

箱の中は、真空ですから、空気の抵抗もなく、ゴムまりは、永遠に運動を続けるのです。この、永遠に運動を続ける、という事が、永遠の時間という事と、同じ意味なのです。しかも、箱は透明ですから、私達、霊人は、手にとる様に、ゴムまりの動きが目に見えるのです。

この比喩では、箱が透明、というよりも、霊人だから箱が透き通って見える、のであり、地上人には、箱の中が、さっぱり見えない、のと同じです。

この事が、肉を持っている人間には未来が見えず、霊人には未来が分かる、という事と、同じ事なのです。

さて、その未来は、どの様に見えるのでしょうか。

元はと言えば、箱の中に落とされたゴムまりですから、その方向性は、壁に当たって跳ね返るだけです。立体の壁は、六面しか有りませんから、この六つの内壁の間を、ゴムまりは行ったり来たりしている、だけなのです。ですから、外からよく観察していると、一つの壁にぶつかった後、ゴムまりが、どちらの壁の方に向けて跳ね返るか、は、一目瞭然なのです。更に、先の事を見抜く人(霊人)ならば、次の壁に当った後、どこへ行くか、更に、その次にどこへ動くか、という事を、まるで、ビリヤードか何かでもする様に、判ってしまうのです。

この事から、地上界の方々は、二つの事に、お気付きになられる、と思うのです。

その一つは、例えば、霊人達に将来の事を聞いても、ある程度は当たるが、どうしても外れる事があったり、時間的なズレが生じたりする理由です。それは、ゴムまりが、どの方向に跳ね返って行くかは、一つの予想であって、結果ではない、からなのです。六つの内壁を次々と跳ねているゴムまりですから、次の運動の方向は、ある程度は予測は出来ても、必ずしも、万全という事は、あり得ないのです。

もう一つの事は、ビリヤードの例で話しましたが、人によって、先を見抜く目があれば、次々にゴムまりが動いて行く方向が、ある程度の事まで分かる、という事なのです。これが、その霊人の予知能力とも絡むのです。ガラス張りの箱の中を見ている、という状況は、全ての霊人にとって同じ、なのですが、先々の動きを、どこまで見通す事が出来るかは、個々人の能力によって違うのです。ですから、大予言者になると、将棋の名人と同じで、何十手、何百手も先まで読んでしまうのです。

ここまで、お話しすると、では、透明の箱が、一体、何か、お分かりでしょう。

この箱こそ、三次元世界そのものです。

三次元世界は、四次元以降の多次元世界から見れば、ガラス張りの様に、お見通しなのです。霊人達は、皆んな、水槽の中の金魚でも見ているかの様に、地上界の人々を見ている事実を、忘れてはなりません。

ですから、地上界の金魚の皆さんは、決して、悪い事など出来ないですね。


5.精霊界の風景

さて、ここからは「精霊界の風景」について、お話ししたいと思います。

その前に、ちょっと「精霊界」という言葉について、触れておいた方が良いですね。

精霊界は、いわゆる、四次元世界の中、にあります。

四次元世界を、ひと言で「幽界」とも称んでおりますが、細かく見ると、この世界も、幾層にも分れています。四次元の「幽界」を、大まかに分類すると、下層が「地獄界」、中層が「狭義の幽界」、上層が「精霊界」となっています。

地獄界は、もう、ご存じですので、残り二つについて、お話ししようと思います。

「狭義の幽界」というのは、人間が、死後、すぐに来る世界です。

よっぽどの悪人は、死後、よく言われる様に「まっ逆様」に地獄に堕(お)ちます。

これは、地上的、悪の想念が、魂に纏わり着いて、比重が重くなり過ぎている、からです。これと反対に、悟った方々、光の天使の方々は、大抵、真一文字に、高級霊界へと還って行かれます。この、どちらのケースでもない通常の霊人達は、一様に、この狭義の幽界へと引越して来るのです。

ですから、大戦争があったり天変地異があった時など、幽界の人口が一挙に増えて、世話役の高級霊達は、てんてこ舞いです。

ですから、この狭義の幽界は(言わば)〈控えの間〉ですね。ここで暫く、自分自身の人生を反省して、自らの判断で、修行の為、地獄へ降りて行く人、或いは、地上生活を、よくよく反省し、人間が肉体ではなく霊的存在である事を悟って、精霊界へと昇って行く人、と(両方)が居るのです。

狭義の幽界で留まる期間は、せいぜい、長くて百年で、通常は、二、三年、早い人なら、三日間位です。その後、地獄界なり精霊界なりに居所を定めて、じっくりと、魂の修行に励む事になります。

では、本題の「精霊界の風景」へと、話を進めて行きましょう。

精霊界の住人となる条件は「自分が霊的存在である事を悟っている」という事です。

ですから、この世界の人々は、霊的な目で世界を見るようになって来ます。ですから、その霊人の霊性が高まる程、世界が、光輝いて見えて来るのです。

しかし、この精霊界では、まだ、地上生活の習慣が抜け切らず、かつて家族であった者同士とか親しかった者同士が、一緒に暮らしています。この世界では、まだ、三度の食事もあれば、地上生活の真似事の様なことを、たくさんやって居ります。お互いに好き合って愛を囁き合う、といった光景も、当然あります。ですから、夫婦や男女の性行為も、まだ、当然、行なわれています。

性的行為自体は、背徳的なものでも、何でもなく、お互いに幸せを与え合うものであるならば、神の祝福を受けます。ですから、この精霊界でのセックスは、地上界と比べて。喩え様もない位、甘美なものとなって行きます。ただ、ここで、ひと言、言っておきますと、その甘美さに溺(おぼ)れていると、更に上の世界への進化は、あり得ない、という事なのです。

神様は、愛にも、幾つかの段階を創られました。その一番、下にあるのが、本能に基づく男女の愛です。その上に、隣人愛があり、同胞愛があり、神への愛があるのです。ですから、次第に愛も高まって、肉体的な愛から霊的な愛へと、進んで行かねばならない、という事です。

さて、この精霊界の風景ですが、どちらかと言うと、あまり都会的ではありません。良くて都市の近郊住宅街、場合によっては、農村地帯とか、山間の集落の様な感じです。特徴的な事は、草花が、随分、色とりどりに咲き乱れており、鳥や虫達も囀っている事です。どこかで、昔話に聞いた様な天国的なイメージが、この世界には、確かにあります。

もう一つ、特徴的な事は、人間以外の精霊達が、この世界には居る、という事です。

花の精とか、木の精とかいうのを、物語で読まれた方も、いらっしゃるでしょうが、まさしく、そういった者達が、小人の様な人間の姿をとって、実在しているのです。或いはコロボックルと言うのですか、伝説の小人達が、確かに居ります。

また、羽根が生えて天空を飛び回れる、無数の妖精達が、本当に居るのです。ですから、最初、この精霊界に来た人達は、こういった人間以外の精霊がいる事に、驚嘆するのですが、やがて、馴れてしまって、友達になってしまうのです。ですから、暫くすると、お花畑に花の精が居るのは、当然の事になってしまうのです。

ここまで読まれた読者の方は、ハタと、気が付かれたと思います。つまり、この精霊界は、とてもメルヘン的で民話的な世界なのです。風景が都会的でないのも、そうですし、人間以外の精霊が住んでいる点でも、そうです。

ですから、神様は、霊的な世界に十分馴れさせよう、と思って、こういった世界を創られた、という事ですね。

この精霊界で満足して、何百年も生活している内に、高級霊から「お前は、今のままでは進歩がない。もう一度、地上界に戻って、修行をしなさい。」と言われる場合もあるし、他方では、段々に、この精霊界に飽きて、もっと自分の魂が修行出来る世界を、望み始める霊もいます。この場合は、ちょうど、学生生活の怠惰な毎日に飽きて、ひとつ、実社会で揉まれてみたい、と(思うと)いう気持ちにも、似ています。

そういった場合、その霊人に関係のある高級霊が迎えに来て、新たな世界へと導いて行くのです。つまり、霊天上界は永遠の人生学校、だという事ですね。

ここまでは、精霊界の風景についてお話ししましたが、少し、伝説の話の様で、信じ難かったかも知れません。

6.霊界の風景

ここからは「霊界の風景」へと、話を進めて行こうと思っています。

この五次元霊界は、人間霊の大多数が行く所でもありますので、ある意味では、皆さん、遠い記憶の中には、お馴染みの風景なのです。

この五次元霊界で、地上界と一番違うのは何か、と言いますと、まず、第一の特徴は、人々が善良である、という事です。第二の特徴は、人々の信仰心が篤(あつ)い、という事です。

この世界の住人は、一見して善人だと判る人ばかりです。地上界にいる様な、ヤクザや不良は、おりません。ひと言で言えば、善良な人達です。勿論、人間として生きていた時に、善事ばかりして悪事を全く働かなかった訳ではありません。善事と悪事を比較してみると、善事が多かったのは勿論の事ですが、自分が為した悪事についても、一応の反省が終わっている人々なのです。

また、彼らの大部分は、神仏への信仰は、教養人としての当然の資質であり、人間にとって不可欠のものだ、と思っています。あまり熱心ではなくとも、神や仏に対する畏敬の念は持っています。この点、四次元精霊界が、人間が霊的存在である事を、ある程度、悟った人々の世界であったのに対し、神仏の存在を、人々が認めている点で、一歩進んでいると言えます。

こうして見ると、地上の人にとっては、宗教を持つかどうか、は、個々人の自由になっていますが、こちらの世界は、そうではなく、信仰という事は、魂が進歩する為に、是非とも通り抜けなければならない関門だ、という事です。少なくとも、この五次元霊界には、無神論者や唯物論者は、居ません。生前、もし、そうであったとしても、こちらの世界に来てからは、霊的に目覚めた人達ばかりです。

ここでは、簡単に、霊界の風景の中で、特に、小桜の心に残った、一つの光景だけを語っておきたいと思います。

その、小桜の心を捉えた風景というのは、こういうものでした。

ある所に、老人が一人住んで居りまして、誰も、その老人の世話をする人とて、なかったのです。その老人は、慎ましい草庵に住み、猫の額ばかりの土地を耕して、毎日を過ごして居りました。

ところが、ある日のこと、天上から天人の大軍勢が、笛や太鼓の音と共に、ドッと、その老人の家の庭に舞い降りて来たのです。彼らの大部分の姿は、そう、正月の七福神の姿の様だと、想像して頂ければ結構です。そして、その老人を上座に就かせて、天人の舞いとでも言いますか、一つの、お祭りの様な騒ぎとなったのです。

ですから、遠く離れていて、その老人を見向きもしなかった村人が、一体、何事か、と、皆、集まって来て、天人の歌や踊りを、ワイワイガヤガヤと見ていたのです。

その時です。お祭りがピタッと止(や)んで、一番、偉そうな、大黒天の様な人が、前に進み出て、人々に言ったのです。

「あなた方は、こうして変わった催し事があれば、仕事の手を休めて、他の事を放り出してでも駆け付けて来るではないか。それなのに、普段、暇な時にさえ、この孤独な老人を訪(おとな)わず、誰一人として声を掛けようとしないのは、何事であるか。」

諄々(じゅんじゅん)と諭す大黒天の言葉に、周りの集まった村人達、数十人も、一同にシュンとして、首をうなだれてしまい、反省をし始めました。そして、彼らは、大黒天達の前で、これからは、毎日、彼らの内の一人が、必ず老人を訪ねて、話し掛ける事を、約束し合いました。

この様な、他愛もないエピソードの中にも、どの様な方便を使って、天使達が霊人達を導いているか、が、分かるでしょう。一事が万事でして、この五次元霊界でも、毎日、どこかで変わった事件が起こり、その事が、人々の、心の肥やしになっているのです。

7.疲労と霊的活力源

こうした通信を読むのは、やはり、お疲れですか。しかし、考えても見て下さいませ。小桜にしても、平穏無事に、神界で暮らしておればよいものを、何の因果か、霊人の比率で言うなれば、一億人に一人もやらない仕事を、今やっているのですから、その事も分かって頂きたいと思います。

こういった霊界通信の仕事は、徒労に終わる事が多くて、実りは少ないのです。でも、少ない実りでも構いません。徒労でも構いません。小桜も、行ける所まで行ってみようと思います。その事を、あなた様も、きっと、最後には、喜んで下さる事と思います。この小桜の微力が、いつかは、多勢の人々の心の糧となる事を、信じて疑いません。

本来ならば、ここでは「神界の風景」についてお話しする所でしたが、それは、即ち、小桜の住んでいる世界の話でもありますので、別に語るべき機会が、あると思います。

そこで、ここからのテーマは「疲労と霊的活力源」という事で、お話ししたいと思います。

人間というのは、毎日、一日二十四時間を生きて行くのですが、いつもいつも元気一杯、やる気満々、という訳には行きません。

大変、愉快で、楽しい日々、というのは、とても短く感じられて、辛い、鉛を吞み込んだ様な日々が永遠に続くか、の様な錯覚に、陥る事さえ、あります。人間が救いを求めている時は、まさしく、この様な時で、宗教の門も、この様な時に叩かれる事が多いのでしょう。

毎日が楽しい人々であるなら、この様な霊界通信も、何の救いも、もたらさないし、何の意味も、もたらさないでしょう。

けれども、人生に涙しながら生きている人々にとっては、私の霊界通信も、ひとときの憩いであり、オアシスであり得るのではないでしょうか。人生に、どの様に疲れた人々であるにせよ、神の大きな御手が、その人々を育んで下さっている、という事に、気が付いたならば、人間は、赤子の様に安らかに眠れるのではないでしょうか。

まず、私は、疲労という事について考えてみたいと思います。

疲労には、言うまでもなく、肉体的疲労と精神的疲労があります。この両者は、勿論、相互に影響し合う事もありますが、一応、別々に、切り離して考えても、よいでしょう。

肉体的疲労には、睡眠に栄養、適度な運動といった事が大切でしょう。これは、医者なり薬剤師なり、健康の専門家に相談する、という方法があるでしょう。

しかし、精神的疲労には、これといった即効法が、ないのが現状です。精神的疲労を即時に回復させる方法が、見つかったならば、まさしくノーベル賞ものですね。

宗教という分野は、まさしく、この意味において、精神的疲労から回復する為の手立てを、考えて行く必要がある、と思います。それは、別に、一般的な事ではなく、あなた方人間の一人ひとりにとって、大切なことです。

小桜が思いますのに、精神的疲労から回復する為の、霊的活力源として、次の五つが挙げられると思います。

第一は、反省です。反省によって、心の曇りを取り除き、神の光を浴びる事によって、マイナスの霊気、邪気を追い払う方法です。

第二は、希望です。精神的疲労から立ち直る為には、希望の灯を心に灯す事が大切です。希望は、まさしく、闇夜を照らす灯台の光です。希望がある限り、人間は、何とかやり抜く力が、湧いて来るものです。お金がなくとも、愛する人が居なくとも、人間は、生命ある限り、希望を心に抱く事は、出来るはずです。

第三は、祈りです。精神的に疲労している時というのは、霊的エネルギーパワーが、減少している時なのです。即ち、霊的な充電が必要だという事です。祈り、という行為は、この地上界の人間と、天上界の高級霊との間を、架橋する働きをするのです。つまり、祈りという名の橋が架けられて、初めて、高級霊の、光のエネルギーが流れ込んで来るのです。他力による光明パワーの充電が、とても大切なのです。

第四は、不動心です。しっかりした重心を、魂の奥底に持つ、という事です。人間の心が、単なる振子の様に揺れているのでは困ります。あの、起き上がりこぼしの様に、どんな事があっても起き上がる為には、しっかりとした重心が必要です。その重心こそ、神に対する深い信仰、と言えるかも知れません。何であれ、その人にとっての重心を持つ、という事が肝要なのです。

第五は、精進です。霧というものは、じっとしていても、晴れるものではありません。霧は、前進これ前進に努める時、やがて、嘘の様に晴れて行くものです。即ち、常に前向きに、努力精進して行く、という事です。精進は、どの様な停滞をも打ち破るパワーです。精進に勝てる悪魔なし、精進に勝てるスランプなしです。ですから、どの様な精神的疲労を感ずる時にも、コツコツと精進する事です。

以上、五つが、小桜の考えた、精神的疲労から回復する為の霊的活力源です。どうか、参考にして下さる事を望みます。この五つさえあれば、どの様なスランプが来たって、必ず乗り越えられます。私は、そう信じています。

さて、どうやら私の霊界通信も、半ばを越したようです。

では次は、また少し観点を変えて、「憎しみと怒り」という事について、語ってみたいと思います。

お釈迦様の時代に、八正道という事が言われましたね。これは、人間として正しく生きる為の八つの道、という事でした。その内容、全てについて、今日話すことは出来ませんが、八正道の中の、正念、正語という事に関して「憎しみと怒り」について話してみましょう。

仏教を勉強された方、仏教というよりは、仏典を学ばれた方は、他人を憎んではいけない、怒ってはいけない、という事を、頭では理解出来ています。けれども、では、どうして憎んだり怒ったりしてはいけないのか、と問われると、なかなか、即答は出来ないものです。どちらかというと、道徳に訴えて、そうした事が人の道に背いている事を、主張される方が、多い、かも知れませんね。

それでは、憎しみと怒りが正法神理に反している、本当の理由は、一体、何なのでしょうか。

その問いに答える為には、人間の本質を、深く洞察せねばなりません。

人間の本質は霊です。霊という言葉が、ピンと来なければ、知性あるエネルギー体、と言ってよいかと思います。この精神的エネルギー体には、知性なり、個性なりが有りますが、同時に、普遍的な共通体である、とも言えます。例えば、神を父母とするなら、人間は、たくさんの子供達です。ですから、〇〇家の子供達、という面から見れば、共通体であり、一人ひとりを採って見れば、太郎、次郎、花子といった具合に、名前も違えば、性格も違うのです。

でも、個性が違うからと言って、てんでバラバラに、勝手な事をやってもいい、という訳じゃないですね。朝食の時、夕食の時は、やはり一緒に食べた方がいいし、それぞれが仲良く暮らす事が、皆の幸福だからです。

それは、共同生活をする場合なら、当り前だ、と言う方が居るかも知れません。でも待って下さい。家族には、どうしても抜き去る事が出来ない、太い絆が有りますね。そうです。同じ血が流れている、という事実です。けれど、人間全てを採っても、本当は同じなのです。

全ての人間の本質は、霊体ですから、この霊体は、目に見えぬ銀の糸で、皆、神に繋がっているのです。この、目に見えぬ銀の糸を、霊子線と言います。全ての人間は、縦横に巡らされた霊子線によって、繋がっているのです。そして、この霊子線を流れている霊的な血液こそ、愛の力に他なりません。

憎しみや怒りは、愛に反対する力です。つまり、霊的血液の循環を悪くしてしまう為に、自分自身をも害してしまうのです。

この様に、全ての人間が、霊子線という銀線によって繋がっている事実が、人間は、全て神の子である、という事実を立証するものです。ここまで理解されたなら、人間は、無闇に、他人を憎んだり怒ったりは出来ないものです。そうでしょう。

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