トリカブト保険金殺人事件 から引用
1ヶ月くらい前だったろうか、そろそろ衣替えの季節だなぁと思い、実家で母の衣服類を見ていた。
その時に偶然、色褪せた新聞の切り抜きを見つけた。
それはトリカブト保険金殺人事件の記事だった。
事件簿_e0126350_14163055.jpg
トリカブト保険金殺人事件
1986年(昭和61年)5月20日に発生した保険金殺人事件。
1986年(昭和61年)5月19日、神谷と妻は、沖縄旅行のために沖縄県那覇市に到着した。翌20日、2人に誘われた妻のホステス時代の友人3人も、那覇空港で2人に合流した。
11時40分、神谷は「急用を思い出した」と大阪の自宅へ帰宅することになり、那覇空港に残った。妻と友人3人は、予定通り石垣空港行の飛行機に乗り、正午過ぎに石垣島へ到着した。石垣島に到着した一行はホテルに到着し、チェックインをしたが、すぐに突然妻が大量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみだしたため、救急車で八重山病院へ搬送された。だが、妻の容体は急速に悪化して救急車内で心肺停止に陥り、直後に病院に到着するも、一度も正常な拍動に戻らず15時4分に死亡した。
当初は死因が良く分からなかった。(但し行政解剖した医師が不審さを感じて心臓と血液を保管していたとのこと)
しかし亡くなった妻に多額の保険金が掛けられていたことが発覚し、妻の友人やマスコミ中心に保険金目当ての殺人が疑われるようになる。
犯人である神谷は3人目の妻に複数の生命保険を掛けていた。
4社で5つの保険で、死亡時の受け取り総額は1億8,500万円。
これらの生命保険の掛金は月々18万円にもなる。しかし保険に加入したのは妻が亡くなる20日前のことであり、掛金を1度しか支払っていない状態で亡くなった。
さらに前の2人の妻も若くして亡くなっていたことが分かった。
神谷はこの保険金の支払いを巡って保険会社を相手に民事訴訟を起こしている。
保険会社は「告知義務違反」を理由に保険金の支払いを保留したからである。
一審では神谷が勝訴。
二審で行政解剖をした医師が死因は毒物の可能性があると証言し、神谷は訴えを取り下げた。しかし保険金殺人容疑ですぐに逮捕されたわけではない。
警察が逮捕に踏みきったのは、1991年6月のことで、3人目の妻が亡くなってからすでに5年も経過していた。
しかも逮捕容疑は保険金殺人ではなく勤務先の会社での横領だった。
その捜査の過程で保険金殺人も濃厚となったということで、7月に再逮捕に至った。
デイリー新潮
報道が警察を動かした 「トリカブト殺人事件」犯人の饒舌(週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載)より
それは一本の電話から始まった。
「友人が石垣島に旅行中に“心臓発作”で急死したが、死に方が変なんです。亭主に変なカプセルを飲まされていた」――。電話の主は池袋の高級クラブのホステスで、「変死」した神谷利佐子さん(当時33歳)の友人だった。池袋警察署にも連絡したが、まともに取り合ってくれないという。電話を受けた写真週刊誌「FOCUS」(休刊)編集部の記者は半信半疑ながら、利佐子さんの葬儀にカメラマンを派遣した。週刊誌の報道が警察を動かした「トリカブト殺人事件」の深層とは。
(略)
わずか5年で30代の若い女性が原因不明の心臓発作で次々と亡くなっていたのである。神谷が大量のカプセル剤を購入していたという衝撃の情報も入手した。
(略)
この取材結果を受け「FOCUS」は、3回にわたり、神谷の疑惑をめぐる調査報道記事を発信した。報道を受け、警視庁も捜査を開始。しかもこの時、沖縄の地で神谷の運命を決定付ける、重大な動きがあった。利佐子さんの解剖を担当した当時の琉球大学助教授・大野曜吉医師(現・日本医科大学大学院医学研究科教授)が死因に不審を抱き、心臓や血液を保存していたのである。大野医師が明かす。
「解剖を進めると、心臓も健全で出血もない。手伝ってくれた警官たちも疑問を感じたのか、妙にシーンとした雰囲気でした。非常に気になったので、試験管2本分30ccの血液を採取し、保存しました。八重山署解剖棟の外のガレージで待っていた神谷に死因を説明したのですが、心臓の刺激伝導系という極めて専門的な用語について、“それは知っています”と言ったので驚きました。また、“覚醒剤は出ましたか?”と訊く。“昨日は取り乱したけれども、今日は心の整理がつきました”と言う神谷が“臓器は戻していただけましたか?”と尋ねてきました。彼の多弁が強く印象に残りました」
大野医師は、強心剤などの数種の薬物について独自に検査をするが、いずれも結果はシロ。そこで東北大学の恩師・鈴木康男教授に相談した。すると、示唆を受けたのが、自然界に自生する多年草の植物だった。トリカブトの毒である。
報道が警察を動かしたのか?
保険金を払いたくない保険会社が結果的に警察を動かすことになったのか?
さてはて。
神谷力
1939年(昭和14年)宮城県仙台市生まれ。
父親は東北大学工学部教授だったそうだが、戦後に教授職を辞して、共産党活動に身を投じるようになった。
力が9歳の時(1948年)、その父親が政治犯として拘束される。
確かに戦後はレッドパージ(赤狩り)が行われていた。
占領軍は「日本の民主化・非軍事化」を進めていくはずだったが、反共産主義に傾いたアメリカの意向で日本は逆コースを行くことになり、中央集権的な政策が採られた。(日本など枢軸国はもともと反共産主義だった)
つまり「敗戦して民主化」という世界の定番路線を歩まなかったのが日本という国である。
アメリカが反共産主義に大きく傾くきっかけはおそらく戦争末期のソ連との関係(原爆も関係する)にあると思う。
神谷力の母親は夫の失職や拘束で貧しく不安な生活を余儀なくされ、働きながら子供を育てていた。
そんな時に出会った男性と関係を持ち家を出るも、相手の男性は本気ではなく単なる遊びだったという。
母親は多量の睡眠薬(?)を服用し自殺。
神谷力が最初に結婚したのは1964年。25歳の時。
父親も兄も共産党員だったが、自身も共産党員として東京の北部地域で活動を行っていたという。
妻は埼玉県の共産党系の病院に看護師として勤務していたそうで、説得して入党させ、党活動の中で関係を深め結婚したという。
その妻とは東京都足立区で暮らした。
結婚8年目(1972年、神谷が33歳の時)になつ江(当時25歳)という経理の仕事をしていた女性と自宅で肉体関係を持ち不倫関係になる。
不倫関係になってから2年目頃、なつ江の親族が神谷の家を訪ねてきたことから、奥さんにもばれてしまう。
なつ江は故郷に連れ戻され、そこで2年を過ごすものの、再び東京に出て神谷と再会し、不倫関係となる。
この「故郷に一旦連れ戻されたなつ江」の故郷が群馬県沼田市なのである。
2人の不倫関係は1981年7月に最初の妻が38歳で心筋梗塞で亡くなるまで続いた。(1人目の妻に保険金は掛けられていなかった)
1982年10月になつ江と結婚。なつ江には1,000万円の保険金が掛けられた。池袋に暮らしていた。
1985年9月、神谷となつ江は2人でなつ江の実家に帰省していた。
結婚前後からなつ江は体調不良を訴え薬を服用していたというが、帰省中に突然倒れ、市内の病院に運ばれるも亡くなった。38歳、急性心不全だった。
保険金は神谷が受け取った。
亡くなった当時から関係者は急死に疑問を抱いていたという。
2人目の妻が死んだ後、神谷は大阪に転居することにし、1985年11月に大阪の寝屋川市に住まいを借りた。
転居の直前に出会ったという3番目の妻(池袋でホステスをしていた)もホステスを辞めて一緒に大阪に行くことになり、大阪市にも住居を借りた。
2人は1986年2月に結婚。
その妻に生命保険を掛けたのは、沖縄旅行に行く前の月の1986年4月のことだったという。
妻が沖縄で亡くなった後には再び東京に戻り、葛飾区新小岩で暮らした。
しかしほどなくして保険金殺人が取り沙汰されるようになり、一時期横浜の実家に身を寄せていたという。
その後、足立区に引っ越して、住居近くの会社に就職し、経理部長となる。
3人の妻が死ぬ前に勤めていた会社でも横領をしていたが、妻亡き後のこの会社でも横領をしていた。
この横領については本人も認めていた。億単位の横領について本人は、ある事情があって不正行為は表沙汰にならないだろうという確信めいたものがあったそうだ。
それでも世間で騒がれるようになってからは身辺整理を進め、1990年3月に退職。
同年12月には北海道札幌市北区に移り住んだ。
1991年6月、警視庁南千住署が(足立区近隣、荒川区?の)会社での横領容疑で逮捕したが、神谷の逮捕時の住所は北海道だった。
結局立件できたのは3人目の妻の死亡だけだった。
3人目の妻に対する保険金目当ての殺人に対して一審二審ともに無期懲役の判決を出す。神谷は保険金殺人については一貫して認めておらず、最高裁に上告したが棄却されて2000年に無期懲役が確定。
2012年に医療刑務所で73歳で病死したという。
神谷によれば、次々と女性と関係を持ち結婚したのは実子欲しさからだったという。
最初の結婚の時には子供がなかなか出来なかったので夫婦で不妊検査も受けたらしい。(妻に不妊原因があるらしいという結果)
真偽のほどは分からぬが、度重なる結婚と妻の死の後に、子供を欲しがる気持ちがいけないのだと思い、パイプカットしたと本人は語っていた。
ピルとタバコと3人目の妻
3人目の妻となった女性は、長期間(神谷と出会う以前から)避妊のためにピルを服用していたそうだ。
神谷は子供が欲しかったのでピルの服用をやめるようにお願いし、そうしてくれたものだと思っていたが、沖縄の警察で妻がピルを所持していたことを聞かされたという。
この3人目の妻の親戚に医師がいて、法事で集まった際に、タバコとピルと心筋梗塞との因果関係について話題にしたらしい。
それは「30代女性の心筋梗塞になる率は、ヘビースモーカーがピルを常用していると通常の7倍になるという統計がある」という話だったという。
3人目の妻はヘビースモーカーだったらしい。
親戚の医師はピルを常用していたことでの突然死だと思ったのか、それともピルを常用させて死ぬことを狙ったのではないかと遠回しに言いたかったのか、話の意図は分からない。
ピルを常用することによる発がん性が問題視されることがあるが、その他にもピルには副作用がある。
飲み始めなどに頭痛・吐き気・倦怠感・不正性器出血など。ホルモン量の多いピルでは血栓症や心筋梗塞などの重大な副作用がある。低用量ピルでも血栓症が問題視されている。
そしてその医師が語ったように喫煙とピルの組み合わせは通常よりも死亡率が高くなる。
10万人の女性が1年間に死亡するリスクは、低用量ピルを服用している非喫煙者を1とすると、喫煙者は167まで上昇すると言われています。
喫煙を伴うと心臓・循環器系への副作用が高まるため、ピルを服用するなら禁煙することが望ましい。
日本でピルを入手するには、医師の診察を受け、処方箋をもらう必要がある(処方箋医薬品)。
そして処方してはいけない人(疾患・症状・状態)が定められており(禁忌)、その中の1つに「35歳以上で1日15本以上のタバコを喫煙する人」というのがある。
1人目と2人目の妻が亡くなったのは38歳。38歳でヘビースモーカーならばピルは処方されない。しかし2人はそもそも喫煙者ではなかったという。
3人目の妻は33歳のヘビースモーカー。年齢的にタバコによるピル禁忌から外れる。
35歳以下の喫煙者の場合は慎重な投与ということになっているが、禁忌ではないだけに弱い。彼女はピルを常用していたという。
しかし彼女が亡くなったのは1986年のこと。
日本で避妊用の低用量ピルが解禁されたのは1999年である。
それ以前は、緊急避妊用や治療、また何らかの理由で月経(生理)の日にちをコントロールするために中用量ピルが用いられていた。
避妊薬として常用するようなピルはまだ日本では認められていなかった。
日本では、以前から治療目的の、ホルモン量が低用量ピルの10倍程度の中用量ピルが認可されていたが、1999年(平成11年)になって、ようやく避妊目的の低用量ピル(oral contraceptive (OC))が認可され、2008年(平成20年)に月経困難症の治療薬として認可された。避妊用としては、低用量ピルが主流になっている。黄体ホルモンのみを含むピルは「ミニピル(en)」と呼ばれ、授乳中など卵胞ホルモンが禁忌である場合に処方されるが、日本では未認可である。
従って避妊用に常用していたとするならば、輸入や旅行時など外国から入手したか、何らかの方法で個人的に不正入手したか、医師ぐるみで不正処方されていたか、いずれかということになる。
死因がトリカブトであってもなくても、1986年の段階でピルを常用していたというのが本当ならば、突然死あるいは病死する可能性が一般の人よりも高かったということが言えてしまう。
とのこと
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1ヶ月くらい前だったろうか、そろそろ衣替えの季節だなぁと思い、実家で母の衣服類を見ていた。
その時に偶然、色褪せた新聞の切り抜きを見つけた。
それはトリカブト保険金殺人事件の記事だった。
事件簿_e0126350_14163055.jpg
トリカブト保険金殺人事件
1986年(昭和61年)5月20日に発生した保険金殺人事件。
1986年(昭和61年)5月19日、神谷と妻は、沖縄旅行のために沖縄県那覇市に到着した。翌20日、2人に誘われた妻のホステス時代の友人3人も、那覇空港で2人に合流した。
11時40分、神谷は「急用を思い出した」と大阪の自宅へ帰宅することになり、那覇空港に残った。妻と友人3人は、予定通り石垣空港行の飛行機に乗り、正午過ぎに石垣島へ到着した。石垣島に到着した一行はホテルに到着し、チェックインをしたが、すぐに突然妻が大量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみだしたため、救急車で八重山病院へ搬送された。だが、妻の容体は急速に悪化して救急車内で心肺停止に陥り、直後に病院に到着するも、一度も正常な拍動に戻らず15時4分に死亡した。
当初は死因が良く分からなかった。(但し行政解剖した医師が不審さを感じて心臓と血液を保管していたとのこと)
しかし亡くなった妻に多額の保険金が掛けられていたことが発覚し、妻の友人やマスコミ中心に保険金目当ての殺人が疑われるようになる。
犯人である神谷は3人目の妻に複数の生命保険を掛けていた。
4社で5つの保険で、死亡時の受け取り総額は1億8,500万円。
これらの生命保険の掛金は月々18万円にもなる。しかし保険に加入したのは妻が亡くなる20日前のことであり、掛金を1度しか支払っていない状態で亡くなった。
さらに前の2人の妻も若くして亡くなっていたことが分かった。
神谷はこの保険金の支払いを巡って保険会社を相手に民事訴訟を起こしている。
保険会社は「告知義務違反」を理由に保険金の支払いを保留したからである。
一審では神谷が勝訴。
二審で行政解剖をした医師が死因は毒物の可能性があると証言し、神谷は訴えを取り下げた。しかし保険金殺人容疑ですぐに逮捕されたわけではない。
警察が逮捕に踏みきったのは、1991年6月のことで、3人目の妻が亡くなってからすでに5年も経過していた。
しかも逮捕容疑は保険金殺人ではなく勤務先の会社での横領だった。
その捜査の過程で保険金殺人も濃厚となったということで、7月に再逮捕に至った。
デイリー新潮
報道が警察を動かした 「トリカブト殺人事件」犯人の饒舌(週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載)より
それは一本の電話から始まった。
「友人が石垣島に旅行中に“心臓発作”で急死したが、死に方が変なんです。亭主に変なカプセルを飲まされていた」――。電話の主は池袋の高級クラブのホステスで、「変死」した神谷利佐子さん(当時33歳)の友人だった。池袋警察署にも連絡したが、まともに取り合ってくれないという。電話を受けた写真週刊誌「FOCUS」(休刊)編集部の記者は半信半疑ながら、利佐子さんの葬儀にカメラマンを派遣した。週刊誌の報道が警察を動かした「トリカブト殺人事件」の深層とは。
(略)
わずか5年で30代の若い女性が原因不明の心臓発作で次々と亡くなっていたのである。神谷が大量のカプセル剤を購入していたという衝撃の情報も入手した。
(略)
この取材結果を受け「FOCUS」は、3回にわたり、神谷の疑惑をめぐる調査報道記事を発信した。報道を受け、警視庁も捜査を開始。しかもこの時、沖縄の地で神谷の運命を決定付ける、重大な動きがあった。利佐子さんの解剖を担当した当時の琉球大学助教授・大野曜吉医師(現・日本医科大学大学院医学研究科教授)が死因に不審を抱き、心臓や血液を保存していたのである。大野医師が明かす。
「解剖を進めると、心臓も健全で出血もない。手伝ってくれた警官たちも疑問を感じたのか、妙にシーンとした雰囲気でした。非常に気になったので、試験管2本分30ccの血液を採取し、保存しました。八重山署解剖棟の外のガレージで待っていた神谷に死因を説明したのですが、心臓の刺激伝導系という極めて専門的な用語について、“それは知っています”と言ったので驚きました。また、“覚醒剤は出ましたか?”と訊く。“昨日は取り乱したけれども、今日は心の整理がつきました”と言う神谷が“臓器は戻していただけましたか?”と尋ねてきました。彼の多弁が強く印象に残りました」
大野医師は、強心剤などの数種の薬物について独自に検査をするが、いずれも結果はシロ。そこで東北大学の恩師・鈴木康男教授に相談した。すると、示唆を受けたのが、自然界に自生する多年草の植物だった。トリカブトの毒である。
報道が警察を動かしたのか?
保険金を払いたくない保険会社が結果的に警察を動かすことになったのか?
さてはて。
神谷力
1939年(昭和14年)宮城県仙台市生まれ。
父親は東北大学工学部教授だったそうだが、戦後に教授職を辞して、共産党活動に身を投じるようになった。
力が9歳の時(1948年)、その父親が政治犯として拘束される。
確かに戦後はレッドパージ(赤狩り)が行われていた。
占領軍は「日本の民主化・非軍事化」を進めていくはずだったが、反共産主義に傾いたアメリカの意向で日本は逆コースを行くことになり、中央集権的な政策が採られた。(日本など枢軸国はもともと反共産主義だった)
つまり「敗戦して民主化」という世界の定番路線を歩まなかったのが日本という国である。
アメリカが反共産主義に大きく傾くきっかけはおそらく戦争末期のソ連との関係(原爆も関係する)にあると思う。
神谷力の母親は夫の失職や拘束で貧しく不安な生活を余儀なくされ、働きながら子供を育てていた。
そんな時に出会った男性と関係を持ち家を出るも、相手の男性は本気ではなく単なる遊びだったという。
母親は多量の睡眠薬(?)を服用し自殺。
神谷力が最初に結婚したのは1964年。25歳の時。
父親も兄も共産党員だったが、自身も共産党員として東京の北部地域で活動を行っていたという。
妻は埼玉県の共産党系の病院に看護師として勤務していたそうで、説得して入党させ、党活動の中で関係を深め結婚したという。
その妻とは東京都足立区で暮らした。
結婚8年目(1972年、神谷が33歳の時)になつ江(当時25歳)という経理の仕事をしていた女性と自宅で肉体関係を持ち不倫関係になる。
不倫関係になってから2年目頃、なつ江の親族が神谷の家を訪ねてきたことから、奥さんにもばれてしまう。
なつ江は故郷に連れ戻され、そこで2年を過ごすものの、再び東京に出て神谷と再会し、不倫関係となる。
この「故郷に一旦連れ戻されたなつ江」の故郷が群馬県沼田市なのである。
2人の不倫関係は1981年7月に最初の妻が38歳で心筋梗塞で亡くなるまで続いた。(1人目の妻に保険金は掛けられていなかった)
1982年10月になつ江と結婚。なつ江には1,000万円の保険金が掛けられた。池袋に暮らしていた。
1985年9月、神谷となつ江は2人でなつ江の実家に帰省していた。
結婚前後からなつ江は体調不良を訴え薬を服用していたというが、帰省中に突然倒れ、市内の病院に運ばれるも亡くなった。38歳、急性心不全だった。
保険金は神谷が受け取った。
亡くなった当時から関係者は急死に疑問を抱いていたという。
2人目の妻が死んだ後、神谷は大阪に転居することにし、1985年11月に大阪の寝屋川市に住まいを借りた。
転居の直前に出会ったという3番目の妻(池袋でホステスをしていた)もホステスを辞めて一緒に大阪に行くことになり、大阪市にも住居を借りた。
2人は1986年2月に結婚。
その妻に生命保険を掛けたのは、沖縄旅行に行く前の月の1986年4月のことだったという。
妻が沖縄で亡くなった後には再び東京に戻り、葛飾区新小岩で暮らした。
しかしほどなくして保険金殺人が取り沙汰されるようになり、一時期横浜の実家に身を寄せていたという。
その後、足立区に引っ越して、住居近くの会社に就職し、経理部長となる。
3人の妻が死ぬ前に勤めていた会社でも横領をしていたが、妻亡き後のこの会社でも横領をしていた。
この横領については本人も認めていた。億単位の横領について本人は、ある事情があって不正行為は表沙汰にならないだろうという確信めいたものがあったそうだ。
それでも世間で騒がれるようになってからは身辺整理を進め、1990年3月に退職。
同年12月には北海道札幌市北区に移り住んだ。
1991年6月、警視庁南千住署が(足立区近隣、荒川区?の)会社での横領容疑で逮捕したが、神谷の逮捕時の住所は北海道だった。
結局立件できたのは3人目の妻の死亡だけだった。
3人目の妻に対する保険金目当ての殺人に対して一審二審ともに無期懲役の判決を出す。神谷は保険金殺人については一貫して認めておらず、最高裁に上告したが棄却されて2000年に無期懲役が確定。
2012年に医療刑務所で73歳で病死したという。
神谷によれば、次々と女性と関係を持ち結婚したのは実子欲しさからだったという。
最初の結婚の時には子供がなかなか出来なかったので夫婦で不妊検査も受けたらしい。(妻に不妊原因があるらしいという結果)
真偽のほどは分からぬが、度重なる結婚と妻の死の後に、子供を欲しがる気持ちがいけないのだと思い、パイプカットしたと本人は語っていた。
ピルとタバコと3人目の妻
3人目の妻となった女性は、長期間(神谷と出会う以前から)避妊のためにピルを服用していたそうだ。
神谷は子供が欲しかったのでピルの服用をやめるようにお願いし、そうしてくれたものだと思っていたが、沖縄の警察で妻がピルを所持していたことを聞かされたという。
この3人目の妻の親戚に医師がいて、法事で集まった際に、タバコとピルと心筋梗塞との因果関係について話題にしたらしい。
それは「30代女性の心筋梗塞になる率は、ヘビースモーカーがピルを常用していると通常の7倍になるという統計がある」という話だったという。
3人目の妻はヘビースモーカーだったらしい。
親戚の医師はピルを常用していたことでの突然死だと思ったのか、それともピルを常用させて死ぬことを狙ったのではないかと遠回しに言いたかったのか、話の意図は分からない。
ピルを常用することによる発がん性が問題視されることがあるが、その他にもピルには副作用がある。
飲み始めなどに頭痛・吐き気・倦怠感・不正性器出血など。ホルモン量の多いピルでは血栓症や心筋梗塞などの重大な副作用がある。低用量ピルでも血栓症が問題視されている。
そしてその医師が語ったように喫煙とピルの組み合わせは通常よりも死亡率が高くなる。
10万人の女性が1年間に死亡するリスクは、低用量ピルを服用している非喫煙者を1とすると、喫煙者は167まで上昇すると言われています。
喫煙を伴うと心臓・循環器系への副作用が高まるため、ピルを服用するなら禁煙することが望ましい。
日本でピルを入手するには、医師の診察を受け、処方箋をもらう必要がある(処方箋医薬品)。
そして処方してはいけない人(疾患・症状・状態)が定められており(禁忌)、その中の1つに「35歳以上で1日15本以上のタバコを喫煙する人」というのがある。
1人目と2人目の妻が亡くなったのは38歳。38歳でヘビースモーカーならばピルは処方されない。しかし2人はそもそも喫煙者ではなかったという。
3人目の妻は33歳のヘビースモーカー。年齢的にタバコによるピル禁忌から外れる。
35歳以下の喫煙者の場合は慎重な投与ということになっているが、禁忌ではないだけに弱い。彼女はピルを常用していたという。
しかし彼女が亡くなったのは1986年のこと。
日本で避妊用の低用量ピルが解禁されたのは1999年である。
それ以前は、緊急避妊用や治療、また何らかの理由で月経(生理)の日にちをコントロールするために中用量ピルが用いられていた。
避妊薬として常用するようなピルはまだ日本では認められていなかった。
日本では、以前から治療目的の、ホルモン量が低用量ピルの10倍程度の中用量ピルが認可されていたが、1999年(平成11年)になって、ようやく避妊目的の低用量ピル(oral contraceptive (OC))が認可され、2008年(平成20年)に月経困難症の治療薬として認可された。避妊用としては、低用量ピルが主流になっている。黄体ホルモンのみを含むピルは「ミニピル(en)」と呼ばれ、授乳中など卵胞ホルモンが禁忌である場合に処方されるが、日本では未認可である。
従って避妊用に常用していたとするならば、輸入や旅行時など外国から入手したか、何らかの方法で個人的に不正入手したか、医師ぐるみで不正処方されていたか、いずれかということになる。
死因がトリカブトであってもなくても、1986年の段階でピルを常用していたというのが本当ならば、突然死あるいは病死する可能性が一般の人よりも高かったということが言えてしまう。
とのこと
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