Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記210406 (その 4)翻訳 マイノング 4 こころと対象

2021-04-06 16:47:23 | 絵画と哲学

朝日記210406 (その 4)翻訳 マイノング 4 こころと対象

4 こころと対象

4.1 心理学的内容 対 論理的内容

4.2  対象としてのこころ―自己表現性、他者表現性と対比して

 

 

 

~~~本文 ~~~~

  1. こころと対象

Mind and Object

 

4.1 心理学的内容 対 論理的内容

 Psychological Content versus Logical Content

 

Meinongの著書“On Objects of Higher Order and Their Relationship to Internal Perception” (1899)で、彼はつぎの二つのcontentsの違いを明示的に紹介したのであった; psychological (mental) content [psychologischer Inhalt](; 心理学的(こころ)の内容 )および the object of a representation [Gegenstand einer Vorstellung](; 表現描写としての対象)である―これは彼にとって基本的に重要な区分であって、彼はそれを洗練させ、こころの行為のすべての種類に順次適用し拡張していったのである。

 

Meinongの非-存在な、および不可能な対象に関する見解はTwardowski 1894によって先鋭化されていった。

Twardowskiの研究はMeinongの状況から出発してより深くその内容/対象の区分について思考していった、そしてMeinong自身もTwardowskiの論ずるところの幾何かを取り入れている。

しかし、MeinongはTwardskiの表現描写の内容の区分と概念が疑問を一掃するまでに精密な概念的明解さにあるものとは理解していなかった。

 

 

Meinonongは言う、Twardowski 1894 の仕事は非常に興味あるものであり、且つ有用な情報であるが、彼としてはこのことと“対象の全体としての困難さと重要な問題”に関して言及し、そしてcontent(;内容)とobject(;対象)との間の差異についての関係について的確にものに至っていないと述べた(1899, §2: 185 [141])。

 

 

Meinongは、例えば Twardowskiのつぎのことについての批判的な態度を容認した;それらは、対象性の乏しい、空虚な表現描写があり、Bolzanoが“特殊と強調して前に進めたテーマなどのことであった( Bernard Bolzanoの序論, 本論節 3.5をみよ)。

1894年以降、Meinongは心理学的内容を純粋にこころの何かとして捉えたのである。そのような内容はしたがってつねにreal;現実的であった。

 

 

 

 

Twardowskiは、しかしながら述べる; 内容はひとつのこころの絵ある、しかし彼もまたこころの内容をつぎの二つで同定する、ひとつは名前の意味を以って、およびBolzanoのobjectiveの表現描写(理念)を以って、すなわち それ自身の内にあるもの、もしくはそのようなものとしての表現描写(理念)である[Vorstellung an sich]。

Twardowski (1894: 31 [29])は、なるがゆえに、その内容を捉えるに―その現実的行為との対照において― “常に現実性を欠如する”ような何かあるものとしたのである。

 

 

Meinongはしかしながら、心理的内容の純粋的こころの自然性にさらに、さらに関心を払った。

彼は知っていた、心理的内容はなにか意図的な意味における抽象的なものや概念的なものではない。特定の意味のものではない。

 

According to Meinong, all experiences [Erlebnisse], even the most elementary ones, are complex mental phenomena, because they contain at least three constituents: (1) the act, (2) the (psychological) content, and (3) the object of the experience.

 

Meinongによると、すべての経験[Erlebnisse]は、もっとも要素的な経験でさえ複雑なこころの現象である、なぜならそれらは少なくとも三つの構成要素を包含している;(1) the act(;行為), (2) the (psychological) content(;心理的内容), そして、(3) the object of the experience(;経験の対象.) 

 

最初の二つは、こころの固有のものであるそして、したがって、経験が存在するなら、存在する、第三のものは存在を必要としない、それは通常、こころに対して固有のものである。

もし誰かが普遍的な平和への強い願望を玩味するなら、たとえば、まず(1) 希望の行為(そして憎しみのない行為)が存在すること  (2) 心理的内容が存在すること しかし  (3) なんら普遍的平和はおきない(the universal peace;普遍的平和という非⁻存在的対象のみが存在する)。

 

 

Meinongaは、経験は異なる対象[Gegenstände]をもつことができると信じるのはつぎの二つの理由による;

(i)異なる種類の行為に対して異な種類の対象が対応する(たとえば、“objecta” は、表現描写に対応し、そして“objectives”は、思考に対応する;see below 4.3.1)

 

(ii)しかし、行為の内側、対象の側のどんな変化もこころの成分の変化が対応し、その変化とは経験の心理的内容である。

Presentation of Objects via Psychological Content.での付録をみよ)

 

しばしば“content”(;内容),とよばれるものは、特に“conceptual content”(:概念的内容)とよばれるものはMeinongのpsychological content;心理的内容ではない。

Meinongは彼の後期の研究では、心理的と論理的(=概念的)内容との間を区別する。しかし、かれは強調する点としては“logical content”とよばれているものは“[心理的]内容ではなく、対象もしくは、より正確にいえば、  the proximate object(:隣り合わせの対象)”である。隣り合わせとは心理的内容が関係するという意味である(1915: 163n)。

 

 

説明発表の心理的内容は 抽象的なもしくは意図的ななにかではない、ここでは、概念的内容は補助対象によって同定される、この補助対象は非完全対象でありそして普遍性に近接しているように見える。

 

しかしながら、意味していること、参考にしていること、そしていわゆる“logical content”論理的内容はMeinongの適正理念的な関係によって保証される、これについては以下の補足でのべる。

 

たぶんこれは 多くのMeinongの通訳者がMeinongの心理的内容が、あまりにも意図の領域に近いものを曳いてくるように見える理由のひとつである。

にもかかわらず、Meinongは考える、それは心理的内容と論理的内容との間に投入された区分が彼をして心理主義を避けることを許すものであると。

Supplementary Document: 対象の表現描写に対する心理的内容である。

 

 

 

 

 

4.2 対象としてのこころ―自己表現性、他者表現性と対比して

Mind as Object —Self-Presentation in Contrast to Other-Presentation 

 

Meinongのいわゆるself-presentation [Selbstpräsentation](;自己―表現性)は通常、consciousness, of the manifest mental(;明示できるこころ)についてのa mark of consciousness,(;意識徴章)として取り入れるものである。

Experiences(;経験)、すなわち意識的なこころの起承は、 それらをa self(;自己)に対して、表現することができる。

この種の自己表現描写性は the self or the ego(;その自己やエゴ)の表現描写にはまだ、至っていないが、それはMeinongのここでの関心テーマではなかったのである。

 

経験はinfallibility(;誤りのない)意味でのself-evidence(;自己証明)やinner perception(;内部知覚)、self-observation(;自己-観察)、およびhigher-order thinking(;高次元思考)とは別の部類に属するものである。

全体としてmanifest mental life(;はっきり明示できるmental life(;こころ))はself-presenting(;自己表現的で)あり、つまりa subject(;主体・主観)での経験にすべては、experiencing subject(;経験的主体・主観)へのself-presenting(;自己表現)をするものである。 

 

もし諸君が、雨が降っていることが幸せなら、諸君はinner perception(;内部感知)において幸福を掴むことができる、しかし、これは別のmental content(;こころの内容)によってではない。

諸君のこころの経験が諸君にその経験自身を説明することは、諸君自身のinstantaneous experiences(;瞬時的な経験)を参考にすることを意味している。この瞬時的経験というのは、それらをさらに表現描写する仲介するなにかを伴うものではない直接的意味のものである。 

 

諸君は諸君の瞬時的な怒りや恥の感覚について反応することができるのであり、諸君の怒りや恥の感覚のある種のmental symbol(;こころの表徴)を必要としているわけではない。

通常、objects of experiences(;経験の対象)は、それらの経験によって構成されるのではない:それら(;対象)はこころとは独立ななにかであって、意識へのimmanent(;内面化)でもない。

 

 

mind (consciousness)(;こころ(意識性))への内面化はそれ自身がexperiences(;経験)である。

諸君がrepresentation of red(;赤について表現描写)を所有するとき、諸君はobject red.(;対象 )についてconscious(;意識的)である、そして、それ自身、全体としての表現描写のこころのpiece(;一片)である。

 

 

inner reflective experience(;内面的反射経験)の対象としてのred-content(;赤の内容)を表現する目的として、諸君はさらなる、別途表現描写をすることを必要としない、そのような描写とはadditional mental content(;付加的なこころの内容)であり、その;赤の内容がその付加的な赤の内容への対象に対応するような内容のものを必要としないという意味である。

赤の内容は、それ自身をして諸君のこころに表現するcapacity(;容量)を所有している。

一般に、その人自身のexperiences(;経験)を参考することに、付加的な内容からの仲介を要求しないのである。

 

Meinongはall inner experiences(;内的経験すべて)およびその部分すべては、self-presentation(;自己表現描写)を通じて獲得することができると考えた。

Meinong(1910, §20: 138 [103], §43: 264 [190–1]; 1915, §33; 1917, §1)はこれを、inner experiences(;内的経験)のself-presentation(;自己表現描写)[1]と称したのである。これは他のあるもののへのsign(;信号)としてcontent functions(;内容機能化)する場としてのthe other-presentation [Fremdpräsentation](:他-表現描写)とは対極をなすものである。 

 

経験はそれら自身の表現描写(および内容)によって獲得される範囲のなかに持ち来らされる必要はないので、Meinongはself-presenting(;自己表現)をparts of an experience(;経験の部品類(行為要素および内容要素))とよび、そして経験の全体の自己説明をquasi-contents(;擬内容)と称したのである。

 

 

このquasi-content(;擬内容)は獲得もしくは意図されていた対象とcoincide(;一致する)ものである。

諸君がなにかを願望しているとき、そのなにかが諸君の願望のものであると諸君が判断することも起こりうる。

その願望全体は、そのとき、それ自体が諸君の判断を表現しているのである。この場合、内容を推測するいかな付属物も伴わないのである。

それは内容の役割を演ずるのであり、そのような意味で―その名を“quasi-content.”(;擬内容)というのである。

 

Meinong(1906, §§11 and 13; 1910, §43)が注意を喚起しているのはふたつの異なるもので、単一で同じ経験と内容をそれぞれがもつものに対してである:

  • もし我々は我々のinner experience(;内的経験)に自身の注意を向け、たとえば、赤の表現描写の赤の内容に向けたとすれば、このまさしくおなじ内容が、それ自身のinner perception(;内的知覚)に仕えるのであり-その赤の内容は意図された対象となるのであり、そしてそれ自体の獲得(知覚)のために仕えるのである。 

彼はさらにまた言う;この場合にその内容は  turned inwards (introversion, [Einwärtswendung])(;内方向に転ずる)のである。

 

(2)もしthe content(;その内容)が、赤のあるものについてのperception or a thought(;知覚や思考)に寄与するなら、その内容はcoordinated outer objects(秩序化された外側対象)の獲得のために奉仕することになり、そして 、なるが故にturned outwards (extraversion, [Auswärtswendung])(;外側への転換)と呼ぶことができる。

 

 

Meinongは意識に関しての、高度に争論を引き起こす以下のデーマを受け入れないであろう;

 

(C) 

Consciousness(;意識)が、もし、主体・主観s が conscious property(;意識的な物性)P をもつなら、s もまた、its*(;それ*)の 物性 Pをもつことに意識的である。[2]

 

 

これは、二重の仕方で自己-意識性のテーマである;

第一は s  が直接(それ自身)的に意識的であり― したがって、third person pronoun(;第三人称代名詞)が使われいる。この代名詞はCastañedaの星印といい“quasi-indicator(;擬指示)の記号である。

すなわち、強調的反射表現で、主体・主観の参照としてそれ自身である場合である(例として indexicals, Section 5 の冒頭の記述)。

 

 

第二に、 s は それが内部にある意識的状態での意識である。

Brentanoは、(C)の無限的な回帰を避ける目的で、あるprovisosを伴うものとして容認した。

Brentanoは考えた;意識状態(こころの行為)は必然的につぎのものであるとする、もしある主体・主観s  が意識状態にあるなら sもまたこの状態においてits* being(;それ*がある)について意識的である。

 

 

 

このself-consciousness(;自己-意識)は、inner perception(;内部知覚)として解釈すべきであるが、separate higher-order perception:(;別の高次元知覚)としての位置付けではなかった。

それぞれのこころの行為は第一義的には、ある対象に向かっている(私が音を聴いていることが第一義であり、)そしてそれは、偶々それ自身に向かっているのである(私が音を聴いているのはsecondary object(;第二の対象)として、それ自身である)

(次をみよ;Brentano 1874, 2. Buch, 2. Kap., §§8–9; Brentano 1982: 22–5).

 

 

Meinong はその代わり、つぎのように述べるであろう;

(C1) 

Being F is a self-presenting property for a subject s  =df Being F is necessarily such that, if s is F, and if s thinks about its* being F, then s does not need any particular, separate presentation of its* being F.

Being F  は、self-presenting property(;それ自身-表現の物性)であり、主体・主観 s  =df Being F として必然的に式として記述するものである。それにはつぎの条件がある場合である;もしs が Fであり、そして、もし s が上のits* being F について考えるなら、そのとき s は its* being Fについて何ら特定の、別個の表現を必要としないのである。

(C2) 

Being F is self-presented to a subject s  =df 

(1) Being F is a self-presenting property for a subject s, (2) s is F, and (3) s thinks about its* being F.

Being F は主体・主観  sへのa self-presenting property(;自己-表現物性)でありs  =df  

(1) Being F (;Fであること) は主体sへの自己-表現物性である  (2) s は Fであり、そして(3) s は its* being F(;its*がFであることの) について考える。

(C3) 

Conscious properties are necessarily self-presenting properties, and self-presenting properties are necessarily conscious properties.

Conscious properties(;意識的物性)は必然的にself-presenting properties(;自己-表現物性)であり、そして自己-表現物性は必然的にconscious properties.(;意識的物性)である。 

(C4) 

The evidence one gets by self-presentation is (1) direct, (2) certain (in the borderline case of immediate presence), and (3) a posteriori.

self-presentation(;自己⁻表現性)によって獲得した証拠は次の場合である;(1)直接(; direct), (2) 確実(;certain (まさしくそのとき現在のケース)), そして(3)  a posterior(;i後天的に).

 

 

Consciousness(;意識性)はある種のself-reflection(;自己-反射)を自動的に含くんではいない。

経験が意識的であるとは、主体・主観がhigher-order thought(;高次元思考)に成っているいることではない;すなわち、意識性は単なる自己-表現性による自己反射をゆるしているのであり、これは(C2)の意味としてである、しかし、意識性はBrentanoの意味で、higher-order thought(;高次元思考)やinner perception(;内部知覚)を先行して含有してはいない。

 

 

Meinongの“self-presentation”(;自己-表現性)の使用はつぎのふたつに読み取れよう:

  • ability-based term(;実行力を基礎にしての語彙)としてであり、ある経験が自己表現するのは直接獲得する力からであり、それはsupplementary psychological content(;付加的な心理学学的な内容)を伴わない;

(2)  nondispositional term(;非定着的な語彙)としてであり、その経験が実行的に自己表現されるような意味でのmanifest self-presentation(;明示的自己表現)としてである。

 

(C3)は自己表現状態が、mark of consciousness(:意識の徴章)であることを表わす;あるひとのmanifest mental life(;明確な態度での生き方)全体は、自己表現的であり(自己表現性として、実行ベースの語彙として理解される);主体・主観の経験すべては、この意味で経験の主体・主観への自己表明性である。(Cf. Marek 2003; 2012.)

 

[1] the self-presentation of inner experiences

[2] Consciousness is necessarily such that if a subject s has a conscious property Ps is also conscious of its* having the property P.

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朝日記210405 (続き 3)マ... | トップ | 朝日記210406(続き 5)翻... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

絵画と哲学」カテゴリの最新記事