Mind Leaf

~ マインド リーフ ~

    

クラクラ日記2 サイモンとガーファンクル コンサート 日本武道館

2009-07-16 02:49:13 | 個人セッションのご案内~メニューと価格表

 

 S&G サイモンとガーファンクル コンサート 日本武道館 いや~、行ってきました。往年のフォークロックグループ、伝説のデュオ、サイモンとガーファンクル(S&G)の17年ぶりの来日。といっても、実は、先週の東京ドームの初日にも行ったので、これで2回目です^^;;。もう二度と聞けないと思うと、やはり行けるなら無理してもと思って、15日の武道館追加公演の知らせが入った時、数日悩んでスケジュール調整して申し込みをしたのでした。しかしその悩んだ数日のロスの為か、席は残念ながらアリーナではなく、1階。でも、前から4番目だったので、ステージは割合に良く見えた。東京ドームの時も同じく1階で席は前から6~7番目くらいだったけど、ステージの2人は豆粒だった。ドームに比べると、日本武道館はかなり狭く感じてしまい、あの武道館もちょっとしたライブステージのようにこじんまりと思えてもしまうので、一体感もあったし、音もドームよりは良かった。

 それにしても・・・ポール・サイモンは年取ったなあ。ギターのリフを刻むとき、やはりちょっとお爺さんっぽい雰囲気がちらほら。といったら失礼か^^;;。でももう60数歳だと思う。(しかし、まだ60前半だと思うから、もう1回くらい来日する可能性もあるのかもしれないが・・・でもS&Gとしてはもうないのではないだろうか)

 結構落ち込んだり疲れたりしたとき、S&Gを聞くと元気になったりもして、どれだけ彼らの音楽に助けられたことか。サウンドの絶妙な美しさ、ビートの躍動感、そのメッセージ、歌詞の妙・・・。といっても、後追いでS&Gを知ったので、もともとはソロとしての彼らを途中から追いかけてきたのだった。しかしその体験はとても刺激的で、サイモンは本当にミュージシャンの中のミュージシャンだと思うし、サウンドのカッコよさや、ワールドミュージックとロックとの融合は、本当に素晴らしく、かつドキドキしたものだった。スカのビート(レゲエの先駆けと言われた)にはじまって、二年連続のグラミー賞に輝いたアフリカンビートを取り入れたアルバム「グレースランド」は、その年セールス1000万枚の大成功となったわけだけど、ほんとに夢中になって聞きました。

 アートガーファンクルのソロアルバム「Angel Clear」「Break Away」「シザースカット」は名盤だと思う。この間、10年ぶりくらいに「エンジェルクレアAngel Clear」を聞いたら、もう鳥肌が立つくらい素晴らしいボーカルアルバムだと思った。

 そしてその個性が織りなすS&Gマジック! ポールサイモンの何とも表現のしようのない東海岸の深みを感じさせる曲と音作り、それにちょっとシニカルな声と、アートガーファンクルのあまりにも透明で甘いボーイソプラノのデュオは奇跡だと思うし、もう二度とこんなハーモニーを聞かせてくれるグループは現われないのではないかと思う。ビートルズが誰にも真似できないように、それで、あまりにも多大な影響をその後のロックミュージックに与えたように、S&Gも誰にも真似ができず、その影響力ははかりしれない。ビートルズの「Let it be」もS&Gの「Bridge Over Troubled Water」(明日に架ける橋)がなければ生まれなかったのだという。なぜなら、S&Gの「Bridge Over Troubled Water」のような曲を書きたいと思ってビートルズが発表したのが「Let it be」だったからだ。

  ところで、笑ってもらって結構だけど、約1年前のある日の夜、2003年にアメリカで行われたS&Gのフェアウエルツアー(さよならツアー)のDVDを見ながら、もう二度と彼らの音楽を生で聞くことはできないのだと考えた時、思わず、涙が頬を伝って来た・・・。自分でもその涙に驚くと同時に、本当に、一度はこの目で彼らのコンサートを見てみたかったなあと思ったのだった。ポールのソロコンサートには行ったことはあったが、S&Gとしては行ったことがなかったのである。 しかし、願えばかなうものですね。その一筋の涙を見て神が願いをかなえてくれたのか?・・・あるいは、そう思った人たちが多かったのでしょう、ついに、今回17年ぶりのコンサートが実現したのでした。 それも、ひょんなことから、ある友人にコンサートがあることを教えられたのでした。

  さて、コンサートの内容ですね。それは、言葉ではどうにもなりません・・・^^;;。でも、最高のコンサートでした。正直に言えば、二人とも声の艶がなくなりましたね。ポールはそうでもなかったけど、アートの声はある音程になると、艶がなくなったのが分かります。またアートの顔がある意味とても「苦悩」に満ちているように見えた。決して楽な人生ではなかったのだろうなと思わせる年輪の刻まれた顔だちだった。考えてみれば恋人が自殺したりと、彼も、名声の陰で様々な体験をしてきたはずである・・・人間としての苦しみを味わって来たのは、ポールよりもむしろアートなのかもしれない。 あの甘いボーカルの底にある何とも言えない深みはそういうところから出てくるのだろう。

 考えてみれば、彼らの音楽のテーマは一貫していた。それは人々の孤独と疎外感だった。最初の大ヒット曲は、「Sounds of Silence」だ。地下鉄の落書きの中にこそ、真実の叫びがあり、その静寂の音を聞けという歌詞が、ロックのビートと共にこだまする。そして、人間の持つヒューマニティーと社会的な矛盾との闘い、その中で生きる人々の中に確かにある愛を彼らは歌い続けた。透明な美しさと共に、青春の夢の時間と、どことなくヒッピー的な香りを感じさせる「パセリ・セージ・ローズマリー&タイム」を経て、ダスティン・ホフマン主演でアカデミー賞となった映画「卒業」のテーマソング「ミセスロビンソン」では、若者の抱える疎外感と社会的な価値観への反逆を歌った。次の「ブックエンド」は、老人をテーマにしたコンセプトアルバムだった。そこでは、死を冷徹に見つめ、公園の中の老人にこそ真実があると歌ったのだ。そして、ベトナム戦争の後の混沌の時代背景の中、1970年にリリースされたのが、「Bridge over troubled water」(明日に架ける橋)だった・・・。

 すべてのものがそこに収束され積み上げられたかのような完成度がこのアルバムにはある。「Bridge over troubled water」はまさに人々の挫折や苦しみに手を差し伸べたアルバムだった。またそれらを受け入れ包み込む力が、彼らの音楽にはあったのだと思う。そして、さらに世界の抱える、また一人一人の抱えるその苦しみそのものにも、深い意味があるのだという事を、認めてしまう力強さと深さが、織り込まれた音の底から響き渡って来るようでもあった・・・。

 人は時代の空気を吸って生きている。そして優れたアーティストは、もともとの資質と共に、その時代の底に横たわる強い欲求を察知し、音楽に魂を吹き込むのである。 そして今、彼らの音楽は、同じ曲でありながら、時の流れとともに成熟し、またさらなるスケールを伴って、今の時代を生きる(会場の)人々に贈られていたようにも思えたのだった。元祖癒しの音楽は、ますますパワフルに、そして静かに、新しい世代の人の中へと伝わって行く・・・。

 <Bridge over troubled water>(明日に架ける橋) by Paul Simon

 When you are weary, feeling small.

  When tears are in yours eyes, I will dry them all.

   I 'm on your side, when times get rough

  And friends just can't be found.

  Like a bridge over troubled water

  I will lay me down.

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)

 Sail on silver girl,

  Sail on by.

  Your time has come to shine.

  All your dreams are on their way.

  See how they shine.

  If you need a friend

  I'm sailing right behind.

  Like a bridge over troubled water,

  I will ease your mind

  Like a bridge over troubled water

  I will ease your mind.

 この詩は飛行機の中で思いついたのだという。それにしても、この曲の響いていた時代は、ちょうどベトナム戦争の後であった。今はある意味その頃よりも、希望はありながら時代は行き詰っているのかもしれない。

You tube⇒ The only living boy in New York 

                  The 59th bridge street song

                  The Sounds of silence (凄い映像!)

         I am a rock

         A hazy shade of winter → Cover by Bangles

                  Emily Emily

                  Bridge over troubled water

 

→ (ところで、ポールサイモンのある話を思い出したので書き加えます。)

 知人で、ストーンを扱っている人がいて(石屋さんです)、その方から聞いた話です。90年代後半の頃の話ですが、その頃、その人は良くブラジルの片田舎に石を仕入れに行っていたのだそうです。その知人の友人が住んでいたアパートの隣に、アメリカ人がしばらく住んでいた・・・。最初はとても変わった奴だなあと思ったそうなのです。なぜかと言えば、毎日昼間から、壁にボールをぶつけて一人でキャッチボールをしている。・・・それで夜になると時々出かけて行く。やがて酒場やら小さなライブハウスで、その変った奴が、地元のサンバやその系列のミュージシャン達とギターを持って時々セッションをしているという噂を聞いた・・・とにかく狭い町なので、すぐに何でもひろまってしまう。その友人もやがてそのセッションを見て、う~ん、なかなかいい演奏をする奴だと思ったそう。それで翌日はまた、部屋の中でひとりでキャッチボール・・・。何なんだあの外国人は?と思っていたら・・・その変わった外人がポールサイモンだったのです。その隣人は後で知ったそうです。実は彼はボールを壁にぶつけキャッチボールをしながら作曲するのです^^) 正体明かさずに、お忍びで来ていたというわけですね。その後ですね、「リズムオブザセイント」が発売されたのは・・・。

 そう言えば、昔の話ですが、アートガーファンクルの日本のお忍び旅行というのが話題になりましたね。アートにそっくりなアメリカ人が、自転車に乗ってひとりで旅をしていると、ソニーミュージックの方に目撃情報も寄せられて、来日しているのかと問い合わせが結構あったらしいです。後日、それは事実だと判明した。そんな報道もありました。今回コンサートで、昔日本をひとりで旅をしたことを少し語っていました。やはり本当だったのですね。なんでも自転車で本州を縦断したという話もあります^^) マニアックな話ですんません^^;;

 

 


新潟 その12 越後湯沢

2009-07-08 23:04:38 | 旅行(たび)
 
 それにしても、なんだか小説「雪国」の世界に、そして同時にこの場に同調し始めた自分がいて、その雪国館を見た後に、温泉街を歩きながら感じたのは、この越後湯沢という場所の持つ、なんとも言えない日本的な情緒感だった。

 ノーベル賞作家である川端康成は、近代化の波と共に失われていく日本人の精神と、繊細な美意識を描き続けた作家であった。三島由紀夫も表現は違うが日本の美の滅びに危機を感じていた作家である。

 日本の伝統的な自然智としての精神の崩壊は、僕は一方で必然であると思いながら、片方で日本人の精神と美意識が失われて行くことを深く悲しみ、それを守りたい自分もいるのである。それは、近代合理主義では片付けられない、深い意味を持っている<何か>だと思うし、また時代が進むにつれてますます求められてもいる、日本人の精神の中にひそむ<何か>であるとも思っている。

 どういうわけか帰り際になって、この湯沢と言う土地や空間の持っている日本的な何かが、たまらなく懐かしくもあり、また心地よくも感じたのだった。それは駒子の部屋で感じたものと同質のものでもあった。それが深く自分を揺さぶって、無性にこの湯沢というところが好きになってしまったのだった。

 それで、内容の全く覚えていない「雪国」を再読してみようと思いつつ、帰途についたのだった。

⇒「雪国」文庫本買ってきて読みました。やはり名作は凄かったです^^



新潟 その11 越後湯沢

2009-07-08 22:53:10 | 旅行(たび)
 
 滝の余韻を体の中に感じながら、またその音の響きを耳の奥に聞き続けながら、ふもとの町に戻ってくると、何となくこの温泉町の良さが、肌に伝わってくるように感じ始めている自分がいた。そしてふと目についたのが「雪国館」だった。上越民俗資料館ともあるが、川端康成の小説「雪国」を紹介するとも記されていたので、入って見ることにした。

 かつて使われていた雪国のソリや、様々な臼などの農機具や機織り機などの展示、また大正から昭和30~40年代の頃の越後湯沢あたりの風景や人々の暮らしを伝える写真が飾られていた。それらを見て驚いたのは、まだその当時はみんな「カンジタ」や「蓑」(みの)を着ていたのである。母親と子供が蓑とわらの靴?をはきながら雪の中を歩く様は何ともほほえましく温かく見えるのだった。

 雪国の風景は独特である。また雪国での生活は、おそらく経験した人ではないと分からないのではないかと思う。というのも、僕自身は、東北に住んでいたことがあって、その時の生活は、とにかく、(思い入れかもしれないが)語りつくせないものがあるのである。・・・そんな共感もあるのかもしれないが、それにしても、何という郷愁を誘う風景だろうか。

 それから川端康成の世界を伝える部屋を見て、地下に設置してある小説「雪国」の中の芸者「駒子」の部屋を見た時に、何とも言いようのない不思議な感動に襲われてしまった。・・・まるで駒子がそこにいるような、生きてその場にいるような、さらには駒子の見ていた様々な光景が目の前に映し出されて行くような、また、その駒子の吐息を肌で感じているような自分がそこにいたのである。

 とは言っても、「雪国」という小説を読んだのは遠い昔で、その物語の内容すらも覚えていないのだ。「トンネルを抜けるとそこは雪国であった。夜の底が白くなった」くらいしか記憶になく、何も覚えていないのに、そんなことがあるのだろうか・・・。

 しかし、この駒子の間を紹介している案内板を読んで、不思議と納得してしまった。というのも、この部屋は単なる作り物ではなく、実際に駒子(実名は違うがモデルになった芸者)が住んでいた部屋を移転したものだったのである。なるほど、何かが宿っていても不思議はないわけだ・・・。

 人によっては何の説明にもなっていないかもしれないが、人の想念というものは、その場に住みついているものなのである。いつまでも、永遠に・・・。だから駒子も、ここに永遠に住んでいるのかもしれない。そして不思議と胸が苦しく、いとおしくも感じてしまったのかもしれない。

新潟 その10 越後湯沢

2009-07-08 22:42:57 | 旅行(たび)
 ・・・やがてその写真家が帰り、誰もいなくなった時、どこかポツンと1人だけこの場に取り残されたような気がした。しかし同時に、自分がこの場を立ち去った後でも、永遠と流れ続けるであろう滝の姿や、奏で続けられる滝音を想像した時に、ふとエッシャーの騙し絵のひとつ、永遠に繰り返す水の流れを思い出した。その不思議な循環・・・。

 そしてさらに重なるように、雪舟の水墨画が脳裏に浮かび上がって来たのだった。その遠近法を無視した山水画は、まさに見る者を別次元へと運びこんでいく。時間の感覚も視覚の秩序も、感覚の平衡も再構成されていくように、距離も時間も無限となり、ただ「一」なる世界にいる安心感を人は受け取り、その中に包み込まれて行く・・・。

 帰り際に、滝の流れの川筋にある<ご神水>と書かれた湧水を飲んだ。とても冷たく、また独特の甘い香りのする水の味だった。その看板には、この場所が修験者の修行の場である事が書かれてあった。ここは確かに滝行にはうってつけの所である。

 本当に滝に来て良かった・・・。自分の周りに付いていた埃がきれいに洗い流されたようにも感じて、すっきりとした気持で帰途についたのだった。

新潟 その9 越後湯沢

2009-07-08 22:39:25 | 旅行(たび)
 
 ・・・時々滝の飛沫が飛んできて肌を濡らす。激しくもありながら、静かな流れ。結局その写真家は約1時間近く、その場にいて写真を撮り続けた。そして、僕はと言えば、時に歩き回って場所を変えながら、その滝と共に在るように努めたのである。

 

新潟 その8 越後湯沢

2009-07-08 21:42:46 | 旅行(たび)
 
 しばし放心して立ち止まっていると、背後から、「いいですか?」と声を掛けられる。見ると、300ミリほどの望遠レンズを取り付けた一眼レフのカメラと三脚を持ち込んできたカメラマンだった。彼は、僕の立っていたちょっとした高台から坂を下りて、滝壺に近づき、三脚を構えて写真を取り始めた。なんだか突然神聖な領域を侵されたような気もしたが、まあ自分も似たようなものなのだと、そう思って、その場所に腰掛け、滝の流れをひたすら見ることにした。・・・最初は、写真家の動きが気になって仕方がなかったが、やがてそんなものも含め、すべての想いが滝によって流されているように感じられたのだった。

 それから暫くの間、その叩きつけるような、それでいて柔らかい滝の音に耳を傾け続けた。


新潟 その7 越後湯沢

2009-07-08 21:36:06 | 旅行(たび)
 
 ・・・とにかく音が心地よい。一瞬にして、その滝の落ち行く水の光景に魅了され、またその音に心を奪われ、しばし放心して立ち尽くす。ザーッと山の中に響く音・・・。すべての雑念が滝の音の中へと吸い込まれて行く。心地の良い陶酔感に満たされる。まさに瞑想の世界である。丁度、瞑想のはじめにチベッタン・ベルを鳴らし、その音に耳をそばだて、そして音の消えた後もその音の残響を追い続けていくと、内的な静寂の空間が現われる。しかし、その静寂の空間は、決して、無音なのではなく、それこそ自然の中で感じてこそわかる不思議な胎動が聞こえ始めるのである。

 滝はその音の大きさゆえに、背後の静寂を感じさせるのだろうか。また、その音の心地よさゆえに、静寂の中へと人を引き込むのだろうか・・・。そんな思考もやがて無意味になり、ただ滝の流れの中に自分はいるのだった。

新潟 その6 越後湯沢

2009-07-08 12:36:57 | 旅行(たび)
 
 その滝の流れを渡る小さな橋を越えると、祠があり、その山の神(剣を持っているので不動明王か?)に挨拶をしてから、はやる気持ちをおさせるように細い坂道を登ると、目の前に忽然と、大滝の二本の流れが現われたのだった。その流れは、何とも優雅で、力強く感じられた。<神秘的な中に優しさがうかがえる滝>と案内板に書かれたあったが、まさにそんな感じであった。


新潟 その5 越後湯沢

2009-07-08 10:11:07 | 旅行(たび)

 駅で荷物を預け、さてどうしようか・・・。ありきたりなところには行きたくないなと思っていたが、とにかく観光案内所に寄っていろいろと聞いてみたら、「不動滝」という滝があるという。それならと思って、その滝に行く事にする。湯沢の駅から歩いて40~50分ほどだという。
 
 街の商店街や旅館の密集した通りを抜けて、川の流れにそって歩いて行くと、山合いの中へとはいって行く。温泉でゆるんだ筋肉には最初はちょっときつく感じたが、少しづつ細く勾配のきつくなる山道を歩き汗が出始めると、体も慣れてきた。

 振り返ると、すでに周りの山々が見渡せるほどに登っていた。山肌に岩石の断層が剥き出しになっているのが見える。ウグイスがしきりと鳴いていて、森の中で響いている。踏み固められた土の道も心地よい。ゆっくりと登って行くと、最初に「小滝」(こぜん)の看板が見えた。その滝の音がかすかに聞こえて来たが、そちらには足を向けずに、さらに奥の「大滝」(おおぜん)を目指して、坂道を登り続けた。すると、より迫力のある滝音が近づいて、耳元で大きくなってくる。

 そしてついに視界が開け、苔むした岩と木々の合間に綺麗に流れ落ちる滝が、10数メートル先に垣間見えた。


新潟 その4 越後湯沢

2009-07-08 01:02:34 | 旅行(たび)
 「誰かいます?」

 と声をかけたら、女性の声では~いと返事があって、フロントの奥の部屋から中年のおばさんが出てきた。その笑顔にとりあえずホッとする。朝食つきですね。お風呂は3階です、と言って部屋のキーをくれた。405号室。明かりのほとんどない暗い階段と廊下を進む。誰もいない様子。シーンと静まり返っている。確かに、スキーシーズンではないし、客が少ないのはわかるが、しかし下手をしたら僕だけ?? そんな思いもちらほら。それで部屋に入って電気をつけると、それは、一種の衝撃とでも言うような世界・・・。

 電灯は、薄汚れた四角の傘のついた丸い蛍光灯で、昔のアパートによくあったやつ。焼けて黄色くなった古ぼけた畳。広さはそれでも8畳。その畳に敷いてある厚さ2センチもない敷布団に、薄っぺらな掛け布団。まさしく煎餅蒲団だ。若干端っこの欠けたテーブル。欄間にテレビがある。部屋の隅に衣装棚。窓際の廊下の籐の電灯の傘は壊れている。動くかどうか怪しいスイッチの入ってない冷蔵庫。故障と書かれている電話。そして、古ぼけたを通り過ぎて、くたびれた昔のソファーとテーブル。それから入口を入ったところにトイレと洗面所。トイレは一応水洗だが、相当の年季もの。洗面所には、やはり年季の入ったツゲのくしがひとつ置いてある。風呂場は壊れているらしく、使用禁止の張り紙・・・。ひと通り部屋の中を回って、う~ん、何ともうら寂しい、情けないところに来てしまったなあと思った。やはり6000円は安すぎたか?ちなみに他のところは満杯で、あと空いていたホテルや旅館は一泊15000円以上だったし、一人ならこれで十分と思っていたが、甘かったか・・・。

 それで越後湯沢に来た何となくのウキウキ気分も醒めて、半分放心状態で、テレビを見る。しばらくして、風呂に入ることにして、浴衣を持って3階の風呂場へ向かった。やはり薄暗い電気の消された廊下を進む。風呂場の入り口にこんな手書きの看板。「ここのお湯は100%源泉のかけ流しです。宣伝はされていませんが、これこそ温泉というお湯をどうぞ・・・」というような事が書かれてある。しかし何かその言葉には力を感じる。いや、せめてそのくらいは信じないとやりきれない・・・と思って脱衣所の古ぼけたガラス戸を引くと、丁度ひとりの中年の男が出てきた。「こんばんは」と言われたので僕も挨拶をする。何かそのことが余計にうらぶれた感じになった。

 風呂場の電気は消されていて真っ暗だったので、スイッチを探して付ける。その明かりの中に浮かび上がったのは、しかし予想外の青いタイル造りの、古ぼけてはいるが案外と味のある大きい浴槽だった。無色透明なお湯。そのお湯が流れ込む音だけが響いている誰もいない浴槽の空間・・・。こんなシチュエーションはなかなか味わえるものではないかもしれない・・・そう思って、湯につかった。そして、びっくり。お湯加減の絶妙さ。まさに丁度良い!ヌル過ぎず、熱すぎず、そしてまったりと肌にまとわりつく温泉特有のお湯の感触。無色透明なお湯のなかに揺らめく小さめの湯の花。何ともくつろげるではないか。ようやく来てよかったと思えてくる。

 ゆったりと、たったひとりお湯につかり、疲れを癒した後、脱衣所を出て、その前にある洗面所を回ったところの、丁度風呂場へ誘導する廊下の両側に、昔の写真が飾られているのに気づいた。2人の女性モデルが露天風呂でくつろいているモノクロ写真・・・年代を見ると昭和12年の写真だ。その当時の宿の宿泊のパンフレット。宿泊費700円。何かの旅雑誌の広告の写真。そんなようなパネルが続いて、それから創業時の写真があった。大正時代だ。黒塗りの自動車が止まっている。創業者やその家族と従業員の写真もある。建物も当時としては瀟洒な建物のように見える。きっとその当時は、ハイカラな宿だったのではないだろうか?もちろん昭和の途中で建て替えられたのではないかと思うが、考えてみれば、このホテルの玄関も、雪の多さゆえの苦肉の策で金属の引き戸にしてあるのかもしれない。僕自身も雪国に暮らした経験があるので、それは仕方がないのかもしれないと思う。考えてみればスキー客がほとんどであるだろうから、立派な玄関もいらないのである。

 そう思って宿に慣れてくると、昭和のレトロの世界に入り込んだ気持になって来る。古いけれども、掃除は良く行き届いているし、髪の毛一本落ちていない。その清潔感にほっとして、布団にもぐる。ここには当然ネットもない。だからメリーゴーランドのように回り続けるいつもの世界から隔離されて、今の時代の流れからはずれたところにいるような感覚にも陥る。シーンと静まり返った宿は、どこかの骨董屋の中に紛れ込んだような気持ちにもなる。こんな本物のレトロは、なかなか体験出来るものでもないだろうし、案外と癖になるのかもしれない。

 翌朝の目覚めは気持よかった。また温泉に入ったが、やはり誰もいない。ガランとした浴槽にひとりで入る。・・・上段の窓から差し込んでくる光。その光線の中でお湯がきらきら光り、そこだけ湯気が立っている。その場所に移動して、深呼吸ひとつ。これはなかなか気持ちが良い。天井は高く、大きめの窓が二段になって両方の壁にあるのだが、下の方の窓は、外から木で塞がれていて何も見えない。これも冬場の雪対策がそのままになっているのだろう。しかし、それがかえって、不思議な雰囲気を醸し出していて、半地下の部屋の中で、天井近くの窓から地上の光が舞い降りてくるような印象を受けるのである。意図的ではないにせよ、その空気感は何ともいえない心地よさとなって、誰もいない浴槽の空間を満たし、どこかやさしい気持ちにしてくれるのだった。

 さて、風呂から出ると腹が減ってきた。ちょうどそこへタイミング良く食事が運ばれてきた。なるほど、一応旅館なんだと思わせる朝の食事。魚、鶏肉、鍋を兼ねた味噌汁、小鉢がふたつ、温泉卵、おしんこ、スイカとメロンのフルーツの盛り合わせ。味もよかったので、結構全部食べてしまった。でも醤油差しがキッコーマンの小瓶だったのは笑えた。

 ホテルを出る時、フロントには誰もいないので、声をかけると、おかみさんが出て来た。駅までどう行ったらいい?と聞いたら、「お送りしますよ」と言って、おかみさんが車で送ってくれた。また来ても良いかと思ってしまった^^;;