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マイスター・エックハルト

2024-11-28 | シャカのけん
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃 - 1328年4月30日以前)は、中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者、神秘主義者。本名は、エックハルト・フォン・ホーホハイム(Eckhart von Hochheim)とされる。

神との合一を、そして神性の無を説く。

汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。
このようなネオプラトニズム(新プラトン主義)的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった。

神と被造物

エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述べる。この状態で神は安らぐことがない。神から〝ロゴス(言葉)〟が発し、〝被造物〟が創造されることによってはじめて神は被造物において自分自身を〝存在〟として認識する。

この時の被造物に対する神は唯一の存在であり、それに対する被造物は無に過ぎない。被造物は神に生み出されることによって存在を持つのであって、被造物それ自体ではまだまったく持っていない。被造物はそれ自体では存在すらできない〝純粋な無〟である。

神は生むもの、被造物は生みだされたもの。この両者は〝アナロギア関係〟にある。アナロギア関係は次のようにたとえられる。「健康な尿」という言葉があるが、尿それ自体が健康であるということはない。「健康な生物」がそれを生み出したから尿が健康だと言われるのである。被造物における「善き者」などもそれ自体が善いのではなく、「善性」がそれを生み出したから善いと言われる。神がそれを生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえない。善い意志を持とうとする被造物の側からの努力もエックハルトにとっては空しい試みである。では、被造物にできる最高のこととは何か。それは無に徹することだとエックハルトは言う。無のうちには最大の受容性がある。「あれ」「これ」といった特定の存在が消え去る純粋な無の中にこそ純粋な存在たる神が受容される。「我の無」すなわち「神の有」。神は充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられない。神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっている。神はその本性からして私(被造物)を愛することをやめることができないという。

無になることの重要さをエックハルトは繰り返し説く。板の上に何かが書き込んであるとして、そこにいかに高貴なことが書き込まれていようとも、その上に更に書くことはできない。神が最高の仕方で書くには何も書かれていない板が最適であるという。極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に〝神の子の誕生(神の子としての転生)〟が起こる。

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。

神の慰め

みずからを消し去り、神の子として生まれ変わったものは被造物を超えた存在となるため、いかなる被造物からも悩まされることがなくなる。被造物から生まれたものは被造物に悩まされるが、被造物にあらざる神の子として生まれ変わったものは被造物による悩みを持ちようがない。

それでは現に悩みがある者はどうすべきなのかというと、悩みを神から受け取るべきであるとエックハルトは言う。神のうちで「神、ともに悩み給う」のを喜ぶべきなのである。悩みが消えるような慰めが神から与えられないときは、「恩寵を受けない」という仕方で受け取っているのであり、受けないということで受けることにより一層本来的に神を受容することになる。

あらゆるものを受容することはエックハルトの中心的な教説のひとつである。神の意志は「あれ」とか「これ」とかいう風に指し示せる特定の事柄として現われるのではない。「これが神の意志だ。」と言う人は被造物たる己の意志を語っているに過ぎない。神が何を意志するか、神が何を与えてくれるかが問題なのではなく、神の与え給うものも、そして与え給わぬものも、一切を断念することが重要である。一切の消滅的な事物を放下した者はそのすべてを神のうちで再び受け取る。神において受け取る一匹のハエは最高天使それ自身の存在よりも貴いとまでエックハルトは言っている。

あらゆるものは時間の上ではそれらが神から流出したという点で等しく、永遠の上ではそれらが神のうちにあるという点で等しい。神にすべてをゆだねた者にとっては神が神自身であるようにその者自身が神なのである。そのような神の子の誕生は神自身にとっての喜びでもある。

神性への突破

エックハルトにとって最高の徳は離脱である。それは愛や慈悲や謙虚よりも貴い。愛することよりも離脱が高貴だというのは、愛が私に神を愛させるのに対し、離脱は神に私を愛させるからである。愛は神のためにあらゆるものを忍従する。離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめる。

離脱は内面において達成される。外的な所有物をいくら捨てても、己の意志を捨てなければ離脱することはできない。これは当時ドミニコ会に対立していたフランチェスコ会の、自分の所有物を捨てようとする清貧の運動に対する批判を含んでいる。

イエスの「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。」という言葉は解釈が分かれる言葉であるが、エックハルトは「心の貧しい者」を、意志の貧しい者、自己を捨てたものとみなして同意している。彼はここで無我を唱える仏教に近づいている。

しかし彼のキリスト教の枠からの跳躍はここにとどまらない。エックハルトはさらに神からの離脱を説く。神と考えられるもの、それは真の神ではない。考えが消えれば考えられた神は消えてしまう。そのような神は所詮、我の立てたものである。
エックハルトが神と神性を分けているのは重要である。神は三位一体という形を有するが、神性が、神をそのようにあらしめているもの、いわば神の本質である。エックハルトはしかしこの神の本質を神性としての無と表現する。有として形ある神は突破されなくてはならない。

純粋な有たる神が本質的には神性という無であり、無という神性に徹した我が、最高の存在になるというのは、初発に無と有を峻別しながらも、無の貫徹に終わる境地である。
「生むもの」と「生まれるもの」は、一方が能動、もう一方が受動であるという以外は全く同じ一つの「生」であると言われる。
エックハルトは一切の神イメージを持つことから脱し、神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指している。


とのこと


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十難無記

2024-11-28 | シャカのけん
「釈迦は死後の世界を説いてはいない」というのは、本当ですか?  から引用

ブッタは死後の世界に関しては沈黙しました。
知りえないものを知ろうすれば、そこに妄想が生まれ、その妄想に執着するのは有害であると説きました。

十難無記ト言います。

1、世有常・・・この世は永遠か

2、世無有常・・・この世は永遠でないか

3、世有底・・・この世は有限か

4、世無底・・・この世は無限か

5、命即是身・・・魂と身体は同じか

6、命異身異・・・魂と身体は別物か

7、如来終・・・如来は死後存在しないか

8、如来不終・・・如来は死後存在するか

9、如来終不終・・・如来は死後存在し、かつ存在しないのか

10、如来亦非終非不終・・・如来は死後存在せず、かつしないでもないか。


「十難無記」の中で

1、2、3、4、に関しては、1エマニエル・カントが『純粋理性批判』に於いて、

1、と2、または3、と4、とが、ともに成立する事を論理的に証明して、カントはこれを

「アンチノミー(二律背反)」と呼んでいます。


真実の理法(ダルマ)は、全ての形而上学的論議から離れていることを意味します。

一般的に仏教では、「死後の世界があり、極楽浄土と地獄がある」と教えていますが、それは釈迦の教えと異なる訳ですか?≫方便です。

極楽浄土は、涅槃の世界を象徴化したものです。

これでは宗教の体をなさないと思うのですが、教えて下さい。 >キリスト教的な信仰レリジョンだけが宗教ではありません。

紀元前400年ごろ成立した最古の経典には、神人合一思想や永遠の命(不死の門)に言及した記述が多くみられます。

仏教における神とのかかわり

神は存在しますか?>存在するとかしないとかいう問いが成り立たない存在かもしれないです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マイスター・エックハルト

中世のカトリック神学者・神秘家 マイスターエックハルトは「神は存在であると言うなら、それは真ではない。神はむしろ一つの超存在的存在であり超存在的無である。」と述べています。

その故に聖アウグスチヌス(ディオニシウス・アレオパギタ?)は、神について人が言い得る最もすばらしいことは、内なる豊かさの智慧からして沈黙し得ると いうことであると言うのである。

故に沈黙せよ。神について口を開くこと勿れ。

なぜならば、神について口を開くことによって、お前は虚言し罪を犯すことになるからである。」

仏教における神
ブッタは神の概念を人間の妄想だとみます。
(無神論ではなく・神を妄想してはいけないし、そのことは有害であるとみなします。神に対しては沈黙です。)
ある意味では、人間の観念の神は、偶像だとみているのです。

最古層・紀元前400年ごろ成立の(スッタニパータ・ディーガニカーヤ・ダンマーパタなど)仏典では永遠の命(不死の門)の思想があります)

ブッタが神と合一したという思想も見られます。
ディーガニカーヤ:現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、ブラフマンとなったアートマンによって住する

この文言は、明らかに梵我一如です。
しかし、ブッタは神の観念を対象化し崇拝しません。

名称や形態としての、神の観念が妄想肥大することを警戒したのだと思います。
簡単に言えば偶像崇拝の否定です。

ヘルマン・ベックの仏教上下。岩波文庫
以下引用

最高の事物に対して沈黙するということには、仏教の純潔さともいうべきものが見いだされ、それは言葉ではもう表現することができない「不思議な」(これは 仏陀みずから好んで使った言葉)ものに対する畏敬の沈黙として感ずることができる。

仏陀のいう「神々」ならば瞑想によってまったくの実在として到達することができるのであるが、この最高のものは瞑想の前にもいわば姿を引込める。

なぜかというと、この瞑想が霊的な領域に入りこめば入りこむほど、それはますます遠く、ますます高く、ますます深いところに消えて行くからである。

仏陀は、その相手が真実に把握することができること、交渉を持つことができること、その霊的教養や発展にとって意義のあること、でなければ、語ろうとはしなかった。

それだから、仏陀は、超感覚的なものへと向上することは教えたが、われわれがふつうによく言うような「神」のことは言わなかったのである。

「宗教」という概念にとって質的であると多くの人々が信じている色々なことについて仏陀が沈黙していたというそのことから、われわれは学ぶことができる。

超感覚的な認識と「聖なる生活」とにむかわせるという点で、仏教は宗教としての性格と心意気とを明らかに示しているのであって、仏陀の言葉はいずれも、このような宗教的な心意気、宗教的な息吹にみちている。

それであるから、先入主となっている「宗教」という概念で仏教を論すべきではないのであって、むしろ、「宗教」という概念をつくりあげるには仏教を考慮に入れなければならないのである。

われわれの持っている宗教という概念を深めるために、仏教の研究から得るところが多い、と上に(一四頁参照)述べたものもこういう理由からである。

道の師としての仏陀、哲学、神学、∃ーガとの関係 仏陀は決して哲学者ではなくて、道の師であった。

すでにこれまで述べてきたところから見ても、たしかに明らかに、仏陀は道の師である。

人類の霊的指導者のうちで、仏陀ほどに、あらゆる哲学的思弁を徹底的に拒否したものはめずらしい。

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仏教における救いとキリスト教における救い

涅槃なる世界が仏教でいうところの不死の世界であります。
キリスト教にも、天の国、神の国の概念がありますが、そこで人は情欲を離れ、人は天使のような存在になるのでしたよね。

40、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ(マルコ12章27とマタイ22章 32b)
神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』 などとも言えない。

神の国は実に、あなたがたのただ中にあるのだ」と答えました。
神の国は、心の状態であるという解釈もキリスト教思想の中にありますね。

マタイ5:28
田川訳「 しかし私は汝らに言う、欲(愛欲・エピスミア・)するために女を見る者は誰でも、心のうちで彼女を姦淫したのである。」

マタイ19:12「「自からを去勢したひともいる」と言い放っている。「欲情を抱いて女を見るものは」またい5:28も、「神の国」で人間は性の営みから解放されて、「天使のようになる」と信じていたからである。

マタイ福音書22/30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

永遠の命 キリスト教
ヨハネ12:25 自分自身に執着するものは,自分を滅ぼしこの世にからめとられた自分自身を憎むものは永遠の命に向けて自分を守りとおすのだ。

本田哲郎訳
ヨハネ 8:51よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。

永遠の命 仏教
スッタニパータ755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

キリスト教 欲(愛欲・エピスミア・)=仏教(愛・)tRSNaa の克服

スッタニパータ
166 諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行くかれに近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」

204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

仏教では悟りに達したものは、死を味わくことが無いという意味で、このように理解します。

ダンマーパタ2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。

ダンマーパタ86、真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。ブッタ

スッタニパータ」225 心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、。

但し、仏教もキリスト教も後の思想になるほど(具体的な死後の世界である)神の国は→天国、涅槃は→浄土にと変容します、

キリスト教では、パウロによって信仰のみで救われる信仰義認へ。

仏教も、信仰のみで救われる浄土思想へと変化します。

はい、おわり




2015/9/18 2:55
涅槃とは死なないということです。(無論、物理的な意味ではありません)
死を味わうことが無いと言った方が良いのでしょうが、難しいですね。
大衆に向けては、浄土に行くでよいでしょう。

キリスト教と云うか、聖書の思想でも本来は死後の世界はありません。
コレヘト 死後の世界
コヘレト9:5-6「生きている者は、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何一つ知らない。 彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれ一つにも、もう何の関わりもない」。

新約聖書の死後の世界も、よく読むとこの地上に神の国が出現するというのがイエスの思想です。
パウロが大衆向けに復活を説いたのだと思います。
親鸞が浄土を説いたのと同様です。

zys********さん

2015/9/21 9:31
>「釈迦は死後の世界を説いてはいない」というのは、本当ですか?

釈尊はリアルな方ですから神秘的、幻想的(スピリチュアル)なものの言い方は排除されました。
ですから啓示上的な質問(例えば死後の世界とか宇宙の始まりとか)には無記(黙っている、答えない)となっています。
(そんな空想をするよりも、今、ここでのお前の現状を見よ)ということです。
けれども無記=NOということではありません。
初期教典を覗けば輪廻に属する内容は沢山ありますし、輪廻を前提としなければ涅槃もありえません。
それでは何があるのかといえば「業相続」です。
死後の世界などというおどろおどろしいものではなく、業に対する「報」を受けるはずの本人が無くなってしまったので本人の業を因として「報」を受ける新たな生命の誕生となるだけです。


miy********さん

2015/9/17 22:21
釈迦が死後の世界を説いていないというのは、本当です。それは無記といわれ、あまりにも有名な話です。
釈迦は、人間に備わっていない能力に関しては、例えば幽界とかあの世とか霊魂とか、そういう問題に関しては黙して語りませんでした。
釈迦が説いたのは十二因縁とか、八正道とか、きわめて合理的、現実的なことばかりです。
それでは哲学であって宗教ではないという批判も当然出てきます。
しかし、釈迦は同時に悟りを説き、解脱を説き、涅槃を説きました。
それによって仏教はあやうく宗教の体(てい)をなしているのです。

釈迦はBC.5~4世紀に生存した人で、「死後の世界があり、極楽浄土と地獄がある」という
浄土教の教えの教典である阿弥陀経、感無量寿経などが生まれたのは、釈迦の死後500年も経ったDC.100年以降です。
ちなみに法華経が成立したのもDC.50~100年ころといわれています。
これらは大乗経といわれ、いずれも仏教が北上していく過程で龍樹などの貢献によって成立したといわれています。

ちなみに近年の文献では、阿弥陀仏とはゾロアスター教のアフラマズダーではないかという説もあります(橋爪大三郎氏)。

仏教の仏教たる素晴らしいところは、菩提心に目覚めた個人個人が、きわめて身近な日常生活において修行に励むという点にあります。
菩提心に目覚めた者にとって生きるということそのものが修行なのです。
つまり、仏教は極めて個人主義的であるということ、意志的であるということ。
他に目を向けないから争いも生じないし、生きとし生けるものには哀れみのこころでもって接します。
そして、悟りという、解脱という、涅槃という「ロマン」に向かって自己実現に励むわけです。

仏教は、「原理」の支配を受けません。
「みずから主となれば、たちどころにみな真なり」 むしろ、仏教は真の自由を説いているのです。


とのこと


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カルマが重い人の特徴

2024-11-27 | シャカのけん
カルマが重い人の特徴

(1)金銭面での苦労が多い
(2)人間関係で騙されることが多い
(3)大きな病をしたことがある
(4)とても我慢強い
(5)死にかける経験をしている

とのこと

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仏教批評クリスチャン その四

2022-09-27 | シャカのけん
子供の頃から「聖書」を学び、2000年間「キリスト教国」だったのだから「キリストの教え、聖書の教え」は欧米人の間に浸透し普通に皆が『聖書』を良く知っている。
日本人で「聖書」の中身を知ってるのは数少ない信者その他のみ。殆どの人が「聖書」の教えを知らない。 
こんな「日本」で「キリスト教」を信じるのは大変でしょう。

「聖書的観念」の上に人生がある欧米人
大多数の欧米人は「キリストを信じられるかどうか」を悩まない。
「キリストを信じる事」=「人生であり、生活の一部」
日本人にとってそれは思考停止に感じられ、かなり異例な事項

「神学校に行って学んでも帰ってきた時には無信者になっている。キリストなど信じられない。」
「聖書学校」で書物を読んだ結果「やはり神は居ない。キリストは信じられない。」など無駄な時間を膨大に使っても「なかなか信じられない。」

そもそも何十冊の本を読んでからしか信じられない「神」とは、いったい「何ぞや?」ではないでしょうか。

本だけではなく「ギリシャ語」をせっせと勉強し、そしてギリシャ語の「原本聖書」を読んだあげく「やはり信じられない。」

大量の無駄な本を読みあさりギリシャ語まで学習し人生の膨大な時間をかけないと解らない宗教ってどんなんでしょう?

「キリスト」を信じるのに「悩みぬく」事こそバカバカしいのです。


とのこと


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仏教批評クリスチャン その三

2022-09-27 | シャカのけん
◎日本人の「神」観念~『菩薩』のような神、何でも赦して受け入れて愛してくれる。
◎欧米人の「神」観念~『慈愛深いが厳しさのある神様』愛するゆえ厳しい事を言う神。

◎日本~実は「母権国家」的な家庭。
日本人は男尊女卑が酷いと欧米から叩かれますが、実は家庭では常に「母親」が実権を持つ『母権重視民族』。日本では「母親」が家庭の中心で太陽です。
父親は厳しい注意をしたり、皆の為の仕事をするサブなのです。
日本では欧米に比べ『母親』は神様のように大事な存在と家庭で受け取られているので「母の死」は「父の死」なんかより数段の打撃を家庭に与えます。

◎欧米~『父権重視国家』。
欧米はキリスト教的世界観が早期から成立しました。それゆれ家庭でも「父親」が日本より数段重視されます。『父』が家庭の中心で「父」は厳しいのです。「母」のように何でも赦さず厳しく子供を教育します。

『キリスト教』では『天のお父様』とお祈りします。『神』は『父』男性的。
父である『天の神』も御子『イエス』も男性的な父親的な神。
『父なる神』は慈愛に富んで「愛」なる神ですが同時に「厳しい父」。
自分の愛する子供を厳しく叱責する事もあり又試練に会わせる事で訓練する。そんな神が「キリスト教」の神。

日本の神様観念は『菩薩様』(女性の神様)です。「アマテラス大御神」も女性です。「卑弥呼」も女性でした。
日本人にとって「神様」=『菩薩様」「何でも優しく赦してくれる神様」=「お母さん」。

「あれしてはダメ、これしてはダメ、こんな人は地獄へ行く」などと言うキリスト教
「煩いだけの嫌な宗教。どうして何でも赦してくれないの。どうして旧約聖書の神は怒って人間を滅ぼして、いつも怒ってばかりの神なんて嫌だ。」こんな気持ちで『聖書』を読む事でしょう。「旧約聖書」の神は特によく怒っておられます。

「菩薩的神観念」を持つので「キリスト教」の神を受け入れ難く感じるところでしょう。日本人の『愛』の観念は『何でも赦してくれて優しい』ことなのです。

西欧の『愛』は「愛するが、時にはその人の為に厳しいのが愛ある行動」
イエスは「救いの為に命を落とす、しかし本人の為なら厳しい叱責や試練も与える」

ただ「優しい」ではその人はダメになったりします。しかし「試練、叱責」はその人を立派にします。
皆さんも「厳しい部活の先生」の方がどれだけ上達しますか?
優しいだけの「先生」がどのくらい自分の為になるでしょうか?

『キリストの愛の厳しさ」それはただ優しい以上の崇高な愛、より高い愛である事を良く考えてみましょう。


とのこと


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仏教批評クリスチャン その二

2022-09-27 | シャカのけん
仏教は他の宗教のように宣教しない、自己修行の宗教
『神』も存在せず『仏教』は言わば「自己啓発宗教」
個人的な「自己啓発、悟りの開き」を求めるもの
『仏教』には『神』の存在は無い

この苦難の連続する煉獄のような世界を「輪廻転生」でたらいまわしのように永久に過ごす人間に『解脱』することで少しは楽に過ごせるようになるという「自己啓発セミナー」に近いもの、つまり『無神論』

『神』無き世界は哀れ
何か自分に悪い事(災害、病魔、事故、災厄)が起きた時に泥沼に沈むしかありません。
しかし『神』を想定するなら違うのです。
「それは神が与えた試練、必ず良い方向に向かう」という希望を見出す事が出来たり「それも神の御心だ。私には沢山の恵があった。甘んじてそれも受けよう」という「神様に委ねる平安」を得る事が出来る。
『恵も受けたのなら、試練も受けとめよう』という感謝の平安です。
人それぞれ考え方が違い趣味も違いますが『神無き世界』=『不安定な世界』と言えます。


とのこと

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仏教批評クリスチャン その一

2022-09-27 | シャカのけん
キリスト教は、やれ聖書を読め、善行をしろ、教会に毎週出席しろ、などとても面倒くさい宗教だが、もともと「宗教」はめんどくさい物なので精神修養になる。

キリスト教は自己の悟りとかより、他者への愛、奉仕など、他人と自分を結ぶ宗教であり、天地万物を感謝し、信仰と希望を持って進むキリスト教はとても希望のある宗教。


とのこと

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信じなさい 言うけれど

2022-09-27 | シャカのけん
馴染みない奇跡やらの前置きが巨大すぎて日本人にはえぐすぎる
そんな聖書を読んで信じるって普通の日本人にとってとても無理なのではなかろうか
願わくば もっとこう 本能や感覚的にズドンと落ちてくるようなものはないのだろうか
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シャカとキリスト

2022-09-27 | シャカのけん
いったいどちらを贔屓にすべきなのだろうか 自然体で考えるならば日本人はシャカなのだろう 長崎の浦上や平戸や上五島や外海の一部の人々にはキリストのが自然体なのかもわからない 
これは無宗教者の宗教問題勃発であるのかもわからない
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シャカに限界を感じる

2022-09-27 | シャカのけん
シャカの方向性は自己完結への道 どこか疑問も感じる
かつてそこに変化を齎したのがヘレニズムであり 私的にはかつてそこを疎んでたがいまやそこに興味が移行してきてるのかもわからない
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意味ある派

2022-04-21 | シャカのけん
生きる意味は、生きて行く上でとても大切なことです。
なぜかというと、生きる意味が分からなければ、苦労した割に、意味のない人生になってしまい、最後に人生を振り返ったときに、「意味のない人生だった」と後悔することになってしまったら大変だからです。
ただ、生きる意味は、「答えのない問題」という人もあるくらい、自分で考え続けても分からないものです。
そして刹那的な快楽を満たすだけのアニマルな生き方では、心からの安心も満足もないまま、あっという間に人生は終わってしまいます。

「今を生きる」は一時的なもの。それをライフワークと呼んで、一生続けようと思っても、できるとは限りません。
人生には苦しいことが色々やってきますので、夢が破れたり、事故に会うこともあります。
仏教で「諸行無常」といわれるように、この世に続くものは何一つありません。
一切は崩れて行きます。
自分が生きがいだと思っていたことができなくなると、生きる意味を失います。

また、諸行無常の諸行には、自分の価値観も入ります。
自分の価値観も変わってしまって、ライフワークと思っていたものに価値が感じられなくなることがあります。
こうなってしまうと、今まで力を入れてきたことが虚しくなります。
なので本当の意味での、生きる意味は、生きて行く上でとても大切なことなのです。


とのこと

最後の一行でひっくり返してるが
最後の一行までの流れでゆくと 意味はない とイコールにならないのか

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意味ない派

2022-04-21 | シャカのけん
生きるということは何の意味もなく何の目的もない。
それを聞くと納得いかないでしょう。「そんなはずはない」と。
なぜかというと、人は自分には何かすごい価値があるはずだと思っているのです。
生きることには尊い何かがあると思っている。
生きることに意味がないと思うと、生きることがバカらしくなって生きるのがつらくなるのではないですか。
逆です。意味がないと本当にわかると、すごく楽になるんです。それで苦しみが消えるんです。人生に目的があると思うと、苦しいんです。


とのこと

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なぜ教えを有料化するのでしょうか

2022-04-21 | シャカのけん
シャカの教えなのでしょうか
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