Mind Leaf

~ マインド リーフ ~

    

宇治の風景 その1

2008-04-28 00:56:38 | 旅行(たび)

 

 宇治川のあたりをあてどなく歩いていたら、ふっと、旅をしているというモードのスイッチが入るのを感じた・・・。 丁度風に乗るような、あるいは海で波に運ばれているような・・・そんな感覚だ。自分はこの土地で何者でもないし、旅をしている事そのものによって思考が止まり、旅することが目的になる。また長い旅でもしてみたいとも思い始める。要するに旅は動的瞑想なのだ。またさらに深い自分と出会えたりもする。そして、たぶん旅を切り上げたいと思うときは、必要な旅というのは目の前にある現実そのものだと思えた時なのだろう。

 

 それにしても、川面を渡る風が心地よかった。^^


宇治上神社 その4

2008-04-28 00:56:30 | 旅行(たび)

 

写真:本殿 現存最古とされる。平安時代後期のもので、世界遺産。


 年輪年代測定調査によれば、本殿は1060年ごろのものとされ、現存最古の神社建築であることが裏付けられるているのだそうだ。1052年創建の平等院との深い関連性が考えられるということ。

 

神道と神社は知れば知るほど、神秘の力を感じる不思議な場所である。仏教とは異なり、仏像という偶像がないことから、よりダイレクトでクリアな高次元との繋がりが可能であり、見えない世界、神界と直結している聖なる場なのである。そしてもちろん日本の神話とも深く係わっている。

 


宇治上神社 その1

2008-04-28 00:56:02 | 旅行(たび)

 

写真:宇治川橋

 平等院を後にして、宇治川を渡り、宇治上神社に参拝に行く。この橋は源氏物語の舞台ともなっているのだと言う。なるほど・・・。それにしても、きれいな橋です。昨日まで雨が降っていたので、水量が多く、川の流れがかなり急に感じられる。
途中で食べた宇治茶だんごがおいしかった!


宇治 平等院 その5

2008-04-27 15:23:13 | 旅行(たび)

 

 その鳳凰堂を出て、改めてまた境内を歩き、もう一度外から鳳凰堂を改めて眺めてみると、建物の伽藍を透かして阿弥陀如来の頭部が見ることが出来るようになっている事が分かった。池を挟んで遠目に如来の姿が格子越しに透けて見えるのである。同時に、たった今までその伽藍の中に居て、阿弥陀仏と対面し極楽浄土の擬似体験をしただけで、自分自身の意識が変性し、自分の意識の状態が変わっている事にも気づく・・・。極楽に一度足を踏み入れて体験したような残像のようなものや体感が残っているのだ。そして歩きながらふと思ったのは、そんな極楽浄土が実は自分の中にあるということである。それは無限の夢のなかを漂うような、頭の中で花々が咲き乱れているような、心地よいある種の悟りのような感覚である。そのように内側から開いてくる内なる境地を定着させることこそが、もしかしたら、この「鳳凰堂」の意味なのかもしれないとも思った。心の中で蝋燭の炎を灯すように、その内なる光こそが、この世界を照らす明かりとなる・・・この世界は無明ではないのである。時に本当に闇の中で手探りをしなくてはならない状況が世界や人生そのものの中でも訪れるが、どんな時にでも、この浄土の世界はあまりにも美しく、きらびやかで眩しく、光輝いている。そんな体験をしたように思えるのだった。


 ところで、暫く地元に戻ってからも、時に自分の心がこの極楽のイメージの世界を漂っていた。しかも、極楽浄土、彼岸と思うだけで、うっとりとする恍惚感を感じている自分がいた。何とも魔力的な、そして、平安を感じさせてくれるあの伽藍の中の空間へ自分が運ばれて行くのだ。そして日がな一日、そんな外界と遮断され麻痺した感覚が自分の中でくすぶり続けるのだった。それだけ心地の良い人を陶酔させる要素をあの空間は宿していて、自分の心にアンカーが掛かってしまったのである。これは魔の教えかもしれない・・・結構危ないかも浄土教・・・そんなことを冗談半分にも思っていたら、ふと「阿片窟」を思い出した。阿片とは、モルヒネやヘロインのもとになるあの麻薬の阿片である。

 

 ・・・数年前、ある映像作家の人に出会ったときに、今映画化の話を進めているといって、その作品のプロットを話してくれたのを思い出したのだ。それは、東京のど真ん中にある阿片窟の話だった。現代の大都市のど真ん中のある場所に、かつてのタイやアジア圏にあったかのような「阿片窟」ができるという設定だ。その時、それは面白いと思った。(その後、映画は作られたのだろうか・・・以下、自分で勝手に脚色)その阿片窟の主人が若い女で、チャイナドレスを着て客を迎えてくれる。その女主人は過労死で夫が死んだ後、社会に対して復讐心も持っている。そしてその魅力で、警察や政財界の人間をも阿片窟に招きいれ、ひとつのコミュニティーを作っていく。ネット配信禁止、ただ、紹介者のみ・・・いろいろな経緯でその場所を知り、人が集まって来るという場所・・・しかしすでにそんな所やカルトは現存しているかもしれない。そこはひとつの外界を忘れさせてくれるところで、阿片の力で大都会の仕組みから離脱した人々の心は、陶酔の世界で無限を味わい、あるものは、天上の世界の疑似体験をする・・・。


 仏教の大日如来による極楽浄土と、阿片窟を一緒にしてしまうのは乱暴だと言われそうだが、この現世を忘れさせてくれる場所として捉えると(随分と逃避的、厭世的か?)人が求める両者の世界のその根は同じではないだろうか。


 そもそも人は、植物が光を求めるかのように、本能的に極楽浄土を幻視し、あるいは夢見てそれに向かいたい衝動を持っている。しかし本当の浄土の世界に入る手前の世界の魅力に惑わさ、そこに留まってしまう。それこそが魔境であり、人をとりこにしてしまう領域なのだ。だからこそ、極楽のイメージや擬似的な陶酔感は人にとって心地の良い夢の世界、パラダイスにもなるのである。聖も俗も表裏一体、紙一重の世界、似て非なるもの。しかし、光と色の乱舞する陶酔的な偽りの極楽のイメージの世界を通り抜け、すべての色彩が統合される光の源に触れた時、人は本当の極楽浄土に出会えるのかもしれない。


宇治 平等院 その4

2008-04-27 15:20:28 | 旅行(たび)

 

 境内を歩いて行くと、裏手に博物館があり、その鳳凰堂の中心伽藍の壁を飾っている51体の雲中供養菩薩の一部をまじかで見ることが出来る。それは確かに素晴しかった。木彫の様々に彫られた菩薩の御姿は、天上の極楽からの音楽や香りを運んでくるように様々な楽器や持物を抱えている。しかし博物館の中の鑑賞ではなく、実際に鳳凰堂の中に入り、その中心伽藍の内部の黄金の木彫仏、阿弥陀如来と周りを囲むように頭上高く飾られている十数体の雲中供養菩薩の姿を見ると、博物館の中での鑑賞とは違って、全体の空間の中で息づいているように感じられる。如来仏の姿は、中空に浮かび上がっているようでもあり、ひとつの調和感と共にじわじわと自分の中に浄土の世界が広がって来るような感覚をもたらすのである。その体験は、本当に極楽の世界へと誘われていくかのような錯覚すら覚えていく。当初は堂内は様々な極彩色に飾られ、天上の世界を演出をするように外からの光を反射させる工夫がいろいろと施されていたそうだが、そのような極彩色の光と色を細部にわたり復元したCGの画像なんかよりも、すでに色褪せてしまったこの実物の伽藍の中の世界の方が、実際に想像力を羽ばたかせると、その阿弥陀如来の光背に抱かれるように、本当の浄土の世界に触れているような気がしてくるのである。しかもこの場で呼吸していると、この世を忘れていくようではないか・・・。この心地よさは一体なんだろうか。ここは、極楽浄土への入り口で、彼方から如来が姿を現して来たかのようにも思えるし、この場そのものが極楽浄土そのものなのかとも思えてくる。

 

 ・・・考えてみればこの平等院が建てられた時代はそろそろ公家の時代も終わり武士が台頭してくる時でもあり、世の中も騒然としていただろう。そんな不安の中、浄土とは、時の権力者達にとっても、何とも魅力的な世界観に思えたのではなかったろうか。この世に居ながらにして、すべてを忘れさせて天上の世界へと誘ってくれる浄土の教え。この場を訪れたものは、その世界観に触れ圧倒されたことだろう。そこに何を求め、何を感じ取っていたのかは、時代を超えた違いはあるとしても、しかし、本質的には、1000年前も今もそれほど変わらない面もあるのではないだろうか。

 

写真:鳳凰堂・阿弥陀如来仏 実際には伽藍の中に入れるが、撮影禁止なので、外から撮った。鳳凰堂に入るのには人数制限をしている。

 


宇治 平等院 その3

2008-04-27 15:16:44 | 旅行(たび)

 

 そもそも1053年藤原頼道が造立し「無量寿院」と号したこの建物は、全体が鳳凰が羽を広げたような形状であり、屋上に銅製の鳳凰があるところから江戸時代あたりから「鳳凰堂」と呼ばれるようになったそうだ。また「無量寿」とは、大乗経典に説かれる西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来のことであり、無量寿仏、無量光物とも言われるところから来ている。無量寿仏/無量光仏は、厳密に言うと同じものではないそうで、無量寿仏は梵名で「アミターユス」と言い「無限の寿命をもつもの」、無量光仏は梵名で「アミターバ」と言い、「無限の光をもつもの」の意味で、時間と空間の制約を受けない超人である事を示している。つまり、無明の現世をあまねく照らす光の仏のことで、西方にある極楽浄土という仏国土から現れているのだという。要は人が他界する際、阿弥陀仏が迎えに来て、極楽に生まれ変わらせてくれるという教えであり、末法思想の流布に伴い平安中期以降、極楽浄土に往生しようと願う者の信仰を集め浄土宗、浄土真宗の本尊となった・・・。

 

 平等院「鳳凰堂」の内部には、その極楽浄土が鎮座している。従って、境内を散策しながら見るその池の中に浮かぶその中央の鳳凰堂は、まさにこの世ではない彼岸に浮かぶ世界なのである。

 


宇治 平等院 その2

2008-04-27 15:13:29 | 旅行(たび)

 

写真:平等院・鳳凰堂(左中央)


・・・残念ながら季節が早く藤の花に彩られた姿ではなかったが、その池の中心に浮かぶ極楽浄土を模した平等院、鳳凰堂の美しさに一目見て圧倒されてまった・・・と書きたいところだが、実は最初はかなり拍子抜けしてしまった。おそらく自分の中で作り上げていた平等院への勝手な美意識と実際の光景にギャップがあったのもあっただろう。その平等院の持っている世界観が自分の中に入ってくるのに多少時間が掛かったのだ。余談だが僕自身はどんなものでも何かの物事に遭遇した場合、その受けとめ方には2種類あると思っている。例えば人、アート、音楽、建造物、学問などを最初に目にした時、あるいは触れた時、耳にした時、即座にある種の衝撃が自分の中にストレートに入り込んでくるものがひとつ・・・。要するに瞬間のノックダウン、人目ぼれ、直情を与えてくれるものである。

 

 もうひとつは、最初は良くワカラナイもの・・・。何だこれはと感じるものや、クイスチョン??だがどこか否定出来ない磁力を感じてしまうもの。つまりそれ自身独自のエネルギーを持っているが、その発信源に自分の波長を合わす事が出来ないので、その源に触れていくのに、自分自身の意識を広げて開拓していったり、近づいていく必要があるものだ。例えば、音楽でも最初そのよさが分からないが、でもひっかかるものがあり、そして聞くたびにその音の魅力のとりこになっていったり、あるいは、数年後にその音のよさが分かったりという経験のようなもの・・・。要するに魂が触れ合うのにそれなりの経験も必要だし時間がかかる、タイムラグが存在するものである。・・・その2種類以外は陳腐なもの、つまり日常化してしまっているものだ。もちろん日常を新鮮に見直す事も大切だが、しかし大抵の場合日常を新鮮に見直すのにも、自分の心や脳や魂を振るわせてくれる新たな刺激や衝撃が必要なのである。

 

 さて、この平等院の場合、その衝撃はじわじわとやってきた。最初に池の中の鳳凰堂を眺めながら、境内を歩く。丁度咲いていた山桜越しに見るその姿は、やはり独特の美しい姿をしている。しかし、美しいと思いながらも、その姿はなかなか自分の中に入ってこない・・・。その本性がどこにあるのか、なかなか分からなかったのである。