Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記170111 若い世代と語る HEART きみたちへのメッセージ[081031 版]と今日の絵

2017-01-11 17:58:38 | 自分史

朝日記170111 若い世代と語る HEART きみたちへのメッセージ[081031 版]

おはようございます。2008年の夏に 埼玉は浦和の学習塾「はなまる学習塾」の若い先生方に語ったシリーズの内、荒井の部分を掲載します。

徒然こと  若い世代と語る HEART きみたちへのメッセージ[081031 版]


話題 「習作自画像」
HEARTの会  荒井康全


1.わたくしの略歴
~ふるさと
~戦時体験
~終戦をむかえる、闇市と「はぶゆー・あ・ちょこれっと?」
~父親のこと、知的な刺激をうける
~キリスト教教育のこと、明治学院に学ぶ
~横浜山手の丘から、はるか客船ウイルソン号を望む
~ルネッサンス的人間像への憧れ、”よし きらいなことに挑戦しよう”
~ニュージーランドへの遠洋航海、自分探しの青春であった商船大学
~原子力船の乗り組みに志願しよう、東京大学に行こう
~機械工学大学院で熱工学を専攻する、「七輪の火も、原子炉の火も熱反応で同じ、反応現象な
ら化学産業だ
~化学を熱現象として見てみる。コピュータの技術応用に夢を馳せる
~コンピュータに化学技術の夢を乗せる、アメリカに行こう
~およその職歴
2.ちょっと語っておきたいこと(1)
宇宙飛行士になりそこなったキリギリス
3.ちょっと語っておきたいこと(2)
「お稽古事のまとめ~`わたしの羊よ`、声楽レッスンの10年に思うことごと」
i 声楽レッスンの動機 ii 素朴な期待感 iii 具体的にやってみたこと
iv レッスンの記録 v レッスンによる効用 viii わたしのよろこび
翻訳詩を数編
4.参考になりそうな考え方、あるいは態度について(1)
「参考になりそうな考え方、あるいは態度について」
5.参考になりそうな考え方、あるいは態度について(2)
「歌曲、いわしの歌、ってありますか」
ゲーテの‘ミッシイグ・リング’ すみれ、鱒、野ばら、そして?
6.参考になりそうな考え方、あるいは態度について(3)

私の65歳

~そのころの自分についての捉えかた ~セカンドの職について
~セカンドで、特技を生かすということ ~なにに苦しんだか、どう考えたか。
~「これは、仕事なのだ」 ~自分の専門を大切にする
~「 哲学がなくては、 飯が食いつづけられない」 ~ 「食うために生きる」こと
~「生きるために食う」こと
7.おわりに ~自画像とはなにか、なぜ自画像を描くか
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(本文)
若い世代と語る HEART きみたちへのメッセージ
「習作自画像」
HEARTの会
荒井康全
1.わたくしの略歴
~ふるさと
多摩川の下流は六郷川と古くからよばれていたが、多分、砂が堆積してできた中州を指して
いるのであろう。東海道、川崎の宿はそのひとつの郷にあったと想像する。わたしの生家はその周辺の農家のひとつであった。
家は江戸のしかるべき時期に摂津の方から来たらしいが、まだルーツをただしていない。な
るほど尼崎と川崎かと地勢的類似性を思う。いずれにしても開拓団移民であったのであろう、
地誌を散見するに、江戸時代至って、盛んに干拓が行われたようだ、地名に池上新田、田辺新田、小島新田などが残っている。「荒井新田」というのがあったという、横浜の歴史博物館での展示でそれを知った。鶴見区史をみると、確かに荒井という一族が親子二代にわたって干拓をおこなっている、結局 風水に流されたということらしい。それ以上のことは、これから調べておきたいが、その直系なのか、その下男のながれなのかわからないが、今回には間に合わない。自分の先天性について語るためには過去としては短かすぎるし、自分自身の後天性について語るには長すぎるのである。
38年神奈川県川崎市川崎区小田にうまれる。
父健蔵、母うらの長男として生まれる。後に二人の弟が加わるが、この時点では、2歳違い
の姉に私を加え4人の家族であるが、当時は父の両親と、まだ娘時代の3人の叔母たち、そして徴兵で外地にいる叔父で構成される十人に及ぶ大家族であった。 生後三ヶ月でリンパ腺炎での手術を行っており、「腺病質」ということばがいまも耳になじんでいる。また、小児麻痺の初期であったのであろうか、ある日突然に片足が棒のようになり歩けなくなってしまった。親は医者を探すこと、神仏に頼めることなどすべてをやってくれたようだ。 占いの神託では、端午の節句の折の鯉幟を立てるための穴の位置が、地神の癇に障ったという。寡黙で強面の祖父が、大きく育ったら親孝行をせよと幼い私に言い聞かせたという。幸いなるかな、なにかのきっかけで、回復すると、こんどは近所の餓鬼なかまに入って真っ黒になってトンボとりやフナとりに走る、やんちゃな男の子への軌道に乗っていった。京浜地区工業化の中にも、ま各処に田園が残っていた。

~戦時体験
44年川崎市立前沼国民学校に入学。出征軍人を送る歌を祖父の背中で聞き、そして自分も
その行列で旗を振っている。戦時色が日に日に強くなり、大人の会話から、ただならぬ変化が起こることを感じ取っていた。 夕食後の家族の団欒、ラジオから流れる広沢虎蔵の「旅行けば」ではじまる浪曲、ひょっとした弾みで、満州の話、そして「おい、満州に行こう、連れて
ってあげよう、明日の朝」で、戦況や銃後の話に華が咲く。いつ満州に行くのか心待ちにして、それなりにわたしは傷ついていたが、この家族にとっては、いっときの平和な時期でもあったであろう。
やがて、防空演習、国防服、もんぺ、頭巾、地下足袋、ズックの肩掛けなど、そして初めて
の空襲警報。夜間空襲で聞く空気の鋭いうなり、そして体を吹き飛ばすような炸裂音。囲炉裏の灰が天井に舞い上がった。爆明で見えたのだとおもう。百メートルもない距離の中学校の校庭とそれに続く住宅、田んぼにいくつもの爆弾が落ち、だれだれさんの一家が全滅したという。いくつもの爆弾池がその威力を残していた。

~「大師様があるから家は焼けやしねえ」
祖父はよくそう言っていた。川崎には、厄除けで有名な川崎大師がある。一方、父は近くの
電機会社の工場で潜水艦の主機モータ組み立ての現場主任をしていた、あるとき父がその機械とそこに立つ人間を私に、そおっと鉛筆で描いて見せた、山のように巨大なものらしい。そしてこれは秘密だといって塗りつぶした。ともかくも父が立派に思えた。家族は、川崎からは離れる様子がなかったが、火災の延焼を防ぐための家屋の取り壊しがはじまると、さすがに 母は姉(8歳)とわたし(6歳)をつれた疎開することになった。 が、行き先がない。母の遠縁を頼って茨城県の鹿島の近く、利根川沿いの徳島という地へと疎開するが、それもつかの間三浦三崎の漁港の町へと転々とする。徳島では、父が訪ねてきてお腹をこわししばらく寝込んで、帰っていったこと。 あるとき 私は家の無花果の木にのぼって実を食べているうちに、バランスを失して、あっと思う間もなく下の堀切の水のうえに転落したことなどを思い出す。
三崎には祖父と叔母のひとりが、ときどき来てくれた。 祖父のためにバス停で吸殻のたばこ
を拾って感激させたりした。
そのようなある夜に 川崎に大空襲があった。 それで家をことごとく焼失した。父は家財
を守るか、自分の書籍にするか迷ったらしい、彼の決断は両方とも火の中におき去った、がただひとつ 伝来の阿弥陀如来の木像を、井戸のなかに投げ入れ、数キロメートル先の家族たちのもとに走った。 途中、そして燃え盛り 阿鼻叫喚のひとを救けたりして、ようやくにして
祖母や叔母たちのもとに、たどりついたという。
この事態で、わたくしの母は、自分の夫と生死をともにすべき時と決し、三浦三崎を引き払
い、いそぎ川崎に向かった。途中、京浜急行の追浜駅に爆弾の直撃があったが、われわれ母子は、ひとつ手前の駅にあって救われた。ほうほうの手で川崎の父のもとに帰り、焼け野原のバラックに親子がおさまった。

~終戦をむかえる、闇市と「はぶゆー・あ・ちょこれっと?」
天皇陛下の声を初めてラジオで聞いた、尊いひとは、高い声なのかなあと思った。近所のひ
とたちと一緒に聞いていた、炒り大豆を食べながらだったと思う。近所のおじさんや 動員で
働いていた朝鮮の青年もいた。これからどうなるのかと元無産党だというとなりのおじさんと
動員青年との口論がはじまったが、それ以上の争う勢いとならなかった、不安ななかにも、ど
こかほっとしたあかるさがあった。もう空襲がないことがうれしかったようにおもう。 まも
なく、駐留軍のジープが、トラックが、長蛇となって、近くの第一京浜国道を東京へと向かっ
ていく光景を見る、母親はサツマイモをサッカリンで甘味を作った代用今川焼きを焼いては、
闇市で商った。
地回りがきても気丈夫に渡り合っていた。わたしは、焼け跡の工場から歯車を4つ失敬して
台車をつくり、うなる音をジープに見立てたり、ときに、国道に出ては「はぶゆーあ・ちょこ
れっと」とジープに声をかけ、チューインガムを投げてもらった。いちどおおきな缶詰を投げ
てもらった、何の缶詰であったろうか、わすれたころに、それがどんぐりか なにかの粉に変
わっていたことを知った。
さてこの間、ずい分学校に行っていなかったように思う。 もとの前沼小学校の校舎は焼失
していた、焼け残った市立新町小学校に間借りし、やがて、その小学校に糾合された。蓋のない机、二つの椅子に板を置いて三人がけにして座る。授業時間中鉛筆を無心で削っている子がいた、油紙で塞いだガラス窓等々、冬の時雨のときは、足のつま先が痛かった記憶がある。とにかく家に帰りたかった、家もトタンで雨露をしのぐ陋屋(バラックといった)であったが、
それでも家がよかった。勉強ははるか遠くにあるような気がしていたと思う。

~父親のこと、知的な刺激をうける
「お前はできる、かならず川中に入れ」、まだ学校に入る前だったとおもう。川中とは、神奈
川県立川崎中学校(現在の県立川崎高等学校)のことで、当時、国民学校からは級長の子でなければ入れない学校だったという。 そこの中学生たちの 何か後光の射した通学姿にあこがれをもって眺めていたようにおもう。 銭湯帰りに、中天の夜の星にねがいを賭けようとも思
った。一瞬の光芒の消滅はなにか願いの無謀さを告げているようであったが。
戦後まもなく、父は会社の労働組合の創設に係わり、そのリーダーに推された。初期の労働
運動であったから夜も遅かった、若い組合の人たちが、よく深夜 バラックの我が家に立ち寄
り、私が寝ている傍で、大議論をやる。 新しい時代がきた、すぐにでも社会主義革命が起こ
るのではないか、訳わからず、なにかすごいことになりそうだと思った。 議論に一段落した
合間などに、ときおり ちょっと挟むかれらの学生時代のことなどの会話が交わされ、カント
やデカルトなど 製図や力学など森羅万象に話が及ぶ。 そういう会話のなかで 自分のまだ
知らない、はるかに向こうの世界を感じとった。 その多くが機械や電気や法律など、さまざ
まな学問を大学で学んだひとたちであるということも知った。 また大学を出ていないひとの
なかにも、勉強を積んだりっぱなひとがいることも知った。 どこか知的な興奮が漂っていた。
勉強すれば、あのようなひとたちになれる、それにもしかしたら、あの運動会の予行演習でみ
た気位の高そうなマドンナに対してだって、一定の尊敬を受けることが出来るかもしれないと
思った。 生涯の友達であるM君が転校してきたのは、小学校4年の2学期であったとおもう、
勉強ができて、気風がいいライバルが現われた。
私の父親は、組合に推されて 川崎の市議会議員に立候補し、当選を果たしていた。わたし
の「川中」はまだ遠くにあった。

~キリスト教教育のこと、明治学院に学ぶ
昼休みに友達とじゃれついて、子犬のようにどちらかが追っかけて遊んでいた、わたしが逃げ
るばんであった、息せき切って、校舎の屋根裏へ逃げた、そこはもう袋小路だ、どうしようか。
薄暗がりに ひとがいる。 よくみると集会をしている、みんながお祈りしている、そうだと
思ってそおっと 仲間にまぎれ隠れた。 追い手が、迫る。 そして あれっときょろきょろ
していたが、やがて そお状況に気づいて、 彼もそこに入って座ってしまった。 キリスト
教の学校のクラブであった。ふたりとも「宗教部」に入ってしまったのだ。
私はキリスト教の学校である明治学院中学校を受験させられた。島崎藤村が出たというハイ
カラな雰囲気の漂う学校であった。 面接の試験に失敗して、補欠で入れてもらうために父親
は、たいへん奔走した、「あれを落したのはあなた方が間違いだ、一学期だけためしてくれ、それでだめならいつでも引き取る」と頑張ったらしい。 組合でのキャリアーが、押しをつよく
させていたのか、ともかくそれで入れてもらった。 ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」、あの主
人公の少年ハンス・ギーベンラートの名前をいまでも覚えている、NHK のラジオ 加藤道子さ
んの「わたしの本棚」の朗読であった。憂鬱であったが、 ハンス少年のように夢中で頑張っ
た。英語のリーダの一冊丸暗記を敢行した。'th'の発音で猛烈なヒステリーをおこすオルトマ
ス女史の英会話の授業も快調に飛ばした。すべての学科の予習と復習を試みた。そして、いよいよ夏休みがはじまったある午後、M 君と一緒に京浜急行の花月園にあるプールの水泳から帰ってくると 母親が学校の父兄会から帰ってきた。 まず「おまえ、よかったねえ」と誇らし
げに、ほめてくれた。 その夜 みんなで川崎の繁華街に出て食事したとおもう、そして御祝
いにテニスのラケットを買ってもらった。明治学院の学校生活は軌道に乗っていったとおもう。
父は、宗教に思いを持っていたひとであった。戦前から教団「生長の家」の誌友会であった。
この宗教は、スピノザ的な汎神論のながれにある思想であったろうが、基幹は皇国思想であ
ったと思う。戦後、自ら選んだ社会民主主義との間の思想的葛藤に悩んでいたようである。
あるとき組合機関紙が、父の寸描記事を乗せた。そのなかで、時代の過激なながれのなかで、ものごとに対して批判的、懐疑的な思索の傾向を示しはじめた息子に触れ、敬虔な内面性の経験を涵養していくことの必要を感じているという感想を述べていた。 息子について そ
のような関心を示してくれていたことに感動をおぼえたことを記憶している。 かつて祖父
の事業の失敗で、神奈川県立第二中学校(現在の翠嵐高等学校)の試験に受かりながらも、
一家の生計ために断念しなければならなかった、そのなにかが、多分わたしの上に投影して
いたようにおもう。

~横浜山手の丘から、はるか客船ウイルソン号を望む。
夏の陽光の下、きらきら光る紺青の海、メリケン桟橋に客船が入らんとする。巨大なライト
グレーの、華麗な船体、白いブリッジとそれに続く白い居住のエリア、その上に鷲の飛翔のフ
ァンネル(煙突)、米国の客船プレジデントウイルソン号だ。白い半袖の士官服のチーフオフィ
サーが船首にあってきびきびと指示している、あでやかな原色っぽいいでたちの人影が動く、
そんな光景である。 いつのまにか、桟橋近くに自分を立たせている、いくつかの記憶が重な
っているらしいが、そのとき、誓うものがあったとおもう、船にのってアメリカに行こう。
また、ハリウッド映画「二人でお茶を」を鑑た。中学校のときの夏休みで、これもM 君とい
っしょだった。ヒロインのドリス・デイのタップダンス、プールつきの広大な邸宅、足のすら
っとした若者たちが歌い、抱擁する、この世の中にこんな国がある、こんなに陽気で、眩しさ
に満ちた社会がある、そして一方に 貧しく、しょぼくれたわが日本がある。「あこがれのハワ
イ航路」は不滅のカラオケ定番であるとおもうが、当時ははるか遠い現実のように思われた。
なんとしても現実を引き寄せようという思いがわたしに起きていた。船にのってアメリカに行
こう。

~ルネッサンス的人間像への憧れ、”よし きらいなことに挑戦しよう”
都立一橋高等学校に入る。 熱病に罹ったように都立日比谷高等学校を受験したが、見事に
落ちた。私の高等学校は、浅草橋にあって、もともと女学校が母体であった。男女共学で、男
子は全体の二十パーセント程度で少数派であるから、いきおいクラスの結束はよかったと思う。
あとで考えれば、ここに残っていても何の問題もないのであるが、日比谷落選組みが 転校を
密かに模索していた、なんとなく落ち着かなかった。
夏が終わると 熱っぽく語っていた友人は残り、私が転校して、神奈川県立湘南高等学校に
移ることになった。このときの友人とはいまも続いている。湘南校は、当時有名な受験校でも
あり、鎌倉、鵠沼、茅ヶ崎などこの地方独特ののんびりした空気があり、また自由な気風があ
ったようだ。科目のスタートの取り遅れた分は気合で生きる決意をした。
アメリカ帰りで気負い気味のM先生に授業中に食いつき、目に留められ、彼の英語の時間に、公開質問時間「荒井タイム」をもらう。必死になって文法書を調べ先生の解釈に異を唱え、対抗するという筋書きでまわりの秀才たちに、一種のエンターテイメントを提供したようなものであった。 コーラス部に入る、生徒会委員になる。生涯の友となったH 君等とは、ここからはじまる。この学校は、二年間でコースが終わる方式で、数学は、解析と幾何が2科目平行、理科は物理、化学、生物の3科目並行で、特に出遅れた数学と物理の調整に手間取った。これが、以降の私の生き方に陰に陽に影響し、いまに至っていると思う。つまり数学と物理コンプレックスである。 英語や世界史は快調であった。一度はこのような世界に進むことを考えたが、不得意なもの(嫌いなものがあるということを認めようとしない)をそのまま残すことに拘った。 そのままでは、残念とおもった、たまたま出会いがわるかっただけであり、自分の
向き不向きにかかわりないと考えた。
たしか国立大学一期校は八科目であったから嫌いなままでは済まされないという切迫した事
情があったかもしれない。 あるいは、最後に理系コースである商船大学に焦点を置いたとき
のこじつけであったかも知れないが ともかくそう考えることにした。 世界史が得意科目で
あったから、古今東西から、いろいろな人間像を曳き出し、自由に思いを馳せる、理想的人間
像をルネッサンス世界に求める。 ダ・ビンチでよし、聖フランシスコでよしであった。
これらの全人格的なものに現代人は達することができるか、分科した時代では、ただ考えることだけでおわりであろうかとも思った。しかし、とりあえず、つぎのようにその道筋を想定し
てみることにする。
ひとつ、好きなことは出来たとする。
二つ、いま苦手とおもうものに賭けてみる。
三つ、きらいなものが好きになったときに 全人的な接近がおこなわれたとする。

~ニュージーランドへの遠洋航海、自分探しの青春であった商船大学
眉目秀麗であることということが入試要綱に入っていると聞いたことがあるがほんとか、と
訊いたひとがいる、わたくしの顔をチラッと見たようだった。 裸眼で視力1.0 とか、綱
に片手でぶら下がって10秒以上とか、あるいは、性病検査とか海洋日本の伝統的な独特の体力試験があった。「紅顔可憐の美少年」で知られる寮歌が、事実を虚飾するのかもしれないが、わかいときはだれも、それなりに、意気がいい。
商船大学は 当時東京と神戸にあった学校が戦時統合され静岡県清水市にあった。伝説羽衣で知られる三保の松原の砂浜のなかにあった。満月の夜は、駿河湾の海がきらきら光り、遠く伊豆の対岸や達磨山の灯が見えて、切なくもうつくしい。 「完全就職、陸の倍の給与、たばこも酒も免税で、しかも外国が見られる」、たしか雑誌蛍雪時代での紹介であった。
そして、1956 年(昭和31年)目出度く機関科に入学する。そして 低空飛行で1960 年(昭
和35年)秋に5年半の過程で東京越中島の地にて卒業。 卒業実習は6ヶ月、最初の3ヶ月
は三菱日本重工横浜造船所 いまの‘みなとみらい’の場所である。 あとの6ヶ月は運輸省
航海訓練所の生徒になり航海実習にでる。 練習船大成丸という3千トンクラスで日本列島を
周航して、瀬戸内海で特訓を受けると、ニュージーランドへの遠洋航海にでる。 長駆赤道を
越え、熱帯スコールに身を洗い、ブーゲンビルの夕日を望見し、いくつか南十字星を仰ぐとや
がてクック海峡に投錨する。 折りしも雨雲が切れて陽が射す、波洗う崖の海岸線に鮮やかな
みどりの丘陵が目の当たりに現出する。 赤い屋根のバーンやサイロがある、たくさんの羊の
群れがある。首都ウエリントンに着いたのだ。 ときに、”六十年安保” 東京はデモの渦で騒然
としいたときに出航したが、国際放送は、池田勇人内閣の発足を報ずる。
いま思うと、自分の生きるべき道筋と現実の学問・教科にしっくりしないものがあったのだ
と思う。 それを認めたくないから困ったものであった。 この辺のところは、いずれ、もう
一度整理しておこうと思うが、物理にも数学も その他もあまりこころ踊るものではなかった。
それ以上に基本的には、外国を無料で行きたいというところにあったから、相対的に手段とし
ての位置づけになる学業が軽くなってしまったのかもしれない。 初めて家を離れたという開
放感とみずからの責任で方向を定めるという自意識との葛藤があり、思索は旺盛であるが、意欲に敏でなく、なんとなく身を浮き漂わせていたように思う。 石原慎太郎の芥川賞作品である「太陽の季節」に障子を破る下りがあったが、持てるエネルギーが向かうべき何か、当たるべき壁の喪失感のあった時代だったように思う。 思えば日本が経済大国として離陸しようとして必死にもがいている時代でもあった。 成績のよいクラスメートに対する競争心はあまり
おきなかったし、むしろ冷ややかにみていたと思う。
蒸気タービンの実験の時間に、側の十メートルほどの水槽を、往復して帰ってくる賭けを引
き受け、実際に実行して担当教官を烈火のごとく怒らせたことがあった。この教官には、後に
就職した会社からの米国派遣の件につき、大変助けてもらうことになったが、当時はそのよう
な状況であった。

~原子力船の乗り組みに志願しよう、東京大学に行こう
「あなた、あれほど勉強しないのにこれから東京大学に行くって?」、母は意外に思ったらし
い。 惰眠を貪ってきたが、卒業航海が近づくにつれて、それまでの自分を振り返ってみる。
すくなくも受験の頃の直向きさにもう一度帰ることの必要を感じた。 船体は揺れて傾いても
また復元をして姿勢を保つのであるが 自分の復元性をためすのも ひとつの挑戦だろうと思
った。 それ以前に文系の大学に入りなおすことも考えたが、これからひとり立ちして食って
いくたねは、やはり技術におこう、逃げるべきでない、それをようやく納得しかかっていた。
それにしては、いまのこの状態はお粗末であること、やるならその世界で一線に立つべきであるというところまではきた。
飛躍するがとりあえず聴講生で、東大にいってみよう、あとはそれから考えることにした。
これには ヒントがなかったわけではない。卒業研究は、例の水泳事件のD 教官に師事したが、テーマは航路による海水温度とエンジン効率の関係であった。
当時 丸の内のレンガ建てビルにあった飯野海運本社の工務部に通い 機関航海日誌から丹
念に海水温度とエンジン効率算出諸元のデータを集めた。 船会社の機関部門がどのような状態で動いているかが伺えて興味があった。あるときここのN 課長が、帰りにビヤホールに誘ってくれた。 「君、会社に入って陸でやるんだったら、なにか特別な武器をもたなければいけないよ」といって、部下の一等機関士であるK さんの話をしてくれた。会社から東大に留学派遣されているという。 そして その人に会いに機械工学科を訪ねたことがありこれが下地に
なっていた。もっとも、このひとは、船の大学を首席で卒業している点が、私と大いに違って
いたが。
さて、ターゲットは原子力工学としよう、親には将来、原子力船の乗り組み第一号になるた
めに、機関をつくることをやるのだといってしばしの猶予をもらうことになった。 ときは、
1960 年(昭和35年)9月、甲種一等機関士の面接試験を終えて、力学の再履修のために東京大学の駒場の教室に走った。
~機械工学大学院で熱工学を専攻する、「七輪の火も、原子炉の火も熱反応で同じ、反応現象なら化学産業だ制度もそうであろうが、ものごとが始まるときは変なことがおきる、とにかく、一年がむしらに勉強して、親の手前 大学院を受験しなければならなかったから受けることにした。夏に大阪大学、京都大学そして最後に東京大学と大学院受験行脚をした。勝率は2勝1敗であった。
1962 年(昭和47年)春東京大学大学院数物系研究科機械工学入学となる。
さて、これ以降は、やや話はかたくなるが以下に概略を記す。
~化学を熱現象として見てみる。コピュータの技術応用に夢を馳せる
~コンピュータに化学技術の夢を乗せる、アメリカに行こう
~およその職歴:
64年 東京大学大学院機械工学で熱工学終了。昭和電工入社。
プラント建設設計部門に配属(装置設計担当)。
`東京オリンピックの年。
69年 米国ウィスコンシン大学大学院化学工学。プロセスシステム工学の研究。
74年~98年 現象・プロセス・品質の解析技術の研究所を作り、育てる
;技術計算、管理技術、そして数理技術分野
`第1次石油危機。技術の中心は省エネルギーと軽薄短小へ向かう。
計算機支援現象・プロセス解析(CAE)、計算機分子化学(CC)などによる材料開発、装
置設計、運転品質管理領域への支援と普及推進。
83年 宇宙飛行士に応募、書類審査で落選。
90年~98年 (社)新化学発展協会にてCCの調査研究活動とプロジェクト化推進。 め
でたく、平成10年度大学連携型プロジェクト「高機能材料設計プラットフォームの開発」採
択。
98年 昭和電工退職。
ふたたび、忽然として?? 時代の変わり目にある大学と付き合うこと。
98年~現在 武蔵工業大学事務局(国際交流、産官学交流事業企画と推進)
1998年 武蔵工業大学国際交流と産学協同の推進
2002年 東京工業大学資源化学研究所特任教授
2007年 桜美林大学非常勤講師

2007年 人間環境活性化研究会常務理事
家庭:
1967 年(昭和42年)結婚、妻 敏子、一女一男。
1973 年(昭和48年)から1年間休職 幼稚園経営

 

2.ちょっと語っておきたいこと(1)
宇宙飛行士になりそこなったキリギリス 2003.03.07
今回は、宇宙飛行士落選のさわりのお話とします。
題して「高度の命題への帰属」
ある朝 食卓に着いてから家人に聞く、「さっきのニュースで 俺のことを言ってなかった?
理科系、協調性、忍耐力とかって言っていたようだが」
宇宙開発事業団 搭乗科学技術者募集の公示、昭和58年の初冬であった。
幸い、事業団は勤め先の近くだ、気もそぞろに募集要項を貰い受け、さらにすっかりハイに
なって 早晩のわが家の玄関に立って、挙礼する。
「ただいま宇宙飛行士候補帰還せり!」
なにかの参考として、このときの募集要領を紹介しておこう。
1.採用人員 搭乗科学技術者(以下「PS」と略す」 3名程度
2.応募資格 日本国籍、短大(自然科学系)卒業相当以上、過去5年以内自然科学系部門の業務2年以上経験、5年以上の実務経験(大学院期間は考慮)、所属機関の推薦。心身ともに健康であって、無重力環境のスペースシャトル内で生活し活動することに適した以下の身体的、心理的特性を有すること。
身体的特性 身長(152cm~193cm)、血圧、視力、色神、聴力、その他PS業務に支
障のない身体的特性。
心理的特性として、協調性、適応性、情緒安定性、意志力、その他PS業務に支障のない心理的特性を有すること。

~朝のニュースで聞こえてきたのは、この辺りだ。
材料実験を円滑に遂行するため、自然科学系の基礎知識を有し、かつ、材料実験又はライフサイエンス実験についての専門的知識・技能を有すること。
分子分析(赤外分光など10種)、材料製造実験(等温電気炉など8種)、物性測定(中性子回
折など8種)、内部構造研究(透過型X線、走査型電顕など7種)、物理測定(比熱計など4種)、化学分析(液体クロマトなど7種)、生理学実験(心電計など9種)、生物学実験(インクベータなど6種)、生化学実験(電気泳動装置など8種)~ああ、化学実験をもっとやっておけばよかった。
ざあっと六十を越える測定経験が対象である。わたしが丸つけられるのは比重計くらいか。
搭乗員としての訓練活動、宇宙飛行活動等を円滑に実施することのできる教養を有すること。
~これは主観の問題だ。
所定の期間PSとして、訓練・業務に支障なく従事できること。
~問題は 推薦状とともに会社のO.K.をどうとるかだ。「本人の希望に基づいて」という
主旨の推薦状も獲得した。
3.選抜方法は 第一次で書類、二次で試験、第四次ではNASAで試験。
第三、四次では 回転椅子、直線加速負荷装置などを用いて宇宙酔いに対する適性を検査するなどであった。
~体力強化プログラムを作ってくれた娘はまだ中学生だったろうか、下の息子を加えて、一緒に遊園地のジェットコースターを乗りにいく。たちどころにして`しまった`ことに気付く。
正月早々、提出した応募調査書の動機欄には以下のことを書いた。
「舶用機関士~機械工学~化学工学~数理工学へと自らの知的好奇心と会社の理解も幸いしてひとつの経路をたどってきましたが、現在もっとも関心を持ち手がけ始めたのは「化学におけるCAD」です。コンピュータを利用して分子設計の分野を実用化したいということです。分子軌道法とコンピュータグラフィックスがその技術の中核をなすと考えられます。ここに及んで、一度 新しい素材開発の立場からきわめて純化された(無重力、恒温、真空)での実験プロジェクトに参画しておくことは本能的に意義あることと感じています。それは多分「高度の命題への帰属」による発想の転換をねらうものということかもしれません。」
「このたびは、当事業団の搭乗科学者の募集に対して御応募いただきまして誠にありがとうございました。
さて、今般の第一次選抜の結果、貴殿につきましては誠に遺憾ながら選に漏れましたことを
ここにお知らせ致します」
3カ月後 花の季節の頃のたよりであった。
蛇足ながら身体的状況変化は以下の通り;
昭和59年(1984)(当時46才) 身長 160.7cm、体重63.0Kg、 内科等診
察 異常なし。
平成9年(1997)身長 161.3cm、体重 68.5Kg、
検査判定区分 要経過観察(肥満、脂質)。
ちなみに、応募者数は540数名、 先にカナダでは2000人規模であったという。本プロ
ジェクトのその後の状況は、皆様ご存知の通りであります。ややあってから、高等学校時代の友人がさりげなく言った。
「そうかあ、もう猿の乗る時代は終わったんだね」
終わり。

3.ちょっと語っておきたいこと(2)
「お稽古事のまとめ~`わたしの羊よ`、声楽レッスンの10年に思うことごと」
キリギリスだった、なれば、習わばパバロッティ、コールウーブンゲン覚えてますか?
平成12年3月
i 声楽レッスンの動機
*50歳に近づくと、仕事のほうもほぼ先がみえてくる。
なにか、あたらしいことをやっておきたいと思った。
*ひとが誘ってくれないことをやってみたい。
*ニッカウヰスキーのテレビコマーシャル`空気が動く`
キャサリンバトルの透明感のあるオンブラマイフー。
*神の恵みの雨は、ほぼ万人のもとに降っている。
*自分を試験体として、見る。つまり 科学的に練習の経過が見られないか。
*もしかしたら、普通の人間の声も、訓練によっては楽器になるかもしれないと思う。
ii 素朴な期待感
*何回くらいレッスンに通うと、声楽らしい発声になるのか。
歌うのが上手というのは、どういうことなのか。
*ドイツ語の詩やイタリア語の詩は、何回読むと暗唱できるか。
(50歳代であるとどういう困難があるか)
暗唱したあと、どのくらいの期間でわすれるか。
暗唱回復は、何回くらいでもどるか。
これらは、個人差、年齢差でどのようにちがうか。
*中高年からの声楽という本を書きましょうか。
iii 具体的にやってみたこと
1)レッスンの回数をカウントする。
着替えの場所に日付入りのノートを開いておく。
2)レッスンのレコーディングをする。
(携帯テープレコーダ 5代目。200本のカセットは結構ボリュームがある。写真を撮影し
て処分した)
内容をなるべくノートにも記録する。(最初の5年は、よく記録したが、活用のしかたが見え
ないのでやめた)
3)レッスンのレコーディングをよく聞く。
4)コールウーブンゲン、コンコーネ50のカラオケがある。(これは、問題であった。活用の
仕方によるのであろうが、習いはじめのころは、背に腹は替えられない思いで利用したが、
先生にバレた)
5)曲目のCDを買いあさる。(課題が与えられたときになるべく聞いてイメージを知るように
した)
iv レッスンの記録
第1回レッスンは 1990年3月31日(土)、第200回レッスンは
1999年10月2日(土)
レッスン回数 200回(10年;20回/年)
習った曲目数 49曲(10年;4.9曲/年)
イタリア語の歌曲 19曲
ドイツ語の歌曲 25曲
日本歌曲 4曲
その他 1曲
v レッスンによる効果
1)声楽の声が、でるようになったと先生に言われたこと(2000年1月)
2)その他
vi わたしの固有の問題
1)発声がこもる、あかるい「ア」の音がむずかしい。
2)からだがかたくなる傾向がある。
vii 声楽による生活上の因果循環関係について
1)5年前に、積年の課題であった蓄膿症の手術をする決心をあたえた。
治療の結果はありがたし、成功であった。

結果として空気の通りがよくなることが発声によき影響をする。
2)治療がたばこを止めることを決定づけたが、発声上の好影響の期待が勇気づけてくれた。
3)入院生活の朝型をその後に適用した。(残業と夜遊びはやめた)
4)テープでの自分の声聞きながら眠りに入る。
仕事やその他の心配事をいったん遮断できる。
どんな状態でも、自分の声は良い声だと念ずる。曲が仕上がりに入る頃はよく眠れる。
5)結果として、身体の養生を成し遂げることになる。
上記1)と2)の結果、多分肺からの酸素吸収がよくなってきたことから身体全体の活性が上
がったようだ。
6)食欲の急激な増大と、体重の増加をおこす。
7)食生活を変える方向の努力がはじまる。
8)運動として、1日1万歩をこころがける。
使い走りを厭わないようにこころがける。体重は増加傾向であるが、ぎりぎりのところで抑え
てくれている。
9)通勤満員電車は、詩の黙読の場となる。特に帰りの疲れているときなどは、リフレッシュ
のためによい。
10)週末、早朝決まったコースをあるく。口にマスクを当て、秘かに発声練習をする。練習
時間が獲得できる。(なるべく音が他に聞こえないよう気を配っているが、 はたして?)
viii わたしのよろこび
1)コールブンゲンが、ともかく最後までいった(1998年12月)
2)グローバーのこどもの楽典が最後までいった(1999年10月)
3)娘が、ときに伴奏してくれたこと (1994年5月)
4 ) 孫娘と同じ先生になって、親子3 代が、レッスンを受けることになったこと
(1999年6月)
viii 先生のキーワード集をつくりたい。これは断わられた.
x その他
翻訳詩を数編
シューベルト 要約詩「冬の旅」 (1993年1月)
シューベルト 「魔王」 (1997年4月)
メンデルスゾーン(「郷愁」(`わたしの羊よ`)(1999年10月)

 

4.参考になりそうな考え方、あるいは態度について(1)
「参考になりそうな考え方、あるいは態度について」 2007. 10.22
新しく遭遇した語は 一度声に出して読んでみる。
繰り返しでてくる語は 全部読まずに 略号化して読む。
数式は ひとつのまとまった文節としてとらえる。まず全体の形を概観するが、たのし
み気持で丁寧に目で追う。紙のうえに一度書くくらいの丁寧さが必要である。 意味が
理解できたかみずから問う。
目次をながめる。新聞などの記事であれば 見出しが目次に相当するからこれを目で追
う。
こころが動くか注意する。眠いときはこの資料から離れる。できればページをひらいた
ままがよい。
目次を目の動きをながれとして意識して、ながめていて 目が留まろうとした字句を意
識する。
この目次の前後、および本文の前後に目を通す。
ここで意味がわかれば 進めるところまで読み進む。
前後の関係の章節に目を通し、さらに読み進める。
適当なところで目次にかえり、その章節全体を読む。または、さらに目に留まった字句
の章節に飛ぶ。 この時点で 意識がこのマテリアル(本)への入り具合がわかる。
自分の意識に浮かんできたイメージが なんであったかを言葉で言い換えてみる。これ
をイメージ項目といっておこう。いくつかことなるイメージ項目がこのマテリアルから
どうして発生したかを意識してみる。
イメージ項目を紙の上に置いて見る。これは多分にKJ 法に近い。 項目同士の関連を
主観的に線でつなげてもいい。これをイメージ関連図といっておこう。
この時点での自分としての印象、所見めいたものがでてくるが これを順序を気にせず
に、一行程度を項目として書く。 この過程で 発想力がはたらくであろうから、出て
きたものを 遠慮せずに置いてみる。
ここまできたら このイメージ関連図をながめながら自分がこのマテリアルから得ら
れるものはなにかを考え、言葉として表現する。 その目的上にあるなら、さらにマテ
リアルをよみ進める。
このマテリアルの参考文献名をメモしておく。
イメージ関連図をながめながら 自分の課題として考えをめぐらしてみる。
そのための自分の材料として どの部分が使えそうかを考える。
使えそうならデータとして 自分のファイルに残すことを実施する。
自分の課題までに 至っていない場合でも 自分の意識が動いたという事実を重視す
る。
課題が見えていないだけか。
この場合、このマテリアルが直接、自分になげかけているものを 一応の課題として
まとめておくことを考える。 どういうまとめ方がるか。 そのまとめ方がつぎの自分
の興味にどうつながるかまでかんがえられると最上であるが。
まとめをつくる。
話したい相手を想定してみる。自分の友人のだれに このまとめを伝えたいか。
単に つぎの思考のための単なる準備としてのまとめなのか。
それにしても 一応 語る場とそこにいるひとたちを想定できると都合がよい。
会社や 大学ならイメージがわきやすい。
いずれにしても まとめは わかりやすく相手を疲れさせないように工夫する必要が
ある。(その点では 友人への手紙が、最初のブリーフィングかもしれない。)

一応 A4 一枚 1500字程度でこれをまとめてみる。
いまの瞬間に脳裏にあることから ことばにしていくのでいいとおもう。これが意識を
喚起すことになる。それを 相手に説明することを考えて 事実を 材料を使って載せ
ていく。
事実と意見を分けて扱うのがよい。
科学的態度からすれば 結論がどうなるかを 材料から考察することになる。その意味
では、材料をながめているときが考察の段階に入っていることになる。 分かりかけて
こと、さらに何を調べなければならいか、どこまでが自分としての「射程」とするか、
その射程で意味があるかなど 気軽に目盛っておく。
―――――
獲得した情報の量の多さをもって判断の準備ができたと主張することはしない。この段
階では すこし控え目なのがよいかな。
(出典 ノートNo.16 071023 資源循環論 J0407 arai)

 

5.参考になりそうな考え方、あるいは態度について(2)
「歌曲、いわしの歌、ってありますか」
ゲーテの‘ミッシイング・リング’ 鱒、野ばら、すみれ、そして?
ゲーテの詩になる三つの歌曲の話です。
だいぶ前になるが、青山にあるドイツ文化協会 別名 ゲーテ・インシティテュートに、ド
イツ歌曲についてのコースがあると、近所の夫人から教えられ、通ったことがある。“雨、嵐そ
して稲妻、わたしは樹の下へ走る”、シューベルトの「羊飼いの嘆きの歌」の一節が、そのコー
スのキャッチになっていた。毎週水曜日の昼の時間にあって歌曲の伴奏者として高名なカーリン三上女史の会である。銀髪で、聡明な目を輝かせての語り口とよく用意された教材話からあふれる話のながれに、女史の深い洞察があり、おおいに魅せられたものであった。いまは大変人気のあるコースとなっているという。
ここに取り上げたのは、そのころのものであるが、考えかたのヒントとして本質的であると
おもえるので、ちょっと紹介しておきたい。
女史は ゲーテの詩になる「すみれ」、「鱒」、そして「のばら」の三つの歌曲をとりあげた。
それは つよい者とよわい者との関係における、それぞれへの意識のありかたとしての投掛けであった。
はじめは 「すみれ」 これは、モーツアルトの歌曲でつとに知られている。
「一輪のすみれが草原に咲いていた
そこへ若い娘の羊飼いがやってきた。
すみれはひそかに思う、
ほんのつかの間でもいいから、
あのうつくしい娘さんがわたしをつみとって
その胸に抱きしめてもらえたら

すみれの気持ちを知らずか、娘はやって来てすみれを踏みしだいた。
それは可憐なすみれだった」
この場合、強い側は娘さんで、弱い側はすみれ、娘さんはすみれに対して無意識で、すみれは恋焦がれているから娘さんに意識をもつと説明する。
つぎは、シューベルトの曲になった「鱒」である。
「釣竿を携えた一人の釣人が
川岸に立ち、冷ややかな面持ちで、
魚が身をひるがえすのを見ていた。
水が澄んでいる限り、
釣人は鱒をその釣竿で捕らえられない、と
わたしは思った」
この場合、強い側は釣人で、弱い側は鱒、釣人はひとつ仕留めようと相手に対して強い意識をもつ。鱒も 自分の存在を結構アッピールしている点では意識しているという。
むかし、高等学校の音楽の教師がこの詩は、権力への風刺であるといっていたことを思い出
す。
そして、今度は、世界中のこどもがうたう「野ばら」とつづく
「少年は一輪の可愛いい薔薇に目を留めた、
少年がお前を折るよ!と言った、
薔薇は わたしをいつまでも忘れないように
あなたを刺すわ、わたしは折られるのは嫌よと答えた」
この場合、強い側は少年で、弱い側は野ばらであるが、ここはいささかややこしい。単純に
は.少年は花を見つけたという点では意識、見つけられた
ばらはいい迷惑で、もともと少年に対して無意識である。ばらがチクリと少年を刺すところ
から、双方が意識して、「鱒」のカテゴリーに近づくだろうか、あるいは、ばらが まもなく少
年に捨てられるということになれば やはり強者の無意識、弱者の意識でおさまるか、仕込ま
れた文学的なモチーフにひとは引き込まれていく。

 さて、この歌曲の三点はまとめると以下の形になる;
わたしは、この構図に すっかり参っていた。そして このマトリックスを見て、当然なが
ら気づくのは 強い側も弱い側もお互いを意識しない。(xxxx)の升目に入る曲はなにかと
いうことが気になってくる。 ここまでくれば、もうくどくどとご説明することもないが、う
っかり ゲーテの作品になにがあるかはまだ調べに当たっていない。あの頃、飲んでいるとき
にドイツからの若い客にそおっと(xxxx)はなにかと聞いた。彼はしばらく目を膝に当て
弱い側から
強い側から
相手を意識する 相手を意識しない
相手を意識する 鱒 野ばら
相手を意識しない すみれ xxxx
て、やおら「それは 鰯ですよ」とこたえた。で? そのこころは? 食う人間の方も鰯がか
わそうとかありがたいとかの意識はないし、食われる方も多分食われていやだろうが、人間を
意識していないだろうと決め込んできた。
ここまできて、もうひとつの意識に気がつく。それはこのマトリックスを眺めている目と言
えようか。(xxxx)を意識することが問題発見であることになろう。
さらにその結果として他の升目に行くべきかどうかを考えるということへ発展するのであろう
か。
ゲーテの隠したミッシングリングだったのであろうか。
ところで いわしの歌という歌曲はどこかにあったであろうか。

 

6.参考になりそうな考え方、あるいは態度について(3)
私の65歳
2002・10
定年一年まえに思ったこと、「瓢箪から駒が出る」
「おもしろいことをやってみたい、これまでの専門にこだわらない」と言ってしまった。セカ
ンドのことのはじまりであった。
~そのころの自分についての捉えかた
「哲学では 飯がくえない」、 工学研究者として やることを期待していたことは事実。やる
べき 課題もいくつか考えてきたように思う。
学位を持たないことが 不利であること。 これについては、結果的に これまでの準備が遅れ
たことを自覚していた。その意味で 大学での教員になる準備はできていなかったといえる。
一方、それまでの企業で、シニアとしての地位とその自分の足元をみるに、きわめて 危う
いものを感じた。 「なにをやっても食える」という、自覚と行動が希薄のようである。 パソ
コンネット、インターネットなど企業の新人ならやる基本的なことごとがすでに人まかせにな
って、ただ、その上に乗っているように思えた。 素朴にこれでは「飯がくえない」と思った。
自分がひとりになって、自分の体をうごかし、仕事をすることを考えた。
ただ人の上に乗っていてはやがて立ち行かなくなろう。しかしながら 独立して事業をする
ことは、 断念することとした。
なぜか、「年金生活者に近くなっている人間は、金銭的に冒険しては いけない、再挑戦が効
かないからです」 以前、英国人の若い部下から、かれの投資企画の相談を受けた。こちらの
心が動いたその折に、彼が察して だめですよと丁重に断られたことを覚えている。そして以降、事業独立は思考のそとに置くことにした。

~セカンドの職について
通産省(当時)のコンピュータケミストリー・プロジェクトの研究調査と企画を 昭和63年
より、八年越で 行ってきた。平成10年に 経済産業省産学連携プロジェクトの第一号「機能
性材料設計のプラットフォーム」(現OCTA システム)として立ち上がったが、まとめ役でもあ
ったことから、ごく自然に以降のプロジェクトへの移行が予定されていたが結果的には話は流
れた。 この話が'みずもの'であることも一方では想定してはいた。私立大学の教授である高校以来の友人と、あるときに飲んだ。「きみのところに、おもしろいことはないかね、これまでの専門にこだわらないが」と言った。これが 実は、現在に繋がるのであるが、これまでの仕事にひと区切りつけようという気持ちもあったと思う。
~セカンドで、特技を生かすということ
特技といえるか、自分の手の中を上げるとひそかに上げてみた。
語学とくに英語になじんでいる。
自分の特徴は、混沌としたことを 丁寧に筋道を立て形にしていくことが得意。
相手のはなしをよく聞く姿勢をもつ。
健康に当分自信が持てる。
けんかは不得手。夜遊びは当面しない習慣を着けた。
これまでの専門に拘らないで仕事ができる覚悟がある。
が本当に好きなのは、xx工学やxxシステム工学である。
その結果生まれた現在の仕事の成果をあげると、産官学交流などあたらしいことの立ち上げなど結構やっている。
~なにに苦しんだか、どう考えたか。
'はじめの1年は、じいっとみているというが 定石であるが、実際はそうであったろうか。
意識はすごい葛藤であった。 新しい仕事を覚えるということからくるストレスがあった。事
務局と教員との役割についてだいぶ苦しんだと思う。 窓口業務と企画業務である。当初、助
手もいないから、窓口を経験する機会となった。これはやや苦渋に満ちたものであったと思
う。家で明け方 ふと目がさめたりし、業務の手順を考えたりした。 一方企画業務は、自発
的にやるという形になっていたので精神的には 楽しいものであった。 総務部のS 次長と部
屋に何日もこもって 企画案の絵を描いた。それがけっこう実現に至っていった。
~「これは、仕事なのだ」
大学は、私鉄の駅を降りると、木々の繁みの多い高級住宅街の坂を下り、河原に降りた外れ
にある。白壁にはみ出した季節の花々が、いい。 このあたりは、カラスも多い。野生化した
インコ の集落でもしられている。 高い樹木にとまるさまざまの鳥を、途中で見上げること
が慣いとなった。特に冬の空を細かく網目で覆うケヤキがいい。 そのひとつが特に気に入っ
て、それを見上げて ひとりつぶやく、「これは、仕事なのだ」のだと。 そういう割切り方を
し、立ち振る舞いを正すといったところであった。
~自分の専門を大切にする
自分を生かしめているのはなにかと考えることがある。そこまでいかなくても、なにをす
るときにもっとも こころを満たすのであろうかと考えることがある。 そんなことをどうし
て思うのかというと「これは、仕事なのだ」のだということとの表裏の関係なのであろう。 企
業にいたときもそうであった。数学や物理のような本質的なものに触れているときが充実し
ているようだ。本質的な知に触れ、その思考のなかにいることがたのしい。これは研究者の
世界でもある。事実これが企業で 数学を使って技術開発をする部門をつくる力になったこと
を思う。 これからも、いつかチャンスが 必ずくると思うが、先々のことはわからない。 こ
れでお終いという考えもあるが、そんなことよりも、こういうことは、人間としてのあるべ
き、否 あってほしい本質的な知的活動ともおもう。 この世界の職業として遠くなったと思
った瞬間に、手放したものがいかに大切なものであったかを知るということか。 このような
気持ちが、ずうっと尾を引いてきたことを告白する。
すっかり朝型に変身した。早朝1時間くらいを取って、継続的な読書に入った。分析化学
の入門からはじまり 、朝永さんの量子力学(みすず書房)、量子化学(掌華房)、サイモンの
物理化学(東京化学同人)、分子細胞生物学(東京化学同人)と紐解いた。読んだ章節に日付を刻した。そういう日々がいまも続いていることがうれしくまたありがたいと思っている。

~「 哲学がなくては、 飯が食いつづけられない」
さて、いまの仕事は、5年間の約束で 1年更新の嘱託である。よく5年ももったものと思
う。まわりがよかったともいえる。 アメリカで 化学工学を学び、そのなかでプロセスシス
テム工学で卒業試験を終えた。 日本に帰ってきて、結構 なまいきだといわれて悩んだ日が
つづいたが、不器用だったから結局 化学数理技術という研究部門を作った。(この部門は幸
か不幸か、いまも続いている。) この学問をやっていると 不思議に対象に拘らなくなる、つ
まりシステムなのである。方法論の工学だからといえようか。 したがって、いまの仕事を実
際にうけるときに 基本的には 自分は技術者であるということを、自身のうちで決意して臨
んだのであった。 自分が貢献できるとすれば、なににあるかと考えた。 大学の事務の部門
が抱える問題を エンジニアリングとして課題化することであろう。 これに 誇りを持つべき
であるということである。 つまり「哲学がなくては、飯が食い続けられない」ということで
あろうか。
~ 「食うために生きる」こと
先日、かつての会社のライバル会社にいる後輩が、大学にたずねてきた。不器用な荒井が、
勤めているとはどういうことかということであるという。 さて、彼の問題、56歳を迎えて、
リストラの対象になったという。 優れて専門技術分野をやってきたために、あらためて仕事
を探すことの困難さを経験している。業界首位の会社も、まことに懐が浅くなったようであ
る。 日本の現実である。それで すこし歩いてみたという。 墓石の販売の営業部長に向いて
いるといわれたこと、それでもなにかあるということは、救いであると苦笑していた。 墓石
とは 想像外であるが 新しい分野というのは 残念ながらそういう形であらわれるようだ。
まず 「食うために生きる」という現実が われわれのまえに立ちはだかることになる。
~「生きるために食う」こと
新約聖書のなかのきわめつきの部分である。 逆説的であるが、終戦直後の灰じんのなかで
の世相は、まさに「食う」ことであった。年寄りから、こどもまで いつも ひもじいおもい
の毎日であったが、いま振り返ると不思議に明るさが残る。 戦争からの開放、そして 手慣
れない自由が、将来に希望を与えたといえようか。 必死になって「生きるために食う」こと
に向かったと思い返す。ひるがえっていま、世の中全体が ぴりっとしないように思えるのは
なぜだろうか。 目標が見えない。 感覚的には 金があれば手に入る、たいしてがんばらなく
ても 遣っていける世相である。
さて、このなかで 「生きるために食う」ことをやっていこうというわけである。 荒井君 準
備はできているかね。

7.おわりに ~自画像とはなにか、なぜ自画像を描くか
自画像とはなにか、なぜ自画像を描くか
17世紀のオランダの画家であるレンブラントは自画像でも有名である。
彼は 生涯描き続けたらしい。 美丈夫な壮年、やがて死が訪れる晩年まで
ゴッホの自画像も気になる。なぜ自画像を描いたか。
わたくしのの場合は 顔のしわと対面して 1分も耐えられるかだろうか。
あるいは、おい、おまえの人生は成功だったか失敗であったか、秘かな問いが脳裏を
かすめるであろうか。
ある友人はこたえて言う。 成功とは思はないが、失敗とも思はない。
星霜を経た自分とこれからの自分の生き方に 納得し、度胸を据えている部分がある。
わたくしの場合、年金が目減りしてくると ちょっと待てよと思わぬでもないが、
私もその友人に近い納得があるし、 午の陽が傾いてはきたがそれで終わりとも
おもっていない。
ある哲人は 人生の終末から自分の生き方を考えよとはいうが、なかなかそこまで
肚を括ってはいない、丈夫であり、節度ある生活であれば健全だというエピキュリアンなの
である。
あとで出てくるキリギリスとアリが混在している。
ちょっと間であるが、天からの恵みかもしれないと感謝しよう。
それでも 無意識のうちにうごくものがある。イタリア語でアニマ(精神のうごき)
というものかもしれない。
なにか ひとの役に立ちそうなことに、素直に動こうとするあれである。
知識の素養と経験の蓄積からくる所有している‘なにか’をもっているという
幻想がある。 それを 若い世代のひとに伝えたいと思っている。
そして まず、伝え準備として自分のことをまとめたいと思った。
私が所属する任意団体である人間環境活性化研究会[HEART の会]でのワーキンググループ(WG3 とよぶ)で そんな作業を試みた。
その中心がことばによる「自画像」とした。 (そこでレンブラントが出てくる
人間としてのどこまで 正直(honest)になれるか、本当は思っていることをどこまで
ことばという絵筆で表現にしうるかであった。 そして作業の結果を‘私たちの間での
メッセージ’としてとしてまとめられた。 そして しばらくのときが経過した。
そして 今回 さるご聡明な方からのご提案で「きみたちへのメッセージ」の
予備実験の機会がうまれようとしている。
さて、如何に、であるか。 われわれの年齢に有り勝ちの頑迷にならず、謙虚で つまり
正直な(honest)であるならば もしかしたら、なにかが生まれるかもしれない。
そして、なにかの点で 価値を共有することになるかもしれない。あるいは 残念して そ
うならないかもしれないがそれは それで 双方に価値があるであろう。 なぜなら、具体
的な会話の場からうまれるものへの信頼を確信するからである。 顔の歪んだ「自画像」な
るであろうか。(2008.10.26)

付録
荒井康全の読書の記憶として(08/10/26)
雑誌 少年クラブ
旧約聖書
新約聖書
ゲーテ 「ファウスト」
ヘッセ 「車輪の下」
内村鑑三著作集など
夏目漱石 「こころ」 「虞美人草」など
ローレンス 「チャタレイ夫人の恋人」
パスカル 「パンセ」
ルソー 「エミール」
モーパッサン 「ベラミ」
ペリー提督 「日本遠征記」
オールコック 「大君の都」
ディッケンズ 「デビッド・コパーフィールド」
モーパッサン 「短編集」
立原正秋の小説いろいろ
阿刀田高の短編いろいろ
ロアルド・ダールの短編集(期待せざるお話集)と童話
ギボン 「ローマ帝国の興隆と衰亡」
(モンテスキュー、マッキャベリなどのローマ・・・・)
シュヴェーグラー 「西洋哲学史」
最近読んでるもの
「世界の歴史」と「日本の歴史」(中央公論文庫)
マオール(伊理訳)「ピタゴラスの定理」(岩波)
梅津時比古「冬の旅 24の象徴の森へ」 東京書籍
いつも傍においてあるもの
英和辞典
広辞苑
理化学辞典
大英百科事典
哲学思想事典(岩波)

徒然ことおわり

(初稿:

 先進エイジフリー社会を目指して ~自画像からの提案~

【経験豊かな高齢者も活動力豊かな若者も共に協力し合って、 自然と共生しながら生活していく活力ある社会】 20035 ワーキンググループWG 人間環境活性化研究会

検索鍵語: 先進エイジフリー社会 自画像 人間環境活性化研究会

http://www.heart-no-kai.com/kankoubutu/wg3report-manuscript-binder.pdf#search=%27%E5%85%88%E7%AB%AF%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%27 )


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2017-01-12 20:20:56
荒井様← 大島(20170112):
遅ればせながら、新年明けましておめでとうご御座います。

昨年、OCTA会合の際にご紹介戴いた朝日記、頻繁に訪れて拝読させて戴いております(もちろん、”投票”も)。

昨日付のブログでは、若い方たちへのメッセージを改めてご紹介され、その引用元を拝見致しました。
かって新化学発展協会時代のコンピューター・ケミストリーへの取り組みもご紹介されており、大変懐かしい想いを致しました。

それよりも荒井様のこれ迄の歩みの何と豊富なことか!・・・改めて深い人間性の根元に触れた想いを致しました。
これより厳寒に向かう折、お体ご自愛の上、ご活躍下さい。

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