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朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:56:58 | 研究論説

朝日記240219 その4 Zombies ゾンビについて

 

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

ー本文ー

  1. Does conceivability entail possibility?  認知(概念)獲得性は可能性につながるか

conceivability論議での前提(2)は:conceivableであるものはどれもpossibleであるというものである。

これは防御的要求であるようにみえるが、いくつかの角度から攻撃されてきたのである。

 

5.1 Objections based on a posteriori necessity 後天的必要性にもとづく反対

たくさんの哲学者はKripke’s ideasが事後的に必要なものであり、それが物理主義の防御を提供すると論じた。

かれらはゾンビ世界がconceivableであってさえ、それがものごとの筋道でpossibleであるということを確立していないことを促している。

心理物理的同定があたえられるなら、それはan ‘a posteriori’ fact事後的事実であり、われわれの世界の物理的複写がなんであろうともそれは感覚状態の積極的事実の視点においてわれわれとまったく似ているということでなのである。」(Hill and McLaughlin 1999, 446. See also Hill 1997; Loar 1990/1997; 1999; McLaughlin 2005; Webster 2006).

 

ある哲学者たちはconceivabilityがpossibilityへのa guideひとつの案内という仮定でさえ拒否し、それは証明の負荷はゾンビの可能性を否定する者に掛るという観点に挑戦するものである。(Block and Stalnaker 1999; Hill and McLaughlin 1999; Yablo 1993)

Chalmersはいくつかの場所(1996, 131–134; 1999, 476–7; 2010, 141–205)で応答してきた。

かれのconceivability論争での最も詳細版(2010)は二次元的意味論の枠組みを使っている。

これは彼をしてふたつの種類のpossibilityとふたつの種類のpossibilityの違いをかれに可能にさせている。

‘primary’ sense第一次センスでは、conceivabilityはpossibilityに尾をひいていく;たとえば水はH2Oとは化学的に異なる物質であるべきであったということがconceivableである。

他は、‘secondary’ sense第二感覚であり、水は化学的に異なるべきであったということはconceivable でもなく、かつpossibleでもない。

Conceivabilityの論議のためのむずかしさはゾンビ世界が第一次的にconceivableでそして、したがって 第一次的に possibleであってさえ、それが二次的にも可能であることを引きずらないことを言うことによって表現されうるのである。

そして後天的(事後的)物理主義者がゾンビ世界の第二次的possibilityのみがphysicalism物理主義のfalsity欠陥をひいているという地盤のうえにいることを典型的否定をしているのである。

 

この点で、Chalmersは効果的に対立者が二律背反をしていることを顕わにしたのである、それは(かれの結論をまとめるには粗いが)ゾンビの第一次的conceivabilityが第二次的possibilityに尾をひいていること、そのpossibilityについてのケースでconceivabilityの論議がはたらき、そしてmaterialism物質主義はつじつまがなくなったということである。 

あるいは、かれが‘Russellian monism’とよぶものは真であるとしたのである、これについては以下のSection 5.3にて簡単に触れる(See also Jackson 1998; and for discussions, Brueckner 2002; Loar 1999; Hill and McLaughlin 1999; Perry 2001, 169–208; Piccinini 2017; Sebastián 2017; Shoemaker 1999; Soames 2005; Yablo 1999.)

 

 

5.2 The phenomenal concept strategy  現象的な概念戦略

沢山の物理主義者はゾンビ概念とFrank Jacksonの知識論議の双方をあつかうのにthe nature of phenomenal concepts現象的概念の自然性へのproper understanding固有理解をとおすことである(粗くいえば、この概念はわれわれの経験の性質を運ぶときにわれわれが使う概念である:たとえば、‘sweet’甘いとか, ‘the way I see blue’わたしが青をみる道すじ)

Conceivabilityの論議の成果はthe physical物理的なものとthe phenomenal現象的なものとの間での想定される‘explanatory gap’説明ギャップ―ゾンビがconceivableであるという観念で表現される―がontological gap存在論的ギャップをもたらすのである。 

 

 

これらによるとconceptual gap概念的ギャップのみが実際にあるのである;

phenomenal concepts現象的概念はわれわれをミスリードする様相をもっていてontological gap存在論的ギャップ、さらにくわえてepistemic one認識論的ギャップがあると思わせようとすることになる。

斯くして、ゾンビ世界は事実的にconceivableであってさえ、それがわれわれの世界でnonphysical properties非物理的特性が存在するとこにつながらないのである。 

もしそれが正しいのであれば、物理主義者はゾンビのconceivabilityを認めることができる一方で、phenomenal concepts現象的概念の意味でわれわれがそこからとりだす特性はphysical物理的であるということとに整合させるのである。

 

「もし特性がその世界によって構成されるものであり、そしてわれわれの概念によるものではないならい」Brian Loar はいう「それは物理主義者がその過程の正当性を要求するのはフェアであり、その仮定とはconceptually概念的に明確なconcepts 概念がmetaphysically形而上学的に明確なproperties特性を表現していなければならない」(Loar 1999, 467; see also his 1997).

かれはさらにphenomenal concepts現象的概念は‘recognitional’「認知的」であること、これは‘theoretical’「理論的」であるphysical concepts物理的概念とcontrast対照的であると論じた。

  

 

 

 

Phenomenal concepts現象的概念は、Loar はかたる、「Kripkeは‘pain’「いたみ」のケースで観察したように、それらがとりだすそのまさに特性を表現する」(1999, 468) 

かれは考えるのは、これらのポイントがゾンビ世界のconceivabilityを説明するものであり、一方でrelevant physical propertiesこれにrelevant physical propertiesむすびついた物理特性がconsciousness.意識からは区別できるような可能な世界は何ら存在しないといことを保持していることでる。  

ChalmersはLoarの勘定がphysical concepts物理的概念がphenomenal properties現象的特性を参照する見解を正当化していないことに反対した。

かれがさらに論議した(2007)のは、このアプローチからの出てくる二律背反の直面である。

いまCがなんであれ心理学的な‘key features’としよう、そしてゾンビはそのfeatureを持たないとする。

一方、もしそれがconceivableでないならば、かれのその観点でCはわれわれのepistemic situation認識的状況を、that of zombiesゾンビの状況とはcontrasted対照したような説明ができないことになる。

斯くして、これはつぎのいずれかになる、Cがphysicalistically explicable物理主義的説明できるものでなくなるか、もしくはそれはepistemic situation認識的状態説明できなくなるかである。(この考察には以下をみよ  Ball 2009; Balog 2012; Carruthers 2005; Chalmers 1999; 2007; 2010; Crane 2005; Loar 1990/97; Papineau 2002; Pereboom 2011; Stoljar 2000; Tye 2008.)

 

 

5.3 Russellian monism ラッセルの一元論

 

Russell (1927)に従って、ある哲学者たちは、物理学はわれわれに‘structural’ properties of thingsものの構造的特性についてのみ語る、―それはdispositions配置状態 とnomic 名辞関係のようなもの―であるが、そこではstructural properties.構造的特性がかかえていると想定される‘intrinsic’ properties内的特性は第二義的なものとなっている。

斯くして、Daniel Stoljar (2001)はthe physical物理学的なものおよびそれに対応するphysicalism物理主義のふたつを区別するnotions名辞観念を論じたのである、それらはひとが物理学によって提供されたものにおいてのみか、もしくは物理的対象のintrinsic properties内的特性にも対応するものか、そのアッピール依存しているとしたのである。 

かれが示唆するのは、conceivability認知(概念)性の論争で対応する2つの版で、そのひとつがsound(なるほどとうける)である場合と、他はsoundでもないとする場合であるが、われわれはゾンビの可能性については‘strongly’ conceive 強度に認知(概念)しえないとするものである、それは粗くいえば物理主義者たちはつねにゾンビに反対するのは、われわれが物理的世界について十分に知悉しえていないとする言い訳があるからである。 

 

このような観念はChalmersが‘Russellian monism’「ラッセル的一元論」 (a variety of neutral monism中立的一元論からの出自のもの)として呼称され、現今その位置を得ている。

われわれの世界では、かれの示唆するところで、「intrinsic properties内的特性はphenomenal properties現象的特性であり、またはprotophenomenal properties原現象的特性といってよいであろう;これは、しかるべきappropriate way適宜な道すじで組織化されたときの集合的phenomenal properties現象特性が構成される」(2010: p. 151);一方、他の世界ではその対応するintrinsic physical properties内的物理特性はconsciousness意識のためには供しない。

もし、そのintrinsic properties がわれわれのconsciousness意識に与えられたとするとその特性はそれでもなおphysical物理的なものとして分類されるなら、支持者たちはこれらがわれわれの‘full’ physical duplicates十分な物理的複写であると理解して、ゾンビのpossibility可能性を否定することができるのである。  

 

同時に彼らはpossibility of zombiesゾンビの可能性をみとめることができる、それはstructural properties構造特性においてのみ、われわれを複写したものということになる。 

かれは指摘するように、この観方は「物理主義のhighly distinctive form高度識別形式のものであるとし、それはproperty dualism特性的二元論におおくを共有する、そして物理主義者のおおくが実は拒否したくねがっているものでもある。」(Chalmers 2010, p. 152; see also Pereboom 2011).  

 

physicalism物理主義としてそれを吟味することへの障害は、なぜ、われわれの世界での特別なintrinsic properties内的特性がconsciousness意識のために寄与することへ説明することが出来ないようにみえることにある、一方でその同じ機能が他の世界においては寄与しない:これは野蛮な事実として受け入れなければならないことである。 

Philip Goff (2010)は物理主義のラッセル版のためのこの曖昧性はゾンビ論議を弱めることを示唆している。

かれはそのかわり、幽霊からの論議を推奨するのである;物理的自然のいかなるものをともなわないpure subjects of experience純粋経験主観である。 

かれはそのような幽霊はconceivable であり possibleであるそして、幽霊たちは物理主義に対して論議を挑む、それは物理主義がラッセル一元論はなんら曖昧さloopholeをのこさないことに対してである。(物理主義者がたぶん反対するのは、この論議がゾンビのconceivabilityに抗するからであり、それが幽霊に抗する動機ともなりうるからである)

 

 

 

5.4 Other objections 他の反対

 

Special factors.  特別ファクター

これまで示唆されてきたものとして心理物理的ケースでの研究での特別ファクターがわれわれをミスリードする強い性向があるというのである。

たとえば、consciousness意識の状態についてわれわれをしてimagineしもしくはconceiveすることができるものは、われわれをして物理的事実をconceiveすることができるものとは異なるcognitive facultyであるという主張である; 

 

「Cartesian intuitionsデカルト的洞察に対応するcognitive factors[ゾンビについてのそのようなものの]と、ひろくてさまざまな種類のmodal intuitionsに対応するそれらのcognitive factorsとの間にある顕著な差がある」(Hill and McLaughlin 1999, p. 449. See also Hill 1997) 

この示唆はこれらの差が説明の易しさをたすけ、われわれはゾンビをconceiveすることができるようになるが、そしてにもかかわらず、それらが、impossibleであるという要求を理解する困難性の説明するたすけともなるのである。

Conditional analysis. 条件的分析

反対の他の筋としてはクオリアの概念についての条件的分析がある。

その観念とは、粗くいえば、if もしそこに実際にたしかな非物理的特性があって、それがわれわれのクオリア概念にフィットしているなら、それがクオリアであり、その場合ではゾンビはConceivableである;

しかし、if もし そこにそのような非物理的特性がないなら、クオリアは物理的特性がなんであれ、それにみあう機能を遂行するかぎりはそこにあり、ゾンビはconceivableではないという観念である。

このアプローチは物理主義者をして一方でゾンビがconceivableであることを否定しておいて、ゾンビの可能性がconceivableであることを受け入れることになり論議を起こしている。

これに関連する点Stalnaker 2002と、批判についてはAlter 2007; Chalmers 2010, pp. 159–59; Crane 2006をみよ).

 

 

Causal essentialism. 因果性基本主義

 

因果基本主義の理論によれば、physical properties物理的特性についてのcausal properties因果特性がそれらに基本的なものとする。

Brian Garrett (2009)はこの理論を展開したのは物理主義に抗するゾンビ論議はひろくHumean assumptionsヒューム哲学の仮定に依っている、それは因果基本主義の欠陥を予め考慮した自然法則とその特性についてのものである。

もしわれわれがこれらの仮定を拒否し、そしてあるなにかの物理特性が意識を産む能力が基本的にもつと受け入れるなら、「われわれはゾンビ世界の本来的な可能性を受け入れることはできない」、そこではそのような世界がconceivableであったとしてもである(see also Aranyosi 2010)。 

 

More on zombies’ utterances.  ゾンビについてのつぶやき

あるゾンビ世界を考える、それはわれわれの世界の全き物理的複写であり、すべての哲学者の双子ゾンビとなっていて、そこにconceivability論議をアッピールするなにかを含んでいるそのようなゾンビ世界である。

Katalin Balog (1999)がは、かれらのつぶやきが、意味があるような一方で、かれらの文章はそれらが我々の口のなかにあるそれとかならずしも意味しないようなことを論じたのである。

彼女はさらに論じる―それは過度に単純化される言であるが―もしconceivability論議が実際の哲学者の口のなかで説得的であるなら、そのときそれはゾンビ哲学者の口においても説得性あるものであろう。

しかし仮説によって物理主義がかれらの世界において真であるなら、その論議は説得性のないものである。

したがって、実際の哲学者が用いるconceivability論議もまたどれも説得性のないものである。

もしこの論議がはたらくとなれば、それは香辛料的な様相をもつのであり、それは「反物理主義者が結果的に可能と考えるゾンビの可能性を確立することを目論む論議がそこに内蔵している」(502. Chalmers offers brief replies in his 2003; 2010, pp. 159–60).

 

Conceivability論議は―それは物理主義者がゾンビはimpossibleであるということをひきずっていると仮定していて―ゾンビたちがpossibleであることをみせることによってそれ(その論議)を拒絶しようとする魂胆のものである。

 

われわれが見るように、この論議のもっとも簡潔版は以下となる;

(1)ゾンビは  conceivableである;

(2)  conceivableなものはなんであれ  possibleである;

 (3) したがってゾンビは possibleである。

 

 

 

しかしながら‘anti-zombies’反ゾンビは―われわれ自身の複写は純粋に物理的事実によって意識をつくる―conceivableであるようにもみえる;

斯くして、われわれは平行的論議をもつ;

(1*) 反ゾンビは conceivableである;

 (2) conceivableなものはなんであれ  possibleである;

(3*)したがって反ゾンビは  possibleである

 

 

(3) と(3*)は双方とも真とはなりえない、なぜなら反ゾンビについての純粋に物理的事実がゾンビたちに意識をつくるなら、そこでゾンビたちについて全き単純な物理的事実もそのゾンビたちに意識をもまたつくることになる、そしてとどのつまりそれらはゾンビではないことになる。(Frankish 2007; Marton 1998; Piccinini 2017; Sturgeon 2000, pp. 114–116).

 

 

ひとつのモラルとしては,われわれはconceivabilityからpossibilityへの推論を拒絶すべきであるというものである。(Brown 2010 は反ゾンビがconceivableならゾンビたちはinconceivableであるかを論議した)

このconceivability論議からの成果としては反ゾンビがconceivableであるということを否定すべきであるということであろう。(Chalmers 2010, 180)

 

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