NLP研究所のティム・ホールボム氏のセミナーを受講する。ティム氏はNLP(神経言語プログラミング)の創始者のひとり、ロバート・ディルツ氏などとも共同研究を行っていた人でもある。(写真はティム氏とは関係ありません。単なるイメージです。)
彼の特徴のひとつは、アイ・アクセシング・キューである。アイ・アクセシング・キューとは、眼球動作パターンのことである。人はどんな時でも、目が動いている。その目の動きはもちろん意味がある事は、ジョン・グリンダー氏によっても明示化されたことである。すなわち、脳神経とのかかわりにおいて、人の眼球動作にはパターンというものがあるということだ。つまり人が何かを思い描いたり、何かを聞いたり想像したり思い出したり、心の中で会話を行っている時には、それぞれある特定の眼球動作パターンとして表れるということである。
確かに人を観察していると、そのパターンによって人は視覚、聴覚、触覚のいずれかに支配されている傾向があることが分かる。(そしてこの事はNLPとしてあるいは名前を変えて、短時間に効果をあげる心理学療法として、あるいはコミュニケーションツールとして、様々な領域に応用されてきた。)しかし、正直に言って、それはあくまでも傾向であって、ひとつひとつの眼球の動作に意味付けをすることは出来ないのだろうと思っていた。しかし、今回、その点に関する疑問をティム氏はすべて明確化してくれたのであった。眼球はほんの1秒の間に何度も動き回ったりするが、結論から言うと、眼球動作ひとつひとつはすべて意味があるというのである。その一瞬の眼球動作はすべて無意識下へのアプローチであって、結局必要があるから動いているということなのだ。例えば何かの事を思い出そうとしたとしよう。しかし、その瞬間、眼球が一瞬にして何度も動き回っている時はないだろうか。これは、脳にある関連のある記憶にアクセスしているのである。もちろんその事は意識上に上ってくるわけではない。また中には心理的に蓋をされているものもあるわけである。しかし、この「必要があるから動いている」ということから、それを利用して、ある考案されたスキルを用いると、無意識へのアクセスが可能となり、その一瞬の眼球動作と係わる有効な情報(ストレスなど係わりのある何らかのその人の体験など)を意識下から引き出すことが出来るのである。
この神経言語的なプロセスの応用範囲は立体的にいくらでも広げて行くことが出来る。そして、そのスキルの一端を今回ティム氏は参加者に提示をし、またその効果も実演で見せてくれたのであった。しかし、今回のこのセミナーで、私が何よりも感動したのは、(今更の感もあるが)我々のこの身体の構造、動きというものが、いかに無意味なものがひとつもないか、ということであった。しかしそれこそが、NLP(神経言語プログラミング)の本質そのものを表しているようにも思う。結局身体の動かし方ひとつにしても、我々個々人は、すべて過去に作り出してきた内的なプログラムに従っているに過ぎないのである。ある動作の癖は、ある感情の蓄積の結果であるのかもしれないし、刻み込まれた過去の体験そのものでもあるかもしれないわけだが、それらが総合的に関連し合い、我々の感情や感覚や身体や精神をホーリスティックな場のように形成し、ひとつのホログラフィーのような我々という個々の存在を浮かび上がらせている。・・・これを多少言い換えると、神経回路としてのネットワークが我々個々人の持つ身体というひとつの形を形作っているが、しかしそれは同時に「ネットワークという知」でもあり、またホーリスティックな場そのものでもあり、それこそ我々の生命の営みの基本のようなものなのである。NLPはそこに作用を及ぼすスキルという事であることを改めて認識したのだった。(写真はイメージです。)
彼の特徴のひとつは、アイ・アクセシング・キューである。アイ・アクセシング・キューとは、眼球動作パターンのことである。人はどんな時でも、目が動いている。その目の動きはもちろん意味がある事は、ジョン・グリンダー氏によっても明示化されたことである。すなわち、脳神経とのかかわりにおいて、人の眼球動作にはパターンというものがあるということだ。つまり人が何かを思い描いたり、何かを聞いたり想像したり思い出したり、心の中で会話を行っている時には、それぞれある特定の眼球動作パターンとして表れるということである。
確かに人を観察していると、そのパターンによって人は視覚、聴覚、触覚のいずれかに支配されている傾向があることが分かる。(そしてこの事はNLPとしてあるいは名前を変えて、短時間に効果をあげる心理学療法として、あるいはコミュニケーションツールとして、様々な領域に応用されてきた。)しかし、正直に言って、それはあくまでも傾向であって、ひとつひとつの眼球の動作に意味付けをすることは出来ないのだろうと思っていた。しかし、今回、その点に関する疑問をティム氏はすべて明確化してくれたのであった。眼球はほんの1秒の間に何度も動き回ったりするが、結論から言うと、眼球動作ひとつひとつはすべて意味があるというのである。その一瞬の眼球動作はすべて無意識下へのアプローチであって、結局必要があるから動いているということなのだ。例えば何かの事を思い出そうとしたとしよう。しかし、その瞬間、眼球が一瞬にして何度も動き回っている時はないだろうか。これは、脳にある関連のある記憶にアクセスしているのである。もちろんその事は意識上に上ってくるわけではない。また中には心理的に蓋をされているものもあるわけである。しかし、この「必要があるから動いている」ということから、それを利用して、ある考案されたスキルを用いると、無意識へのアクセスが可能となり、その一瞬の眼球動作と係わる有効な情報(ストレスなど係わりのある何らかのその人の体験など)を意識下から引き出すことが出来るのである。
この神経言語的なプロセスの応用範囲は立体的にいくらでも広げて行くことが出来る。そして、そのスキルの一端を今回ティム氏は参加者に提示をし、またその効果も実演で見せてくれたのであった。しかし、今回のこのセミナーで、私が何よりも感動したのは、(今更の感もあるが)我々のこの身体の構造、動きというものが、いかに無意味なものがひとつもないか、ということであった。しかしそれこそが、NLP(神経言語プログラミング)の本質そのものを表しているようにも思う。結局身体の動かし方ひとつにしても、我々個々人は、すべて過去に作り出してきた内的なプログラムに従っているに過ぎないのである。ある動作の癖は、ある感情の蓄積の結果であるのかもしれないし、刻み込まれた過去の体験そのものでもあるかもしれないわけだが、それらが総合的に関連し合い、我々の感情や感覚や身体や精神をホーリスティックな場のように形成し、ひとつのホログラフィーのような我々という個々の存在を浮かび上がらせている。・・・これを多少言い換えると、神経回路としてのネットワークが我々個々人の持つ身体というひとつの形を形作っているが、しかしそれは同時に「ネットワークという知」でもあり、またホーリスティックな場そのものでもあり、それこそ我々の生命の営みの基本のようなものなのである。NLPはそこに作用を及ぼすスキルという事であることを改めて認識したのだった。(写真はイメージです。)