『衣食足りて礼節を知る』という格言があります。これを私の愚友が、「腹が減ってたら礼節もクソもない」、という意味だと、鬼の首を取ったようなドヤ顔で言ってました。まったく恥ずかしい奴だと思いながら、友達なので、ほう、なるほど、という顔をしておきました。こんな恥ずかしい解釈を、どこか他の場所で言わなけりゃいいなと思いながら、後日、他の友達に、飽くまで友達の間抜けエピソードを売る形の笑い話として、やや悪性な気持ちで言ったのですが、
「おう、そういう意味じゃないの?」と、その君は、酒に酔う前から、そんなのは常識、当たり前だと、ヨッパライがことさら酔ってないと言い張るような強情さと確信をもって言うのです。
いや、そうじゃない。そんな事を、わざわざ孔子がいう訳がない。礼節があるのは、腹がいっぱいで、家族や財産もあって、精神をしっかりと他から支えられた奴の特権であって、限られたことで、人間なんてそれなりの条件もそろわずに、立派であるはずがない。なんてことを、孔子がいう訳がない!というと、
「この言葉って孔子なの?」と飄々と言ってのける。そんな事も知らないで言葉の意味もうろ覚えで、よく今まで生きてこられたな!知らないとは最大の知だ、とはよく言ったものだ。でもそれも解釈が違う。無知の知、というのを、無知というのは何も知らない。つまり無知とは知との境目すらないのだ。と、それは天照大神の持つ、世の中を遍く照らす光と同じ、影すら否定する自爆的な光だ。というのと同じ意味だよ。と、その友達は、言っているようなものなのです。
この言葉の本当の意味を教えてあげよう。それは、衣食が足りるとはそもそも、大満足、腹いっぱいという意味では当然ない。禅で言う『我、唯、足、知(われただたりるをしる)』という意味の足りるであり、死なない程度、という意味である。「あぁ、腹いっぱい、じゃあそろそろ他のどうでもいい奴らの細々とした些末な事にも目を向けてみようか」なんておチャラけた意味であろうはずがない。足りるの意味がまず違う。
つまり、行きとし生けるものすべて、つまり生きているものは全て衣食が足りているのだから、礼節を知るのは当然である。という意味だ。
聖人の行為を見てやれ、ゴータマはそもそも王子じゃないか。とか、イエスは大酒飲みじゃないか。とか、そんな事はどうでもいい。人と比較して初めて成立する、そんな万人向けで反面的な格言ではない。絶対的な格言だ。だって孔子だよ。孔子。孔子・・・・・・。
え、孔子?なの?と、実は確信がない。 調べようと思ったけど、時計を見るともう9時過ぎたのでやめます。
明日は息子のマラソン大会。父ちゃん、見に来てほしい?と訊くと、うん。と言ったので、明日は行ってきます。
だから今日ももう寝ます。今日も一日お付き合いくださいましてありがとうございました。お先に休ませていただきます。おやすみなさい。
(これは、鶏釜飯と、余りの出来の悪さに怖気づいて、掲載を割愛しただし巻き卵と、病みつきキャベツとみそ汁の夕餉の様子です)