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人は生き物を殺して生きてる 菜食主義者であっても野菜(植物)という生き物を殺して生きてる 人は生き物を殺して生きてるが人は人を殺すべきでないし殺してはならないだろう しかし人は社会悪によって社会悪を行う その根源とし人はシステムをライオンやその他の生き物に習ったゆえであるだろう ライオンやその他の生き物は理性伴わないゆえそれは仕方がなく悪いことでもなんでもないのかもわからない しかしながら人には理性もあれば智慧もある ゆえに人は自然(動物)から習ってはならないだろう 人は人独自の自然(動物)に習わないシステムを築かないとならない 人は自然(動物)に習わず人の智慧によって社会悪のないシステムを築くこと それが人の責務であり人の偉業なのかもわからない
しかしそうなるには社会悪のなくなるような全体主義的な教育を施し新たな価値観の人類を作り出し旧人類の淘汰を待たねばならず 待つことにより人の智慧による人のみのシステムが築けるのならばそれは理想的だがしかし全体主義的な手法を用いねばならないこと 問題はそこであるのかもわからない
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イエス 普遍を説く こうすると良い こうすると良くない 故にこうすると世は良くなるゆえ良くすべし 人にはその能力と価値がある
シャカ 普遍を説く 世も空 そもそも世は良くならない 人にはその能力と価値はない 追うだけ無駄 それよか自己修行
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無人島や山などあらゆるところで一人で生きねばならぬ事情から生活した(する)人々はおり彼らは一人で生きた(生きる)のでありとても大変だろうがそれは(知識や状況によっては)可能なのかもわからない 太古は人は一人では生きれなかった情勢だったようおもう それで人は集まり生活しそれを社会と呼び人は一人で生きられないゆえ社会の一員になる 前述のような一人で生きた(生きる)人々は社会の外で生きたゆえ社会の一員ではなかったといえるかもわからない 大きな自己責任の世界アメリカなどの荒野には周囲何十キロも誰も居ない一軒家に人が住んでる モハヴェ砂漠にすらそのようにして人は単独で荒野に住んでいた(住んでいる) 自由だが自己責任の世界 そこに社会悪はないだろうが仮に外部から社会悪がアプローチすると銃で自衛する自己責任の世界 これはなんなのだろうか そんな彼らが日々目にする景色はとんでもなく素晴らしいものなのかもわからない そんなようにして社会の外で生活する彼ら
ライオン(動物)に習い社会悪を孕んだ太古の人間社会 5000年経ってハイテクになったが変わらず社会悪を孕んだ現代の人間社会 これが社会というものなのか 社会ってなんなのだろうか いまもむかしも社会というもの自体が社会悪の坩堝で妙なシステムなのかもわからない
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人は少なくとも5000年前にはライオン教信仰者なったゆえみんなしてずっとそれをやってる それが宅間守やらシドビシャスやらなんやかやを生みだした所以である ゆえに人はもうこれ以上ライオンに習ってはいけない ということで今後は世界で脱ライオンしないとならないのだが それではまるであらたな全体主義である そしてグローバリズムである それはならない しかしみんなしていっせいに理性でもって脱ライオンしないとならないのであり その場合どのような方法でもって脱ライしたらもっとも理性的で理想的なのだろうか
梅雨ってひまですね
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理性に明るくない しかしよくよくかんがえると理性がいちばん偉いのかもわからない 実存とかいってたらいけない そんなのは社会悪の栄養分である 近代思想やドイツ哲学なんてのはほとほと悪足なものなのかもわからない
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わりあい近所に教会がありそこはカトリックのようでありもうすこし遠くにはプロテスタントもあり興味はあっても信仰者でないものが門をくぐることは冷やかしのようでなかなかそうはできないものだろう キリスト教倫理に興味と関心こそあるけれどとてもじゃないけれど聖書までは読む気力(精神力)は持ち合わせないゆえキリスト教の教会の門をくぐるハードルはなかなか高いようおもう
普遍的な正しいこと 私的なキリスト教倫理はそれなのかとおもう ゆえにキリスト教倫理を本質としてるような人は普遍的な正しさの人として正しい人と感じるかもわからない そこにはとうぜん社会悪にリンクする私利私欲や利権なんてもってのほかであるだろう ゆえに世界中に存在するたいはんの教会はそこに引っかかるのかもわからない それはキリスト教に限らず日本の仏教やら古今東西あらゆる宗教に当てはまるだろう しかし私的にキリスト教倫理を一押しする事情はやはり大草原を好んでみてたからだろうとおもう 矛盾点も多い大草原だろうがキリスト教倫理を感じるには充分なものかとおもう しかしキリスト教倫理=普遍的な正しさとした場合 なにもキリスト教や聖書などあてにする必要はないのであり 人は聖書などしらなくとも誰しも普遍的に正しいことはわかるのであり わかるけど 出来ない・やらない・やろうとしない のであり なぜならばそれを真にやると清貧にしかならないからであるだろう 人類みな清貧ならばそれで問題なかろうが 片や清貧 片やハイソ ここの格差が人を動かすのであり 聖職者や坊さんでさえそう動くのである 清貧でない聖職者や坊さんはそれだけでその内容はみえるのかもわからない しかしこの清貧イズムをおし進めるとこんどは全体主義特有のルサンチマンの問題が台頭してくるのかもわからない これはこれでまたおかしなことになるのかもわからない 共産主義や社会主義や全体主義 これらも信仰できない場合いったい人はどこへ向かえばいいのだろうか 社会悪にまみれ抜け穴ばかりの民主主義しか選択できないのが人の5000年の歴史の結果なのだろうか いや ぜったいそんなことはない筈である 人の理性・智慧はそんな安いものなわけないのである いや これまではすごく安かったのである でももういまはこの時代 人がほんとうに理性でもって世のなかを良くしないとならない時代にきたのであり もしそれでも理性を用いないものがあるのならば 理性でもってぶっ穀してしまえばいいだろう なんてことはなく やはり理性でもって導くしかないのであり なんにせよ理性でもって社会悪を克服しないとならないのである そしてもし社会悪の根源を格差とするならばまず格差をなくさなければならないのだが そんなこと出来ないだろう それをやるにはそれこそ現エリートの言うような大幅な人工削減しかないのかもわからない そうなってくると本当に地球の人口は10人くらいにしないと格差はなくならないのかもわからない しかしそうなったら格差もなくて社会悪もなくてよい世界なんだろうなあ
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倒木 伐採 剪定 この時期の自然の力 その繁殖力たるやすさまじい 生なるものがことさら生きようとするそのエネルギー そこに人が学ぶべきものはたくさんあるのかもわからない さすれば山で生活し自然の中で暮らすことは素晴らしいことかもわからない 自然の営みを目の当たりにし自然に生きること これはやはりいいことかとかんじる しかし自然に習い同調すること それは人にとっていけないことな気がする
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乱暴者という映画があったとおもうけれどあの主人公はいってもそこまで問題かかえてるようにはおもえなかったのは50年代という時代性もあったのだろうか60~70年代になると不届きの社会はより大きく広がってるよう感じられるのもメデイアの多様化ゆえでもあるのだろうか オリバーツイストなど古くからおおくみられるイギリスの流れのなかにモッズロッカーズニューウェーブの流れもあるだろうがこれらも不届きゆえの流れであるだろう ベタなたとえでJohn Simon Ritchieがああなったのは幼少期の家庭環境の問題でありあれでは誰しもああなるだろうし彼らは愛情や教育の不届きの所以である あの当時の彼らの様子を目にすると社会現象になるほどに膨れそしてそれらは反発しアナーキーと称しシステムに異論を唱えたのであった 彼らの原動力は恵まれなさ 親からの愛情や教育に恵まれずその結果反発したのである James Douglas MorrisonにしたってJohn Simon Ritchieにしたってその原動力や行く末は同様である 彼らのような若者がこれ以上犠牲にならないようにするには人は理性・智慧でもって社会悪を克服するしかないのかもわからない 彼らは社会悪の犠牲者であり彼らのみでなく凶悪犯罪者と呼ばれる人々にしてもある意味で同様に社会悪の犠牲者であり我々は自分の愛する者たちがそんな彼らの犠牲になって初めてそこに気が付くことになるのかもわからない 仮に貧困でも親の愛情を感じられるならいいだろうし貧困じゃなくても親の愛情が感じられないならそれは愛情の不届きであるのかもわからない 愛情やら愛やらのワードは苦手なワードであるかもわからないが人の社会を進めるならばやはり愛なのであろう 愛では食えない と言う そこにはすでに社会悪も顔を出してるのである 人は社会悪を克服するためにライオンのルールを見習ってはいけないのであり さすがに人はライオンやその他の動物の持たない人独自の能力を活かさないとならないだろう しかし既得権層のたぐいの人々はそれを嫌うだろう 彼らは利権(社会悪)でまわしてるゆえそれ(社会悪克服)を嫌うだろう 人はすでに五千年それでやってきてるのである すくなくとも五千年実現できなかったかもわからないが 人はそこに進まないとならないのかもわからない
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すくなくとも人は紀元前数千年前から社会生活を送っておりそしてそれらの人々はライオンや猿の群れなどから自然のルールを学ぶことなども多かっただろう ライオンや猿の群れの中からボスが現れるのは自然だろう そのボスはメスを囲い独占することもあるだろう そのボスは獲った獲物を自分や身内だけで独占することもあるだろう その獲物はボス自身が獲ったものでなく手下たちが獲ったものであったとしてもそれは同様だろう いずれも自然である 動物の世界ではいずれも自然で当たり前であるだろう しかし言うなればこれらは独占と搾取でありこのように一部の動物の世界では自然なことでもあるだろう これが自然である これを陰謀なんて言う人は居ないだろうしここに陰謀が或るとか無いとかも言わないだろう 同様に人にも太古から同様の社会があり 人々は動物によってはライオンのような存在を神格化したりもしたのである ライオン同様にいずれ人の中にも王が現れ民を手下に置く それが自然であり当たり前である そこで行われることもライオン同様 統治者による搾取と富の独占であり いたって自然である 当たり前である これが人の歴史でもあり五千年以上すでに行われいたって自然で当たり前なことなのである 近代はどうか 近代は認識し難いようその手法は変化しても本質は同様でありそれに関してもそれが自然であり当たり前なのである 統治者による搾取と富の独占 それは自然であり当たり前である それが自然なのである しかし一部の人々はそれを陰謀や陰謀論とする そんな必要あるだろうか 自然であり当たり前なのであるからこれらは陰謀でも何でもなくたんに自然である 当たり前に五千年以上前から存在することでありそれが人の歴史でもあるのである 陰謀だ陰謀だ 反対の立場の人々は 陰謀論者だ陰謀論者だ といった所で意味あるだろうか 動物の世界にあって当たり前のことを人も五千年かけて同様にやったということ ゆえに人は進展なくなまじ理性あるゆえ同様に社会悪も存在しいまもこの様な社会で足踏みする 人は動物に無い異なる能力を持つのにそれらを使用せず動物に習い続け近代までやってきたのかもわからない 人は理性でもって社会悪克服できるだろうに未だ動物のシステムを採用し続けることに人々にとってメリットはあるのだろうか そしてそれらを倫理的に正そうとする存在がもしあるとするならば それらは果たして ダボス会議やWHOやNATOのような類の存在という認識でいいのだろうか いいの かも わからない はたまた いくない の かも わからない
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