Mind Leaf

~ マインド リーフ ~

    

ティム・ホールボム氏 NLPセミナー 2007年11月3~4日

2007-10-30 16:38:21 | セミナー・ワークショップ
 NLP研究所のティム・ホールボム氏のセミナーを受講する。ティム氏はNLP(神経言語プログラミング)の創始者のひとり、ロバート・ディルツ氏などとも共同研究を行っていた人でもある。(写真はティム氏とは関係ありません。単なるイメージです。)

 彼の特徴のひとつは、アイ・アクセシング・キューである。アイ・アクセシング・キューとは、眼球動作パターンのことである。人はどんな時でも、目が動いている。その目の動きはもちろん意味がある事は、ジョン・グリンダー氏によっても明示化されたことである。すなわち、脳神経とのかかわりにおいて、人の眼球動作にはパターンというものがあるということだ。つまり人が何かを思い描いたり、何かを聞いたり想像したり思い出したり、心の中で会話を行っている時には、それぞれある特定の眼球動作パターンとして表れるということである。

 確かに人を観察していると、そのパターンによって人は視覚、聴覚、触覚のいずれかに支配されている傾向があることが分かる。(そしてこの事はNLPとしてあるいは名前を変えて、短時間に効果をあげる心理学療法として、あるいはコミュニケーションツールとして、様々な領域に応用されてきた。)しかし、正直に言って、それはあくまでも傾向であって、ひとつひとつの眼球の動作に意味付けをすることは出来ないのだろうと思っていた。しかし、今回、その点に関する疑問をティム氏はすべて明確化してくれたのであった。眼球はほんの1秒の間に何度も動き回ったりするが、結論から言うと、眼球動作ひとつひとつはすべて意味があるというのである。その一瞬の眼球動作はすべて無意識下へのアプローチであって、結局必要があるから動いているということなのだ。例えば何かの事を思い出そうとしたとしよう。しかし、その瞬間、眼球が一瞬にして何度も動き回っている時はないだろうか。これは、脳にある関連のある記憶にアクセスしているのである。もちろんその事は意識上に上ってくるわけではない。また中には心理的に蓋をされているものもあるわけである。しかし、この「必要があるから動いている」ということから、それを利用して、ある考案されたスキルを用いると、無意識へのアクセスが可能となり、その一瞬の眼球動作と係わる有効な情報(ストレスなど係わりのある何らかのその人の体験など)を意識下から引き出すことが出来るのである。

 この神経言語的なプロセスの応用範囲は立体的にいくらでも広げて行くことが出来る。そして、そのスキルの一端を今回ティム氏は参加者に提示をし、またその効果も実演で見せてくれたのであった。しかし、今回のこのセミナーで、私が何よりも感動したのは、(今更の感もあるが)我々のこの身体の構造、動きというものが、いかに無意味なものがひとつもないか、ということであった。しかしそれこそが、NLP(神経言語プログラミング)の本質そのものを表しているようにも思う。結局身体の動かし方ひとつにしても、我々個々人は、すべて過去に作り出してきた内的なプログラムに従っているに過ぎないのである。ある動作の癖は、ある感情の蓄積の結果であるのかもしれないし、刻み込まれた過去の体験そのものでもあるかもしれないわけだが、それらが総合的に関連し合い、我々の感情や感覚や身体や精神をホーリスティックな場のように形成し、ひとつのホログラフィーのような我々という個々の存在を浮かび上がらせている。・・・これを多少言い換えると、神経回路としてのネットワークが我々個々人の持つ身体というひとつの形を形作っているが、しかしそれは同時に「ネットワークという知」でもあり、またホーリスティックな場そのものでもあり、それこそ我々の生命の営みの基本のようなものなのである。NLPはそこに作用を及ぼすスキルという事であることを改めて認識したのだった。(写真はイメージです。)

IKヨーガ

2007-10-20 16:00:37 | アクティビティー
 飯干賢一氏主催のIKヨガのクラスに参加した。ヨガ・・・実はかなり苦手意識を持っていた。苦手だったのには理由がある。随分前の事だが、あるヨガ教室に参加した折に、ライオンだかのポーズをさせられて、それが苦痛だったからだ。体中が痛かったし、舌を出すのも勘弁してくれとも思った。だいたい無理にポーズを取らせるようなアクロバティックなヨーガなんぞ、俺には必要ないと思っていた。強制的に結構やらされた感もあったし、それほど意味を見出せなかったのである。しかし、今回のヨーガは全く違っていた。もちろん受け手としての自分の変化もあるだろうが、ポーズや呼吸法によってもたらされる自分の「ボディー・マインド・スピリット」への影響をはっきりと感じることが出来たからだった。ポーズから呼吸法への流れ、マントラヨガ、すべてにおいてシンプルな中に、深さを感じたヨガであった。何のためにヨガをするのか、その事も明確に分かったし、今後もこのヨガを続けていこうと思った。それに次の日になって、その身体感覚の違いと自分の中のエネルギーの流れの違いにも驚きを感じたのであった。内的な世界ゆえ、黙して多くは語らずだが、ヨガの素晴しさを改めて知ることが出来たのだった。
(写真はIKヨガとは関係ありません)

地蔵院 京都 庭園1 

2007-10-18 15:56:04 | 庭園
 地蔵院は京都の竹寺である。阪急京都線の上桂の駅から数キロのところにある。入り口の門をくぐると、竹林の青さが目に沁みて、風に揺れて奏でられる竹の音が心地よい。庭園は庫裏の横、一番奥にあった。初めての庭園は結構どきどきする。

 アメリカ人であろう女性ペアがじっと黙って縁側に座り庭を眺めていた。母と娘のようにも見える。ちょっと距離を置いて横に座る。庭の背後の林がこの庭の借景になっていて、その空気感がとても気持ちよい。この庭は陰の庭だがなかなか良いと思った。写真の真ん中にあるのが椿の古木。もしそのあでやかな奥深い赤い椿の花が咲いたら、また雰囲気も変わってさぞかしきれいだろうなと思う。想像するだけで、陽の気が入ってこの庭が一変するのが分かる。その時に来れば見事なのだろう。

 隣のアメリカ人がvery quiet とか言っている。「ずっと座っていたから身体が冷えちゃったわ。そうねえ、ほんとよね。」と言って笑い合っている。それからおもむろに立ち上がって去っていった。下手な日本人よりも庭の見方を知っていると思い、妙に感動する。そういう自分も、京都や日本の美しさを、海外在住の日本人や外国人に教わったのだった。文化は風土によって創られるというけど、自分の国の文化を知るということは、自分たちの環境や風土や心を大切にすることなんだと思う。庭はまさに精神的な空間であり、また同時に、自分自身と相対する瞑想空間なのである。