開け放たれた部屋の両側に沿って、庭が一望に見渡せる。椿や丸いツツジの刈り込みの一群や、白っぽい地面の上の薄紫の花の群は、中国の揚子江の風景をかたどって、山々から砂漠への景観と、その砂漠に咲く花を表しているのだと言う。広大なひとつらなりの風景を借景とした部屋の空間は、まるで屏風を広げたような、ひとつの立体的な山水画のようにも見えてくる・・・。
この詩仙堂は、そもそも寺ではなかったそうだ。現在は曹洞宗永平寺の末寺ということだが、もともとは、石川丈山という文人が1641年に建てたもので、狩野探幽の絵に詩を自ら書き、壁に掲げたことから、その家屋の一部を詩仙堂と呼ぶようになったのだと言う。そういうわけで、寺臭くないのが、この場所の魅力かもしれない。
それにしても、庭の魅力とは何なのだろう・・・。
見るたびに再発見もあるし、一言で言えないのだが、あえていえば、庭には日本の美やその独特の空間があるし、禅的な世界の広がりを感じるところでもある。またさらには、ひとつの心象風景、あるいは抽象画に出会うような場所でもあるのである。庭という場は、そういった様々な要素が合わさって、ひとつの小宇宙が形成されて行く摩訶不思議なところなのだ。
・・・と書いて、それも単なる説明でしかない事に気づく。
やはり、庭は体験するものなんだろうね^^;;
・・・この詩仙堂を訪ねた日は、朝からぽつぽつと雨が降っていた。やがて庭を見ている内に本降りとなり、雨の中、ずっと、長い間、この庭を眺めていた。獅子脅しの甲高いカン・・・カン・・・という音が断続的に雨音の狭間に響き渡っていたのを思い出す・・・・。
ここの畳の上に横になって、ぼんやりと庭を見ながら昼寝でも出来たら気持ちいいだろうなあと思う。
(一度、別の場所でやって怒られた経験あり・・・。)
それこそ穏やかで湿潤な気候ならではの、日本でしか味わえない豊かさではないのかな。
写真:2007.7
この詩仙堂は、そもそも寺ではなかったそうだ。現在は曹洞宗永平寺の末寺ということだが、もともとは、石川丈山という文人が1641年に建てたもので、狩野探幽の絵に詩を自ら書き、壁に掲げたことから、その家屋の一部を詩仙堂と呼ぶようになったのだと言う。そういうわけで、寺臭くないのが、この場所の魅力かもしれない。
それにしても、庭の魅力とは何なのだろう・・・。
見るたびに再発見もあるし、一言で言えないのだが、あえていえば、庭には日本の美やその独特の空間があるし、禅的な世界の広がりを感じるところでもある。またさらには、ひとつの心象風景、あるいは抽象画に出会うような場所でもあるのである。庭という場は、そういった様々な要素が合わさって、ひとつの小宇宙が形成されて行く摩訶不思議なところなのだ。
・・・と書いて、それも単なる説明でしかない事に気づく。
やはり、庭は体験するものなんだろうね^^;;
・・・この詩仙堂を訪ねた日は、朝からぽつぽつと雨が降っていた。やがて庭を見ている内に本降りとなり、雨の中、ずっと、長い間、この庭を眺めていた。獅子脅しの甲高いカン・・・カン・・・という音が断続的に雨音の狭間に響き渡っていたのを思い出す・・・・。
ここの畳の上に横になって、ぼんやりと庭を見ながら昼寝でも出来たら気持ちいいだろうなあと思う。
(一度、別の場所でやって怒られた経験あり・・・。)
それこそ穏やかで湿潤な気候ならではの、日本でしか味わえない豊かさではないのかな。
写真:2007.7