Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240628 徒然こと―「長い時間」と「短い時間」について

2024-06-28 15:43:31 | 自分史

朝日記240628 徒然こと―長い時間」と「短い時間」について

初出し 「HEARTの会」会報 No.117  創立30周年記念 2024春季号 NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN 2186-4454

 

 

―徒然こと―

  「長い時間」と「短い時間」について

                        会員 荒井康全

 

 

もう大分まえのある年の暮れに ハイデッガーの「形而上学の根本概念」というのを図書館から借りてきた。彼の全集のなかの一冊である。ハイデッガーは、「退屈に」ついて まじめに哲学したひとであるという。 限られて日数までに そこから何を読むか おぼつかないが 図書期限がなければ 多分 こんな‘退屈’な本に一生取り組まないであろうから 暇つぶしには 恰好であった。

かつて 「こころの解毒剤はあるか?」ということを 本会のワーキンググループ3のなかで投げかけたことがあった。 当時、ご存知西尾幹二さんたちグループが大著「国民の歴史」を著された。これは戦後の歴史教育からの超克を目指して著され、そのさらなる展開として歴史教科書として採用認可へと展開された。賛否両論、国論を大いに沸かしたことはまだ記憶にあたらしいとおもう。

そして、書店に平積みのその著をさすがに手にいれることになったが、ここではその中味については触れない。ただひとつ、この本の「あとがき」の部分に私の目が釘付けになった。ハイデッガーの「退屈」についてとりあげていた。それがこの著の歴史観の超克とどのような関係があるか忘れてしまったが、この「退屈」に妙に惹かれることになった。そして原典を手にすることに気が動いたたが、そのままになり、多少忸怩たる気持ちを懐いてきたのであったが、図書館で借りだしたのも大分日月を経ていたようにおもう。

ハイデッガーはこのなかで三つの「退屈」をあげ、彼の時間哲学を講じていてこれについてはかつて 「こころの解毒剤はあるか?」ということを HEARTのワーキンググループ3のなかで投げかけたことがあった。いま触れることの誘惑もあるが別稿にゆずる。

ところで、ハイデッガーのなかで、 ‘退屈’はドイツ語で Langeweilという。つまり和訳すれば‘長い時間’であり, さらに語のとおりに英語に直訳すれば long whileとなろう。そして「長い」があるから 「短い」もあろうとなる。たしかにKruzweilというのがドイツ語辞書があって、英語のshortに対応するKruzである。 この意味は ‘暇つぶしの気晴らし’ という意味らしい。 長く感じる時間を 短く感じる時間にするということである。

そういえば、ドイツ語で「いま 何時?」というのを教育テレビの語学会話で聞いた覚えがあった;Wie spaet ist es? と目に残る。英語に直訳すると How late is it? で和訳感覚では‘いま どんくらい遅れている?’ということになるところがおもしろいと思っていた。予定されている時間を気にする。自分が感じている時のながれが遅くなっていないかという問いで、 すぐれて主観的であるところが妙味である。 「時間と空間」とが人間がもっている固有尺度として、人間観念という経験フィルターを通さなければ それらは存在しないとしたのはあの大哲学者のカントで、哲学史上の「コペルニクス的大転換」をふと思い出す。時間(While)が「私」という観念のなかに存在するという意識であるなら、「退屈」が ‘長い時間’で ‘暇つぶし’よって、できればそのなかでの‘熱中‘によってこれを ‘短い時間’にするのも なんとなく頷けるように思う。 

そう、居酒屋の入ってカウンターに座ったときと やがて盃の調子があがってきたときとでは、 時間のながれがちがってくる。この店のママがおれの時間を食っているというのがあった。阿刀田高のエッセイにあった記憶がある。こんなことを書いている筆者も 「暇つぶし」をやっていることになるが、もう午後の陽がだいぶ傾いていることを気にしていない。「いま 何時?」とそばの家内に聞いたのは、あるいは 日没までのどのくらいあるかということだったのかもしれない。  

(追記)後日、件の西尾先生に講演会あとの懇親会で、この「あとがき」の話題を出したが、当の先生はその内容にについて他人事のように困惑されておられた。お仲間のだれかが「退屈」を仕込んだのであろう。

つぎの文献をお進めします;1.ハイデッガー (川原・ミューラー訳) 「形而上学の根本諸概念 世界―有限性―孤独」ハイデッガー全集 第29・30巻 創文社

2.ワーキンググループ(WG3)からの報告、「先進エイジフリー社会を目指して ~自画像からの提案~」 人間環境活性化研究会 2009年5月

(この報告書は、(エイジフリー,  HEART)または(HEARTの会, 自画像)のSNS keywords検索で試してみてください。多分、御覧になれます。スマホあたりで試してみてください。)

3.朝日記240228 徒然こと 「長い時間」と「短い時間」についてと今日の絵と音楽絵画461

(2024-3-3版)

 

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朝日記240628―徒然ごと―川崎からそだつますらお

2024-06-28 15:01:05 | 自分史

朝日記240628―徒然ごと―川崎からそだつますらお

初出し 「HEARTの会」会報 No.116 創立30周年 2024年新年号 ISSN2186-4454

 

―徒然ごと―

川崎からそだつますらお

会員 荒井 康全

   

 

~キリスト教教育のこと、明治学院に学ぶ
 昼休みに友達とじゃれついて、子犬のようにどちらかが追っかけて遊ぶ。わたしが逃げるばんで息せき切って、校舎の屋根裏へ逃げる。そこはもう袋小路、どうしよう…薄暗がりに ひとが集い、みなが祈りのさ中と気づき、そおっとそのなかにまぎれ隠れる。迫る追手もあれっときょろきょろしていたが、やがて気配に気づき、そおっと座る。木村勇君である。 キリスト教の学校のクラブで、なんとふたりとも「宗教部」に入る。
 私はキリスト教の学校である明治学院中学校を受験させられる。島崎藤村が出たというハイカラな雰囲気の漂う学校。 面接試験に失敗して傷心したことを思い出す。このあと父さんは奔走し「あれを落したのはあなた方が間違いだ。一学期だけためしてくれ。それでだめならいつでも引き取る」と頑張ったらしく、 組合での押しの強さが功をそうしたのか。ともかくそれで入れてもらう。 ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」あの主人公の少年ハンス・ギーベンラートの名前をいまでも覚えておりNHK のラジオ 加藤道子の「わたしの本棚」の朗読によるか。憂鬱だがハンス少年のように夢中で頑張る。英語のリーダの一冊丸暗記を敢行し、‘th'の発音で猛烈なヒステリーをおこすオルトマス女史の英会話の授業も快調に飛ばす。すべての学科の予習と復習を試み、そして、いよいよ夏休みのはじまるある午後、М君と一緒に京浜急行の花月園にあるプールの水泳から帰ると、学校の父兄会から戻った母が、まず「おまえ、よかったねえ」と誇らしげにほめてくれ、その夜は家族で川崎の繁華街に出て食事、そして御祝いにテニスのラケットを買ってもらう。明治学院の学校生活は軌道に乗る。

父さんは神仏に思いをよせ、戦前から「生長の家」にまなぶ。ここは皇国史観。戦後、自ら選んだ社会民主主義との思想的葛藤に悩んでいたようで、あるとき組合機関紙に父の寸描記事が載る。激動の流れのなかで、ものごとに対して批判的、懐疑的な思索の傾向を示しはじめた息子に触れ、敬虔な内面性の経験を涵養する必要をつづり、息子について そのような関心を示すことに感動する。 かつて爺ちゃんの事業の失敗で、神奈川県立第二中学校(現在の翠嵐高等学校)の試験に受かるも、一家の生計ために断念しなければならず、そのなにかが、多分わたしの上に投影していたようにおもう。

 

~ルネッサンス的人間像への憧れ、“よし、きらいなことに挑戦しよう” 

   


熱病に罹ったように都立日比谷高等学校を受験したが、見事に落ち、都立一橋高等学校に入る。浅草橋にある学校はもともと女学校が母体で男女共学になり、男子は全体の二十パーセント程度で少数派、いきおいクラスの結束はよい。あとで考えれば、ここに残っていても何の問題もないが、日比谷落選組みが転校を密かに模索し、夏が終わると熱っぽく語っていた友人は残り、私が神奈川県立湘南高等学校に転校。このときの友人とはいまも続いている。県立湘南は当時有名な受験校だが、鎌倉、鵠沼、茅ヶ崎などこの地方独特のかおりたかい空気に、自由な気風。科目のスタートの取り遅れた分は気合で乗りきる決意をする。アメリカ帰りで気負い気味のM先生に授業中に食いつき、目に留められ、彼の英語の時間に、公開質問時間「荒井タイム」をもらう。必死になって文法書を調べ、先生の解釈に異を唱え対抗するという筋書きで、まわりの秀才たちに一種のエンターテイメントを提供したのである。 コーラス部に入り、生徒会委員になる。H君とは生涯の友となる。この学校は二年間でコースが終わる方式で、数学は、解析と幾何が2科目平行、理科は物理、化学、生物の3科目並行で、特に出遅れた数学と物理の調整に手間取り、これが以降の私の生き方に陰に陽に影響し今に至る。つまり数学と物理コンプレックスである。 英語や世界史は快調。一度はこのような世界に進むことを考えたが、嫌いなものがあるのを認め難く、不得意なものをそのままにするのは許せず、たまたま出会いがわるかっただけで、自分の向き不向きにかかわりないと考える。たしか国立大学一期校は八科目であったから嫌いなままでは済まされないという切迫した事情があったかもしれぬ。 あるいは、最後に理系コースである国立商船大学に焦点を置いたときのこじつけかも知れないが、ともかくそう考える。 世界史が得意科目であったから、古今東西からいろいろな人間像を曳き出し、自由に思いを馳せ、理想的人間像をルネッサンス世界に求め、ダ・ビンチよし、聖フランシスコよしである。これらの全人格的なものに今の人は達することができるか、分科した時代では、ただ考えるだけでおわりであろうかと。しかし、とりあえず、つぎのようにその道筋を想定してみることにする。
ひとつ、好きなことは出来たとする。
二つ、いま苦手と思うものに賭けてみる。
三つ、きらいなものが好きになったときに 全人的な接近がおこなわれるとする。

 

~ニュージーランドへの遠洋航海、自分探しの青春であった商船大学
 眉目秀麗であることということが入試要綱に入っていると聞いたことがあるがほんとか、と訊いたひとがいる、わたくしの顔をチラッと見たようだった。 裸眼で視力1.0 とか、綱に片手でぶら下がって10秒以上とか、あるいは、性病検査とか海洋日本の伝統的な独特の体力試験があった。「紅顔可憐の美少年」で知られる寮歌が、事実を虚飾するのかもしれないが、わかいときはだれも、それなりに意気がいい。商船大学は 当時東京と神戸にあった学校が戦時統合され静岡県清水市にあった。伝説羽衣で知られる三保の松原の砂浜のなかにあり、満月の夜は、駿河湾の海がきらきら光り、遠く伊豆の対岸や達磨山の灯が見えて、切なくもうつくしい。「完全就職、陸の倍の給与、たばこも酒も免税で、しかも外国が見られる」たしか雑誌蛍雪時代の紹介にある。
 そして、昭和31年目出度く機関科に入学する。そして低空飛行で昭和35年秋に5年半の過程で東京越中島の地にて卒業。 卒業実習は6ヶ月、最初の3ヶ月は三菱日本重工横浜造船所 いまの‘みなとみらい’の場所である。 あとの6ヶ月は運輸省航海訓練所の生徒になり航海実習にでる。 練習船大成丸という3千トンクラスで日本列島を周航して、瀬戸内海で特訓を受けると、ニュージーランドへの遠洋航海にでる。 長駆赤道を越え、熱帯スコールに身を洗い、ブーゲンビルの夕日を望見し、いくつか南十字星を仰ぐとやがてクック海峡に投錨する。 折りしも雨雲が切れて陽が射す、波洗う崖の海岸線に鮮やかなみどりの丘陵が目の当たりに現出する。 赤い屋根のバーンやサイロがある、たくさんの羊の群れがある。首都ウエリントンに着いたのだ。 ときに、‟六十年安保” 東京はデモの渦で騒然としていたときに出航したが、国際放送は、池田勇人内閣の発足を報ずる。いま思うと、自分の生きるべき道筋と現実の学問・教科にしっくりしないものがあったのだと思う。 それを認めたくないから困ったものである。 物理にも数学も その他もあまりこころ踊るものではなく、それ以上に基本的には、外国に無料で行きたいというところにあるから、相対的に手段としての位置づけになる学業が軽くなってしまったのかもしれない。 初めて家を離れたという開放感と、みずからの責任で方向を定めるという自意識との葛藤があり、思索は旺盛であるが、意欲に敏でなく、なんとなく身を浮き漂わせていたように思う。 石原慎太郎の芥川賞作品である「太陽の季節」に障子を破る下りがあるが、持てるエネルギーが向かうべき何か、当たるべき壁の喪失感のある時代と思う。 思えば日本が経済大国として離陸しようとして必死にもがいている時代でもある。 成績のよいクラスメートに対する競争心はあまりおきず、むしろ冷ややかにみている。
 蒸気タービンの実験の時間に、側の十メートルほどの水槽を、往復して帰ってくる賭けを引き受け、実際に実行して担当教官を烈火のごとく怒らせる。この教官には、後に就職した会社からの米国派遣の件につき、大変助けてもらうことに

 


なるが、当時はそのような状況である。

 

~原子力船の乗り組みに志願しよう、東京大学に行こう
「あなた、あれほど勉強しないのにこれから東京大学に行くって?」、母さんは意外に思ったらしい。 惰眠を貪ってきたが、卒業航海が近づくにつれて、それまでの自分を振り返ってみる。すくなくも受験の頃の直向きさにもう一度帰ることの必要を感じる。 船体は揺れて傾いてもまた復元をして姿勢を保つのであるが、自分の復元性をためすのも ひとつの挑戦だろうと思う。 それ以前に文系の大学に入りなおすことも考えたが、これからひとり立ちして食っていくたねは、やはり技術におこう、逃げるべきでない、それをようやく納得する。それにしては、いまのこの状態はお粗末で、やるならその世界で一線に立つべきであると。
 飛躍するがとりあえず聴講生で、東大にいってみよう、あとはそれから考えることにする。
 これには ヒントがなかったわけではない。卒業研究は、例の水泳事件のD 教官に師事したが、テーマは航路による海水温度とエンジン効率の関係である。
 当時 丸の内のレンガ建てビルの飯野海運本社の工務部に通い 機関航海日誌から丹念に海水温度とエンジン効率算出

   


諸元のデータを集め、船会社の機関部門がどのような状態で動いているかが伺えて興味がわく。あるときここの成川泰課長から帰りにビヤホールに誘われ「君、会社に入って陸でやるんだったら、なにか特別な武器をもたなければいけないよ」といって、部下の二等機関士である小林倬哉さんの話をされ、会社から東大に留学派遣されているという。 そして その人に会いに機械工学科を訪ねたことがありこれが下地になっている。もっとも、このひとは、船の大学を首席で卒業している点が、私と大いに違っていたが。
 さて、ターゲットは原子力工学としよう、親には将来、原子力船の乗り組み第一号になるために、機関をつくることをやるのだといってしばしの猶予をもらうことになる。 ときは、昭和35年9月、甲種一等機関士の面接試験を終えて、力学の再履修のために東京大学の駒場の教室に走る。

~機械工学大学院で熱工学を専攻する「七輪の火も、原子炉の火も熱反応で同じ、反応現象なら化学産業だ、制度もそうであろうが、ものごとが始まるときは変なことがおきる。とにかく、一年、がむしゃらに勉強して、親の手前大学院を受験しなければならず、受けることに。 

夏に国立大阪大学、国立京都大学そして最後に国立東京大学と大学院受験行脚をして、勝率は2勝1敗。昭和37年)春、国立東京大学大学院数物系研究科機械工学入学となる。

さて、この続きはこうご期待。

 

絵 やすまさ

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朝日記240628―徒然こと―川崎のおさなき日々

2024-06-28 14:35:51 | 自分史

朝日記240628―徒然こと―川崎のおさなき日々

初出し 「HEARTの会」会報 No.116 創立30周年 2024年 新年号 ISSN2186-4454

 

―徒然こと―

川崎のおさなき日々

会員 荒井 康全

 

 

東海道川崎宿は多摩川河口の洲で六郷という。小学校6年のころ仲間と水浴をして、学校で立たされる。

明治学院中学の隣の席にならんでいた木村勇君が、丸子橋にある関西ペイントの社宅に住んでいて、夏休みに自転車でひょいと会いにいく。鎌倉の大仏のようなおだやかな顔で、あだ名が大仏。尾山台高校から慶応に進み、三井物産へと風の便り。

矢口の渡しには昭和電工の中央研究所があり、研究支援でよく通い、帰りに蒲田あたりで呑む。飲み屋の柱一本くらいはおれが払った分だと、すごめかしていた奴がいたなあと思い出す。

   


二子新地のあたりに会社の社宅があり、我家の建て替えの仮住まいで数か月住む。当時すでにふるく西洋式トイレの使い方が貼ってある。小津安二郎の「おはよう」で笠知衆や三宅邦子、佐田啓二、久我良子などの顔が浮かぶ昭和三十年代。

 

~父さんのこと、知的な刺激をうける
「お前はできる、かならず川中に入れ」、まだ学校に入る前のこと、川中とは神奈川県立川崎中学校(今の県立川崎高校)、当時、国民学校からは級長でなければ入れぬ。 そこの中学生たちの 何か後光の射した通学姿にあこがれ眺める。 銭湯帰りに中天の夜の星にねがいを賭け、一瞬の光芒の消滅は、なにか願いの無謀さを告げているよう。
 戦後まもなく、父さんは会社の労働組合の創設に係わり、代表に推される。初期の労働運動は夜も遅く、若い組合の人たちが、よく深夜に焼けて漆黒の大黒柱の我が家に立ち寄り、私が寝ている傍で大議論をやる。 新しい時代がきた、すぐにでも社会主義革命が起こるのではないか、訳わからず何かすごいことになりそうな気配。 丁々発止の一段落した合間などに、ときおり ちょっと挟むかれらの学生時代などの話が交わされ、カントやデカルトなど、製図や力学など森羅万象に話が及ぶ。そういう話のなかで、自分のまだ知らない、はるか向こうの世界を感じとり、その多くが機械や電気や法律など学び舎で修め、学校に行かなくても学問を積んだ立派な人もいるのだな、どこか知的な興奮が漂う。勉強してあんなふうになって、それに気位の高そうなマドンナをいつか振り向かせたい。 

親しい友のМが転校してきたのは、小学校4年の2学期。勉強ができて気風のいい相棒が現われる。父は組合に推され川崎の市議会議員になるが、わがのぞみの「川中」はまだ遠きにあり。

   


私は生後三ヶ月でリンパ腺炎での手術を行っており、「腺病質」ということばがいまも耳になじんでいる。また、小児麻痺の初期であったのであろうか、ある日突然に片足が棒のようになり歩けなくなる。親は医者を探すこと、神仏に頼めることなどすべてをやってくれたようだ。 占いの神託では、端午の節句の折の鯉幟を立てるための穴の位置が、地神の癇に障ったという。寡黙で強面の爺ちゃんが、大きく育ったら親孝行をせよと幼い私に言い聞かせたという。幸いなるかな、なにかのきっかけで回復すると、こんどは近所の餓鬼なかまに入って真っ黒になってトンボとりやフナとりに走る、やんちゃな益荒男になっていく。川崎にも、まだ至る所に田や畑が残っていた。

 

~戦時体験

1944年川崎市立前沼国民学校に。出征軍人を送る歌を爺ちゃんの背中で聞き、そして自分もその行列で旗を振る。戦時色が日に日に強くなり、大人の会話から、ただならぬことが起こることを感じ取る。 夕食後の家族の団欒、ラジオから流れる広沢虎蔵の「旅行けば」ではじまる浪曲、ひょっとした弾みで、満州の話、そして「おい、満州に行こう、連れてってあげよう、明日の朝」で、戦況や銃後の話に華が咲く。いつ満州に行くのか心待ちにして、それなりにわたしは傷ついていたが、いっときのなごやかな時期でもある。やがて、防空演習、国防服、もんぺ、頭巾、地下足袋、ズックの肩掛けなど、そして初めての空襲警報。夜間空襲で聞く空気の鋭いうなり、そして体を吹き飛ばすような炸裂音。囲炉裏の灰が天井に舞い上がる。爆明で見えたのだとおもう。百メートルもない距離の中学校の校庭とそれに続く住宅、田んぼにいくつもの爆弾が落ち、だれだれさんの一家が全滅したという。いくつもの爆弾池がその威力を残している。

 

 
 


~「大師様があるから家は焼けやしねえ」
爺ちゃんはよくそう言っていた。川崎

には、厄除けで有名な川崎大師がある。

一方、父さんは近くの電機会社の工場で

潜水艦の主機モータ組み立ての現場主任

をしており、あるとき父さんがその機械

とそこに立つ人間を私に、そおっと鉛筆

で描いて見せた。山のように巨大なもの

らしい。そしてこれは秘密だといって塗

りつぶした。ともかくも父さんが立派に思える。

家族は、川崎からは離れる様子がなく、火災の延焼を防ぐための家屋の取り壊しがはじまると、さすがに母さんは姉(8歳)とわたし(6歳)をつれて疎開することになるが、行き先がない。母さんの遠縁を頼り茨城県の鹿島の近く、利根川沿いの徳島という地へと疎開するが、それもつかの間、三浦三崎の漁港の町へと転々とする。徳島では、父さんが訪ねてきてお腹をこわしてしばらく寝込んで帰る。あるとき家のいちじくの木にのぼって実を食べているうちにすべり、あっと思う間もなく下の堀切の水に落ちてしまう。

 三崎には爺ちゃんと父の妹が、ときどき来てくれ、爺ちゃんのためにバス停で吸殻のたばこを拾って喜ばせる。
 ある夜に川崎が爆撃され、家をことごとく焼かれ、父さんは家財を守るか、自分の書籍にするか迷うも、決断は両方とも火の中におき去り、ただひとつ 伝来の木像阿弥陀如来を、井戸のなかに沈め、数キロメートル先の家族たちのもとに走る。 そして途中、燃え盛るなか阿鼻叫喚のひとを救けたりして、ようやく婆ちゃんや父の妹たちのもとに辿りつくという。
 この事態で母さんは父さんと生死をともにすべき時と決し、三浦三崎を引き払い、いそぎ川崎に向かう。途中、京浜急行の追浜駅に爆弾の直撃があり、われわれ母子はひとつ手前の駅にあって救われる。ほうほうの体で川崎の父さんのもとに帰り、焼け野原の父さんの作った苫屋に親子がおさまる。

~終戦をむかえる、闇市と「はぶゆー・あ・ちょこれっと?」
 陛下の声を初めてラジオで聞き、尊いひとは、高い声なのかなあと思う。炒り大豆を食べながら近所のひとたちと一緒に聞く。近所の人や動員で働いていた朝鮮の若者もおり、そのなかに荒井という眉目秀麗なひとがいて、そのひとが神風特攻隊に志願されたことを記す。これからどうなるのかと元無産党だという隣りのおとこと、動員の若者との口論がはじまるも、それ以上の争う勢いとならず、不安ななかにも、どこかほっとしたあかるさが漂い、もう爆弾の落ちてこないうれしさを思う。 まもなくして、駐留軍のジープやトラックが長蛇をなし、近くの第一京浜国道を東京へと向かっていく光景を見る。母さんはサツマイモにサッカリンの甘味をいれ代用今川焼きを焼いては、闇市で商い、地回りがきても気丈夫に渡り合う。焼け跡の工場から歯車を4つ失敬した私は台車をつくり、うなる音をジープに見立てたり、ときに国道に出ては「はぶゆーあ・ちょこれっと」とジープに声をかけ、チューインガムを投げてもらう。いちどおおきな缶詰を投げてもらうが、何の缶詰であったろうか。わすれたころに、それがどんぐりか なにかの粉に変わっていたことを知る。

さてこの間、ずい分学校に行かず、もとの前沼小学校の校舎は焼け、新町小学校に間借りし、やがてその小学校となる。蓋のない机、二つの椅子に板を置いて三人がけにして座る。授業時間中、鉛筆を無心で削っている子がおり、油紙で塞いだガラス窓等々、冬の時雨のときは足のつま先が痛いほど寒く、とにかく家に帰りたい。家も雨露をしのぐ苫屋であるが、それでも家がいい。勉強ははるか遠くに。

 

 

絵 やすまさ

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