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霊界通信1(の3) 霊界と現界、紫式部のメッセージ(後篇)

2020年08月27日 | 情報
前回では、地上に生んでくれる約束の方が中絶をされた為に、転生の予定が狂った紫式部ですが、お話は、水子供養、霊界の人口構成、先祖供養などへと進んで行きます。霊界の、この領域の方の認識を知る上で、非常に興味深い内容になっています。カッコ内は補注です。編集を加えてあります。

(ここから、前回の続き)

″水子供養″に関して、私の意見を申しますと、まず、水子というか、地上に生まれる前に亡くなった、生命を失った方々が、地獄に堕ちる、という様なことはありません。なぜなら、地獄に堕ちるかどうか、という事は、この地上に生まれて修行した時の、心の状態によって決まる、からです。ですから、この地上、或いは、私達から言えば、あの世です。あの世の空気を、一呼吸も吸い込んでいない方々は、地獄に堕ちることはない、ということです。

ですから、(出生することなく亡くなった方は)全て、天国に還って来ます。

ただ、そういったことでね、挫折をした経験を得るわけです。(一旦、母胎に入っても出生出来なかった)全ての霊が挫折するわけです。しかし、ご両親達は気付いていません。自分達が、そういう事をした、という事の、本当の意味には気付いていません。だけど、(生まれようとしたことが叶わず、その転生の計画が)挫折したことは確かです。そういう意味において、肉体的な傷は残らなくとも、心の傷は残るのです。

ですから、両親達が、自分達が悪いことをした、という事を、念じてくれることによって、その心の傷は、癒えることはあります。地獄に堕ちることはありません。

ですから、私にしても、私が選んだ両親は、宗教的な心を持っていた方々ですから、経済的な理由によって堕胎ということをされたわけですけれど、私に対する、後悔、お詫びの念を、随分、送って来られました。それによって、心の傷は癒える、という事はあるわけです。

ですから、″水子供養″は、必ずしも、意味があるものではありません、が、しかし、この世に生まれて来よう、と、あくまでも計画した、霊達であることは確かです。彼らが、(地上に)出て来れない、ということは、やはり残念なことではあります。それに対する気持、思いやり、というものは、あってもいいのではないでしょうか。

(出生は出来た場合でも)未熟児であった為に、この世の環境に湛えられずに(極く幼い時期に)死んだ様な、幼児が、おりますけれども、こういう幼児の霊は、少なくとも、地獄に行くケースは、非常に少ないと思います。やはり、天上界に還って来ると思いますが、そういった霊達は、本当は、例えば、そういった子供で死んでも、私達の世界に還って来ても、やはり赤ん坊です。赤ん坊で、段々(霊界で)大きくなるわけですけれども、まだ、(本来、地上でするつもりだった)魂の修行があるわけです。

老人となって死ぬと、死んだ時に、老人の意識で、私達の世界に還ってくるわけですね。そうですね。

(本来ならば、)一生の事を総決算して(老齢で死ぬべきである)―ところが、子供時代で死ぬ、というような経験(をする場合、)何かのカルマの具合で、子供時代で死ぬ、という経験を積む必要がある霊も、(中には)居るんです。そういった事の為に、比較的早く死ぬ、という場合があるわけです。

霊界の人口構成という事からしますと、死んで還る方が、皆んな年寄ばかりでも困るんです。

少なくとも、霊界の下段階、幽界では、死んだ時の意識を、そのままで持って来る方が多いのですから、年寄で死ぬ(人だけだ)と、(霊界は)もう、年寄ばかりになってしまいます。ですから、若くして死ぬ人、子供で死ぬ人、病気で死ぬ人も居ます。事故や怪我で死ぬ人もあります。けど、そういった方々も(霊界には)要るのです。

私達の世界に帰って来て、家族で住んだり、色んな修行をするんですが、そういう時に、子供も要るんです。子供が居たり、妻が居たり、妹が居たりして、初めて(幽界という)世界が成り立っているんです。

(霊界で定められているような)義務が、あるわけではありませんが、自ら好んで、そういった事をしている人があります。やはり、その人、その人に、適した修行の場というのが、与えられているのです。まあ、義務というよりは、どちらかというと、自分を、自分が学ぶ為の、学習課題なのですね。義務ではないのです。義務という考えは間違っています。ただ、そういう事を経験していないので経験してみたい、と思う人がする、ということです。しかし、興味も何もない人も居るんです。それはそれでいいんです。

女性も男性も、それぞれ、町の中には住んでいますが、それぞれの、自分の家を持っていることが多いです。独りで住んでいる人が多いです。

アパートというようなものはないです。私らの世界は、人口難でも、人口が多過ぎる、という事も、なくて、それぞれが持ち家で、独りひとりの家を持っています。ですが、たまにはね、私達の世界に来ても、非常に仲のいいカップルというのが、あるわけです。そういった方々は、同じ屋根の下に住むこともあります。(けれども)そういう場合は稀です。(地上で)夫婦で、こちらへ来ても夫婦、というのも、稀なケースだと思います。

ただ、私達の世界でもね、こちらで、波長が合って、例えば、私は小説を書いたりしていますが、(人によっては)文学的な意見が一致するので、近くに居て、いろいろ話をしたい、というような場合に、(その人は)近くに来られるわけですが、一緒に住むこともあります。けれども、あなた方の世界の様な、夫婦という様な、そういったものが、あるわけではありません。一緒に棲むことはあります。

ただ、それに対してですね、人々の評価は様々です。羨しいと思う人も居ますが、そういった事は恥ずかしい、と思う人も居るんです。どちらかというと、恥ずかしいと思う人が多いのです。恥ずかしい、というのは、あまりにも地上的な感じがするんですね。

私達の世界では、地上的である、という事は、恥ずかしい、ということですね。あまり神の方に近くない地上的な行為だ、ということで、恥すかしい、と思うことが多いのです。ただ、自分も、ああいう経験をしてみたいな、と思う方には、いいな、羨しいなと思う方も居ます。

同じ屋根の下で住居を一つにする、という事についての、許可は要りません。ただ、一緒に住んでいましてね、それで、何か、古い魂の飛跡が出て来まして、それで、昔の、欲情とか、そういったものが芽生えて来ると、(そういう人は)段々、不調和な雰囲気を作って行って、私達の世界に居られなくなってきます。(そうした場合には)もっと、彼らにとって自由な世界、私達から見れば、下の世界、へと降って行く霊もあるのです。

漸く、私達の、神界の世界まで(上昇して)来たのだけれど、そこでも、やはり、男女の愛が忘れられなくて、一緒に棲むようになる。一緒に棲みながら、神様の世界に居れない様な、地上的な事を、したくなってくる。そうすると、やはり、下の世界へと、自ら選んで降りて行く人達も居るのです。

(地上では)世の中が、ずいぶん変って来ました。そして、今、日本の国を中心として、新しい文化、文明が出来上がる、という話を聴いています。ですから、私も、そういった文化や芸術が花開く中で、又、自分の才能を、もう一度、生かしてみたいな、ということを思った、ということです。新たな文学、みたいなのを書いてみたいな、と思っておりました。

(ところが)ちょっと、計画が挫折しましたので、いま暫くは、私も、いわば、心の傷があるわけですから、それが癒えるまでは、じっとしているつもりでいます。

地上に生まれる、という事は、或る程度、決意が要ります。(私の場合も、紫式部として活動して以来、)地上を去って、もう千年も経っております。(ですから、それは、)この世界(霊界)を離れて、もう一回ね、遥かなる異世界(地上)へ行く、ということなのです。

あなた方の世界で言うなら、例えば、宇宙飛行というのがあります。譬えて言えば、宇宙飛行士になるということなんですね、私達の世界から、あなた方の世界へ生まれていく、ということは、宇宙飛行士に選ばれて行く場合は、まあ、確かに、ロマンはありますが、危険があります。どんなふうになるか、分らないのです。自分が、今居る(霊的)世界(の領域)に、還って来れるかどうか、分からないんです。

地獄に堕ちるかも分からないのです。危険が一杯です。それと同んなじで、生まれ変わる、ということは、夢もありロマンもあるのですが、逆に、危険も、随分あるんです。ですから、それだけの決意をして、届出をして、そして、暗い世界ですね、母胎の中というのは暗いです。その、洞窟の中みたいな、暗い、じめじめとした世界でね、ハか月も、十か月も、じっと我慢するわけです。

じっとね、霊達は窒息しかかっています。これを、生まれ変わって来る為の苦痛、として我慢しているのです。これだけの努力をしてね、それが報いられなくて、(地上に)出て行けない、ということは、これは挫折ですわ、苦痛でしかありませんわ。

紫式部としての意識ですか?

それは、もう、宿る時になくなります。暗い洞窟みたいな中に入って、躯(からだ)を屈めて、ですね、心悸(しんき)を抑え、ただ待っている,という様な状態ですね。そうして、(そこから、そのまま、霊界の)元(いた場所)に戻った場合には、ああ、しくじった、と思うわけです。

ですから、皆、嫌がるのです。偉い方ほどね、そう(度々、地上には)出て来なくなるのです。みんな、嫌ですから、そんな経験が不愉快ですからね。

″先祖供養″という事について、少なくとも、地獄に居られない人にとっては、お墓参りとか言う事は、特に意味があるわけではありません。供養する、という事は、意味がある事、ではありません。ただ、(幽界にいる)先祖達、父母達も、やはり、時折は、自分達の子供の事は気に掛かるわけです。ですから、たまには懐(おも)い出して欲しい、と念う気持は、あるわけです。

だから、あなたにしても、そうでしょう。もし、あなたが、この世を去って自分の世界(霊界)に還られたとしても、ときたまは、自分の子供の事は気になるでしょう。で、気になって、勿論、あなたは見に来ることは出来るのですけれども、子供達、お子様達にも、あなたの事を、時々は、想い出して欲しい、という気持はあるでしょう。

ですから、人間として当然ですね。まあ、盆、暮、には、挨拶する様なもので、里帰りの時もありますし、その意味で、神社仏閣にお詣りしたり、或いは、お墓参りをしたり、お仏壇に、お供え物をしたりする事は、無意味とは言いません。

霊能を持っておられる人は、勿論、念が届きますが、それ以外の場合には、両者の念が一致した時には届く、という事です。例えば、その為に、お盆とかがあるわけなんです。お盆は、生きている者は死者の事を懐い出す、時々思っていますね。で、死者の方も、ですね、お盆になると、自分達のことを供養してくれる事を知っているわけです。

ですから、両者が念い合わせると、そこに意志が疏通するのです。そういう事なのです。ですから、そういう、盆暮れとか、特定の日というのは大切なのです。

何回忌とかに回向する、という事は、まあ、悪い事ではありませんし、地上を去った方が、そういう事を記憶に持っておられるのであれば、勿論、有効です。ただ、死んですぐ、そんな、(自分の亡くなった)日付など忘れておられる方にとっては、意味のない事ですね。

向うの方も、地上の者達がそういう事をやっている、という事を知っていて、地上の方々も、向うの方の事を想い出したい、と思っている時には、波長が一致して、相互の気持は通じ合います。

ただ、(死んで身体を離れても、まだ)自分は生きている、と思っている人にとっては、もう、子孫が、お仏壇に、お供物をしたり、回向をしたりする、という事(で)は、もう(意思の疎通は)無理ですね。死んだと思っていないのですから。死んだと思っていない、という事は、自分を供養している人は居ない、と思っていることなのです。という事は、″念い″が届かない、という事なのです。

ただ、地獄へ行かれる方が居ますね、そういった方にとって、今度は、供養が有効かどうか、という問題になります。

これは、功罪の、両方の面があります。

功の面としては、死んでいることが、まだ分っていない方々にとって、子孫の事、考える以外にないのですね、縋(すが)るものとしては。だから、子孫の事を、いつも懐っているわけです。で、子孫が彼らを供養すると、そこで、念が一致するわけです。そこで、救いの梯子(はしご)が成立するわけです…。念が伝わっていくわけです。それで、子孫達が、本当に、神の子としての、調和された生活を送っていれば、その救いの念波によって、ご先祖達、その浮かばれないご先祖達も、救われていくのです。

――ところが、子孫達が、形式上は供養はする、けれども、心が神の子としての波長に合っていない場合、これは、どうなるかです。

これは、悲惨なことになって来るのです。

先祖達が、憑依(ひょうい)して来る、というのは、殆んど、こういうケースなのです。
先祖で(地獄といわれる想念世界で)苦しんでいる方達は、何んとかして、暗い穴から抜け出したいと思っています。そこに、子孫達が供養をしたり三回忌をしたりすると、これは、暗い穴の上から梯子が下りて来る、様な、ものなのです。

そうすると、梯子が下りて来た、というので、もう懸命になって、この梯子を駈け登っているんですね。駈け登って行って、引っ張っているんです。梯子をね、ところが、これが、実は、"憑依"という現象になっているんです。そして、子孫達は、これに、憑依(とりつ)かれた、という形になって、苦しんでいるんです。

ところが、地獄霊達は分らないんですね。

自分ら、真暗な所に居て、梯子が下りて来たもんだから、これ幸いに、掴んだものを放さないと、一生懸命、梯子を登っているんです。こういう状態なんです。ところが、生きている者はたまりません。ぐいぐい、ぐいぐい、下の方から引っ張られるもんですから、身体の具合は悪くはなるわ、事業は失敗し倒産するわ、そういった事が、次々、起きてくるわけです。

ですから、先程、供養というものも、生きている人間が、あくまでも、神の子としての調和された心を持っていて、初めて、生きて来るのであって、生きている人間が、自分が神の子であるという事も知らずに、唯物的に、物しか無い、という様な考えを持っていながら、そういった人々の供養、なんかすると、逆に、大変な事になって来るわけです。

供養というのは、まあ、善し悪しなんですね。
少なくとも、彼らが、自分から、死んだという事に気付く、きっかけにはなります。そういう、供養をされることによってね、―ああ、自分は死んだんだなあ―という事が分かります。ところが、死んだけども、どうしたら救われるのか、が分らないのです。ですから、子孫が悟っていればね、それを感じ取って、救われることがあるんです。

ところが、死んだ事は分かったものの、どうしたらいいのか、分からないのですね。それで、地獄界で、反省して、上って来ればいいんですけれど、反省する事を知らなくて、子孫に縋(すが)る事だけしか考えない人達が多いのです。手近ですからね。手軽ですから。

それで、苦労されるんです。同じ様な事は一杯あるんです。地獄というのは、例えれば、古い、古井戸の中、みたいなものなんですね。そこに、亡者が一杯落ち込んでいるんですね。

これを、通りすがりの人がね、供養したり、色んな事をしますね。何かで、縁が出来るんです。そういう、地獄霊達と縁が出来るという事は、梯子が、するすると降りて行ったり、或いは、縄が、スルスルッと下りることと一緒なんですね。何かのきっかけが出来る、という事は。―そうすると、それに縋(すが)って来るのです。これが、いわゆる地縛霊、とか、或いは、単なる憑依,、ですね、何の理由もない憑依―先祖ではなくて、そういう憑依の、きっかけとなる、という事があるんです。

例えば、ある宗教に、間違った宗教に帰依することによって、そういう、縄をですね、井戸に下ろしてしまうことがあるのです。そうすると、亡者が、それに縋って、どんどん上ってくる。そして、これに憑依(とりつ)かれて苦しむ。こういう事があるのです。

ですから、死者を弔らう人が、正しい心を持っていれば、のことであって、弔らう人が何も知らずにやると、自分も同じ穴に堕ちて行く、という事なんです。怖い事なんです。

そういうことであるなら、むしろ、何も、されない方がいいのです。何も知らないで、むしろ無神論者でいる方が、何の影響も受けられなくていいのです。何も悟っていないのに、なまじつかな信仰心だけ持っていると、大変な事になってしまうのです。

(ここまで)

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