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ひどいユーモアのセンス

2021-04-26 | ショペソハル
ひさしぶりにショーペンハウエルに目を通すとこんなひどいユーモアの数々

«人間に与えられる幸福の限度は、個性によって、あらかじめ決まっている。
それは、精神的能力の限界によって精神的な享楽の能力が決まっているからである。
精神的な享楽の能力が低い人間は、感能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。»


«内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。»


«人間の幸福に対する二大敵手は 苦痛と退屈 である。
苦痛から遠ざかれば退屈に近づき、退屈から遠ざかれば苦痛に近づくというように、われわれの生活は、苦痛と退屈の間の振り子運動である。
退屈から逃れるために、困苦から生じた文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光を通じて結局再現されているのである。»


«人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。
だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。
逆に精神的に貧弱で下等な人間であれば社交的だ。
この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ以外に格別の生き方もないのである。»


«俗物には俗物なりの虚栄心の享楽がある。
富か位階か、権勢や威力などで他人を凌ぎ、それによって他人に尊敬されるという意味の虚栄もあれば、同じ俗物どものなかでも傑出したやつと付き合って、虎の威を借りる狐のような気分にひたるという意味の虚栄もある。
俗物はその求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人でなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。
それどころか精神的な能力を見せつけられると、嫌悪か憎悪を感ずる。
富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。
こういったことは精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。

俗人の生は無限に満たされることのない肉体的享楽の獲得のため、屈辱的な苦痛に耐え、しかもそうした生活が円環のように死ぬまで続くものである。»


«「賢者でも名誉欲は捨て難い」と昔から言う。
名誉欲の迷妄の本質は、自分にとって直接には存在していないもののために、自分にとって直接存在しているものを犠牲にしてしまうことである。
名誉欲について次のことを知っておけば、この罠に陥ることは無い。
名誉は他人の頭脳の中にしかないものだから結局間接的な価値である。
他人の意見は大抵われわれに影響しないものである。
名誉欲の強い人間は他人が自分を褒めるのを聞きたがるものだが、面と向かっては自分を褒める人間が、陰で自分の噂をするさまを聞いたら、癇癪を起こして病気になってしまうほどである。
結局名誉欲に囚われれば、心の安静と満足という、幸福の条件を自ら失うことになる。»


«虚栄心とは、自分に圧倒的な価値があるという「確信」を、他人の心中に呼び起こしてみたいという願いである。
そうすれば自分も、自分自身に価値があると思えるのではないかという、密かな期待が伴っているのだろう。
要は他人の思惑によって自分の価値の認識を変化させようというわけで、この方法で「自分の価値に対する揺るぎなき確信」が得られないのは明白である。
誇りも得られない。
誇りは確信に基づいており、われわれに左右出来ないからだ。
虚栄心の強い方々に御忠告差し上げたいのは、どんな素晴らしい話がおできになるとしても、ずっと黙っておいでのほうが、他人の好評が得られるということである。»


«民族の誇りは最も安っぽく、いたずらに持つべきではない。
これは、自らの内面になに一つ誇りを持てない憐れな輩が最後に逃げ込む場所である。»


«観照する行為と主観の同化の状態であり、時間や因果関係といった「根拠の原理」を認識できないため、どこ?いつ?なぜ?といったことに邪魔されることなく、ひたすらなに?を認識することに集中した状態である。
この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。
この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。»


«ありあまる認識能力を持つ人とはどのような人であろうか?それは天才であり、以下に集約される。
活発さ、落ち着きのなさ
想像力の強力さ
実生活上の弱点
眼光の鋭さ
インスピレーション
数学への嫌悪(怜悧さの欠如)
狂気»


«意志は自由意志ではなく、生の衝動である。
人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。»


«非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。
これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。
非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。
言い換えれば、それは誤謬や妄想である。
我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。
しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。»


«キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。
それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。

意志の否定の先にある世界では、我々は動機から解放される。
意欲が無いからである。
意欲が無くなると、我々の性格までもがひっくり返ったように感じられる。
これが教会の言う「再生」、「恩寵」の力である。»


«一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。
しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。

しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。»




無の世界への到達

2019-04-24 | ショペソハル
この章の最後の部分には必ず非難が投げかけられるであろう。しかし、その非難は本質的で重要なものであり、むしろ受けて立とうと思う。

その非難とは、こうである。

「我々が意志を否定すれば、我々は無になってしまうではないか!」と。

しかし、もともと無とは相対的な概念なのではないだろうか。
有と無とはお互いに相対的な概念であって、絶対的な「無」という概念などないのではなかろうか(この部分は、老子第2章『有と無と相成す』を想起させる)

一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。

しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。

しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。

その安静の聖境は忘我とも、恍惚とも、有頂天とも、悟りを開くとも、神と合一するとも言われてきた。(この部分は、老子21章『道の物たる、ただ恍、ただ惚』を想起させる)

真実は、こういうことである。


我々がこれほどまでに無を嫌悪していること自体が、我々が生きんとする意志であることの証拠なのである。


我々は聖者の伝記を読むことで、心を慰めるべきである。

なぜなら、聖者たちの存在(§68-3 聖者たち)こそが、この新しい「有」の世界の存在証明なのだから。


インド人たちでさえ、無を嫌悪して、「ブラフマンへの参入」「ニルヴァーナへの帰依」などと言った言葉を使うが、もっと無を受け入れるべきなのである。


我々が意志を転換し終えた暁には、この太陽や銀河こそが無(§27-3 虚無なる宇宙)であり、静寂こそが真の世界となることだろう。





とのこと






福音

2019-04-24 | ショペソハル

キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。

それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。

隣人愛はエゴイストを救済する。

「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」のは意志を否定したからである。

最近では全く同じ思想をルターら純粋な福音派が唱えているが、教会はキリスト教のユダヤ教的な側面(聖書)のみにしがみついているが、この二つは歴史的な偶然からキリスト教に結び付いたにすぎず、福音の教えこそがキリスト教の本質なのである。




とのこと





真の自由意志

2019-04-24 | ショペソハル

人間に自由意志は存在しない。しかし、認識により、意志の否定をする自由だけは残されている。

表象としての世界は、隅々まで根拠の原理に支配されている。

根拠の原理からの独立性は、意志としての世界にしかあり得ないのである。

意志の肯定の先にある世界は、必然性に支配されている。

思い通りにならないことが多く、苦悩も大きい。

この究極は、動物の、弱肉強食の世界であり、地獄である。

しかし意志の否定の先にある世界では、我々は動機から解放される。

意欲が無いからである。

意欲が無くなると、我々の性格までもがひっくり返ったように感じられる。

これが教会の言う「再生」、「恩寵」の力である。


生きんとする意志の否定

2019-04-24 | ショペソハル

「個体化の原理」を突き破った人にとっては、他人と自己の区別が無いので、他人の苦痛を自分の苦悩として感じる。

最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。

こうして、彼は全世界の苦痛を我が物にするだろう。

彼にとっては、意志の衝動から生まれる欲望でさえも、世界の苦痛の認識にかき消されてしまう。

いわば、認識がいっさいの意欲の鎮静剤となる。

これが、生きんとする意志の否定の状態であり、自発的な断念、捨離、沈着、無意志の状態である。


2019-04-24 | ショペソハル

人間にはエゴがあり、自分の個体を最優先にする。

だから、基本的には愛は他人の苦悩を自分と同一視することで可能となり、共苦することである。

だから、エロスは自己愛であり、真の愛はアガペーである。

現実は、これらの混合である。

例えば真の友情でさえ、友の側にいることで満足する気分は利己心であり、友のために自己犠牲をいとわないところに共苦がある。



精神の容量

2019-04-23 | ショペソハル
非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。

これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。

非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。

言い換えれば、それは誤謬や妄想である。

我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。

しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。



人間の自由意志の否定

2019-04-23 | ショペソハル
現象界、すなわち表象としての世界は根拠の原理に支配された、必然の世界である。

だから無機物や植物や動物の行動は常に必然的で、自由はない。

人間行動も、動機に規定される面では自由は無い。



ただ、人間の認識は世界の完全な鏡であるから、意志による自由の余地が生まれる。

我々はカントに倣って、性格の自由な面すなわち意志を永遠不変な叡智的性格と呼び、性格の根拠の原理に支配された面を経験的性格と呼ぶ。


正確には、動機がある場合、意志が、つまり叡智的性格が決断し、行動するのだが、それを後から知性が認識し表象となったものが経験的性格である。


だから、


地面に立てた棒が右か左に倒れようとしている時、重力がそれを決定した結果が経験的性格であり、

棒を地面に立てると、右にも左のどちらにも倒れうる可能性が生じるという事実が叡智的性格である。


しかし、右にも左にも倒れる可能性が、自由があるように見えるのは見かけだけで、本当は平衡を失った瞬間に結果は決まっているのである。

叡智的性格は意志であり、時間の外にあるため、永遠に不変である。

だから、知性と意志の闘争の結果ではあるといえ、その結果は結局必然に支配されている。

つまり、人間に無差別な意思決定が可能であるという主張は間違っている。

デカルトやスピノザの主張がこれにあたる。

特に、人間はこんな人に成りたい、あんな人に成りたいと決心して変わることは不可能である。

意志は自由意志ではなく、生の衝動である。

人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。





きわまる断定調

2019-04-23 | ショペソハル
純粋な観照が可能となるためには、ありあまる認識能力が必要である。

これはすなわち自己の関心、自己の意欲、自己の目的をすっかり無視して、

つまり自己の一身をしばしの間まったく放棄し、

それによって純粋に認識する主観、明晰な世界の眼となって残る能力のことである。


自由になったこのもて余すほどの認識力が、そのとき意志を離れた主観となり、世界の本質をうつす明澄な鏡となる。


それではありあまる認識能力を持つ人とはどのような人であろうか?それは天才であり、以下に集約される。

活発さ、落ち着きのなさ
想像力の強力さ
実生活上の弱点
眼光の鋭さ
インスピレーション
数学への嫌悪(怜悧さの欠如)
狂気


とのこと

びっくり


.

あれ

2019-04-23 | ショペソハル
人がイデアを認識するためには、認識を「意志への奉仕」から解放する必要がある。

これにより、主観は個別の物に対する認識をやめ、個別の物同士の関係性に対する認識をやめ、抽象的な思考をやめるからである。

この状態は忘我

観照する行為と主観の同化の状態であり、

時間や因果関係といった「根拠の原理」を認識できないため、

どこ?いつ?なぜ?といったことに邪魔されることなく、

ひたすらなに?を認識することに集中した状態である。


この状態は主観が客観を映し出す単なる鏡である状態である。

あたかも対象だけが存在し、それを認識するものはいないかのように、唯一つの直感像だけが意識を占有した状態である。

この直感像がイデアである。

このように、人はイデアを認識する。


一方、この状態では、認識行為と主観は同化しているから、イデアは意志が直観されたものでもある。

この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。




智性=結果+原因=相対=客観性

2019-04-23 | ショペソハル

意思=主観=直接性





もとけいろ

2019-04-17 | ショペソハル
そんなことして何になる
言いたいこともわかる
しかし理屈では(彼の詳しい仏教のいう所の真理は)紐解けないだろう
それを述べたいヘッセに親近感を得る
思考または傍観ではわからないもの

季節の移ろいや植物の陰陽にハッとする 素朴な自然の様子にハッとする 
それはmotoqueiroで山中駆け巡り目にする森羅万象となにも変わりはない 
むしろ瞬間の連続で更に宇宙のようである

motoqueiroで山中駆け巡り疾走しながら躍動したりハッとしたりスリルを感じたりすること
それは彼の嫌う肉欲的で官能的な享楽なのだろう 
しかしそれらの閃光を言葉や文字で表現することが出来ないだけであり精神的感受性の享楽となんら変わりはない 
素朴な自然の平凡な移ろいにハッとするその感覚となんら変わりはない

頭で考え考察し思索するショペソハルは頭でっかちで損している
彼の仏教のいう所と矛盾してるよう 宇宙とはそんなものではないだろう



最大の愚行

2019-04-17 | ショペソハル

何かのために自己の健康を犠牲にすることである。

利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のためにせよ、健康を犠牲にしてはならない。



とのこと




叶わぬ理想

2019-04-17 | ショペソハル
朗らかな人柄 
怪我するような趣味を持たず知識階級的な趣味を持ち文化的な生活をしろ

これで頭によぎる山春氏 彼は地でいってるので本物だろう


幸福論

2019-04-17 | ショペソハル

ショーペンハウアー、意志と表象としての世界。  soqdoqさんから引用


幸福な生活とは何かといえば、主観的に、生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである。

われわれは幸福な生活を求めて生きているのであって、ただ単に死の恐怖により生き永らえているのではない。
しかし、人生がこういった幸福な生活に合致することがありうるかどうかということには、私の哲学は否と答えている。

したがって、幸福論という言葉そのものがバナナの叩き売り式の美辞麗句に過ぎないのであり、この論述は妥協の産物である。
この本の内容も、古代の賢者の言葉を繰り返し述べたものに過ぎない。




§1-1 人間の三つの根本規定

人間の幸福度の差は、3つの根本規定に帰着できる。それは次の3つである。

(1) 人のあり方、すなわち人品、人柄、人物。

(2) 人の有するもの、すなわち所有物。

(3) 人の印象の与え方、すなわち他人にどういう印象をいだかれるか。


(1)は自然が設けたもの、(2)と(3)は人間が設けたものである。

(1)が、単に人間の設けた(2)と(3)による影響よりも、はるかに本質的・根本的であることは、想像がつくはずである。
例えば、人のあり方(1)のうちには、内心の快不快が直接宿っている。
これに反して外部にあるいっさいのものは、間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない。




§1-2 精神的な享楽

人間は3種類の享楽を生み出した。

再生力の享楽。飲食、消化、休息、睡眠など

刺激感性の享楽。遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬、運動、狩猟、闘争、戦争など

精神的感受性の享楽。考察、思惟、鑑賞、詩作、絵画彫刻、音楽、学習、読書、瞑想、発明、哲学的思索など

しかしこの中で、

最も高尚で

最も変化に富み

最も持続的

な享楽は3番目の精神的な享楽である。

頭脳次第で、豊かでおもしろく味わい深いものにもなれば、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなる。
聡明な頭脳にはかくも痛快に映ずる出来事が、愚鈍平凡の頭脳から見ると、日常茶飯の世の中のおもしろおかしくもない一場面に変わってしまう。

ゲーテとバイロンの詩を読んでも、愚かな読者は、詩人の経験した惚れぼれするような出来事を羨みこそすれ、ごく平凡な出来事をかくもすばらしく造りあげた想像力を羨ましく思うことはない。
位階や富の差に比例して幸福や愉楽の内面的な差異ができているわけではなく、どんな栄耀栄華も、愚者の鈍い意識に映じたものであれば、セルヴァンテスが居心地よからぬ牢獄でドンキホーテを書いたときの意識には比すべくもなくみすぼらしい。

人間に与えられる幸福の限度は、個性によって、あらかじめ決まっている。
それは、精神的能力の限界によって精神的な享楽の能力が決まっているからである。
精神的な享楽の能力が低い人間は、感能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。

人々は大抵われわれの運命すなわち有するもの(2)あるいは印象の与え方(3)ばかりを計算に入れているが、人のありかた(1)によって大勢は決まってしまうのである。
内面的な富をもっていれば、運命に対してさほど大きな要求はしないはずである。

さらに、人柄(1)はわれわれから奪い取られることがない。
その意味で、他の二種の財宝(2)(3)が単に相対的な価値をもつに反して、人柄の価値は絶対的な価値だということができる。




§1-3 内面の貧困

人のありよう(1)が重要だとはいえ、時の力には、肉体的な美点も精神的な美点も、しだいに征服される。
この点では、あとの二つの見出しに属する財宝のほうが、時の力によって直接奪われないだけに、第一の見出しに属する財宝よりもまさっている。
さらにそれらは獲得可能なものであって、誰でもそれを手に入れる見込みだけはある。
そのため、人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている。

本当は富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶とを目標に努力したほうが賢明である。
しかも実は有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。
というのは、富は現実の自然な欲望を満足させるだけで、むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生ずる数々の心労のために、かえって幸福感が害われるくらいだからである。
多くの人間は富を殖やすための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとに出れば、何一つ知らない。
精神はからっぼで、最高級の持続的な享楽、すなわち精神的享楽は、高嶺の花である。
金持ちに不幸な人が多いのはそのためである。

暇はかからないで金のかかる刹那的な享楽をむさぼって、最高級の享楽のうめ合せをしようとしても、その効果は知れたものだ。
内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。
はじめは各種の遊興に娯楽や慰安を求めるが、あげくの果てには淫蕩にこれを求めるようになる。
金持ちに生れてきた長男殿が莫大な遺産をあっという間に使いさってしまうことがよくあるが、こうした手のつけようもない濫費の原因は、今言ったような精神の貧困と空虚とから起きる退屈以外の何ものでもない。

天罰覿面、とどのつまりは内面の貧困が外面の貧困までも引き起したわけである。




§2-1 朗らかさ

自己の生涯にどういうことが起きるかよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題である。
個性は一瞬も働いていないときはないが、他のいっさいのものは機に臨み折に触れて一時的に働くにすぎず、そのうえ世の有為転変にも服している。
してみれば、優れた性格と頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康頑丈な体格、宿る健全、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である。

さてこういった種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。
直接幸福を与えるものは朗らかさ以外にないのだから、朗らかさばかりはいわば幸福の正貨であって、他のいっさいのものと同じような単なる兌換券ではない。

朗らかさを得るためには、

健康

気質



が必要である。

だからわれわれとしては何よりもまず完全な健康を得て、そこから朗らかさが花と咲き出るように心がけるがよかろう。
日々適当な運動をしなければ、健康を維持することができない。
すわりっぱなしの生活様式の数知れぬ人たちのように、外部的な運動がほとんど無いに等しい場合には、人体内部に満たされた不断の運動の間に、有害な不調和が生ずる。
それは、何らかの激情のため胸の内は煮えくりかえっているのにそれを少しも表に現わしてはならないといったルールで縛られているかのような生活である。
何よりもまず互いに健康状態を尋ねあい、互いに無事を祈りあうのは、理由のないことではない。
このことから出てくる結論として、最大の愚行は、何かのために自己の健康を犠牲にすることである。
利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のためにせよ、健康を犠牲にしてはならない。

さて、朗らかさは健康だけで左右されるものではない。
完全な健康に恵まれていても、憂鬱な気質とか沈みがちな気分とかがありうる。
精神的感受性が異常に大であれば、間歇的には過度の朗らかさが現われるが、主としては憂鬱が基調になるというような、気分のむらが生ずる。
天才も過度の精神的感受性によって生れたものであるから、アリストテレースが「哲学にせよ、政治・文学・芸術にせよ、すべて優れた人間は、憂鬱であるとしたものらしい」と指摘した。

陰気な人間は十の計画のうち九までが成功しても、この九を喜ばずに、一の失敗に腹を立てる。
陽気な人間は、これと逆の場合にも、一の成功でみずから慰め、自分を明朗な気分にする骨を心得ている。
せめてもの埋め合わせは、陰気型の性格の持主は、朗らかな呑気な性格の持主に較べると、想像上の災難や苦悩を多く経験させられても、現実の災難や苦悩を嘗めさせられることは少ないことだ。楽観的な誤算が少ないからである。

健康と部分的に似たものは美である。美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状であり、男子にとっても非常に有効である。




§2-2 苦痛と退屈

人間の幸福に対する二大敵手は 苦痛と退屈 原文検索 である。

苦痛から遠ざかれば退屈に近づき、退屈から遠ざかれば苦痛に近づくというように、われわれの生活は、苦痛と退屈の間の振り子運動である。
例えば下層階級の人々は困苦すなわち苦痛と不断に闘い、これに反して富貴の社会は退屈を闘っている。
退屈から逃れるために、困苦から生じた文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光を通じて結局再現されているのである。

退屈の根源は内面の空虚であり、あらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を求める心となる。
この空虚が多くの人が浪費に走らせ、やがて貧困に落ちる。
こうした貧困を最も安全に防ぐ道は、内面の富、精神の富である。
優れた頭脳は全く退屈知らずで、同時に高度の感受性を持つから、意志、情熱の人一倍の激しさを根本としている。
そのため、苦痛に対する感受性が高まり、才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように努め、安静と自由な余暇とを求める。
そのために静かでつつましやかな、誘惑のなるべく少ない生き方を求め、いわゆる世の常の人間というものに多少近づきになってからは、むしろ隠遁閑居を好み、いっそ孤独をすら選ぶであろう。

人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。
だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。
逆に精神的に貧弱で下等な人間であれば社交的だ。
この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ以外に格別の生き方もないのである。

どこの国でもおよそ社交界の主要な仕事は、トランプ遊びということに相場が決ってきた。
トランプ遊びは社交界の価値を計る尺度であり、あらゆる思想の欠如を示す破産の宣告だ。
彼らは交わすべき思想の持ち合せがないから、トランプの札を交わし、互いに金をふんだくろうとする。
ああ、何とみじめな輩だろう。
あらゆる奇襲あらゆる手管を弄して、他人のものを奪い取ろうというトランプ遊びの精神は、実生活に根をおろし、たまたま自分の手中にあるならどんな利益でも法的に許されるかぎりは争って差し支えないという傾向になってくる。

輸入の必要のない国がいちばん幸福な国であるのと同様に、内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からは何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。
こうした供給は多くの費用を要し、輸入国を従属的な地位に立たせ、危険と不満をもたらし、結局は自国の生産物の埋め合せにはならないからだ。




§2-3 俗物(フィリステル/Philister)

俗物とは精神的な欲望をもたない人間で、精神的な享楽をもつということがない。
俗物にとっての現実の享楽は感能的な享楽だけである。
したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽に寄与するものなら何でも手に入れるということが、人生の目的なのだ。
しかも、この目的のために何のかんのと忙しければ、それでけっこう幸福なのだ。

しかしまだ俗物には俗物なりの虚栄心の享楽がある。

富か位階か、権勢や威力などで他人を凌ぎ、それによって他人に尊敬されるという意味の虚栄もあれば、同じ俗物どものなかでも傑出したやつと付き合って、虎の威を借りる狐のような気分にひたるという意味の虚栄もある。
俗物はその求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人でなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。
それどころか精神的な能力を見せつけられると、嫌悪か憎悪を感ずる。
富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。
こういったことは精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。




§2-4 天才の孤高

この世で最も幸福なのは、天才の知的生活である。

人間の能力は自然界の闘争のためにある。
しかし、体力・筋力などは、闘争が終わるや否や持て余されるようになる。
このため、俗人は刺激感性の享楽、スポーツを始めとし遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬などにその能力を空費するのである。

天才とは知的・ 精神的能力 原文検索 が有り余っている人のことである。
彼は安静と余暇さえ与えられれば、持て余した能力を、作品に注ぎ込むことが出来る。
天才は知的生活が自分の至上の目的となるほど没頭し、ライフワークとなる。
能力が有り余っていなければ、こうした完全な没頭は不可能である。

このような生活が最も幸福なのは、以下の3点による。

喜び 自分の能力を最大限活用できる。没頭の間じゅう、喜びに満ち溢れている

苦痛と退屈からの解放 外部の刺激に幸福の源泉を求めないので、苦痛が無い。しかも、高度な知性は退屈知らずでもある

進歩向上 能力の発揮が空費されることなく、作品に結実するため、不断に進歩向上する生活となる

これに比べて、俗人の生は無限に満たされることのない肉体的享楽の獲得のため、屈辱的な苦痛に耐え、しかもそうした生活が円環のように死ぬまで続くものである。
だから、人間の幸福には人のありかた(1)、とくに精神的享楽の能力の有無が決定的なのである。




§3-1 海水

財産が多いことは幸福であろうか?そうとは限らない。

要求と財産とは相対的なものであるから、たとえ金持ちでも、要求が財産より大きければ満たされず、不幸を感じる。

要求はどんどん大きくなっていく。どうしてだろうか?

それは、人間が要求の増大に慣れてしまうからである。富は海水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる。

要求が「次第に」増大していくものであることは、貧乏人の例を見てもわかる。
ある貧乏人が金持ちの莫大な財産を見ても、心を動かされることはない。
現状とかけ離れすぎていて、ピンとこないからである。
むしろ、この貧乏人はちょっとした富に対してはうらやましくて仕方がない反応を示す。




§3-2 財産の使い方

例えば自己の才能によって財産を築きあげたとして、その金は使って快楽を得るべきだろうか?そうではない。
財産は事故から知的生活を守る保険・防壁であるべきである。

自己の才能によって金を儲けた人は、必ずうぬぼれる。
ここに、「芸術家」、「手職者」、「商人」、「先祖から金を相続した者」の4種類の人がいると考えてみよう。


芸術家

芸術家の才能はたいていはかないものである。
すぐに才能は尽き、金も尽きる。
そうしているうちに金を使い果たし、破滅する。

手職者

手職者は才能が衰えても、ものが作れなくなるところまではすぐにはいかないものである。
さらに彼は人も雇えるから、お金を使っても金を使い果たすところまではいかない。

商人

商人にとっては才能ではなく、お金そのものがさらに利益を得るための手段であるから、お金を快楽のために使いすぎることはない。

相続者

相続者は、資本には一切手を付けず、利息のみによって暮らす。(“ごくつぶし”については次の章で述べる。)


このような、金の用途の違いは何から生まれるのだろうか? それは、困苦の経験の有無である。


貧しい時代を知っている者、例えば芸術家は、貧しくても何とか生きていけることを知っている。
彼らは貧しさを恐れない。
そのため、お金をあればあるだけ使ってしまう。

逆に、生まれた時から富裕の身であるもの、例えば相続者は、まだ見ぬ困苦を、空気が無くなるのと同じように恐れる。
こうして、彼らはたいてい外から嫁いできた妻には資本を継がせず、利息のみを継がせる。そして、子孫にのみ資本を継がせるものである。




§4-1 人の与える印象

猫は撫でてやると必ず喉を鳴らすが、人間も得意なことで褒められると、喜色満面になる。

人は他人の意見の奴隷であり、この喜びを過大評価しないよう、気を付ける必要がある。

人のあり方(1)と有するもの(2)に対して、人の与える印象(3)はわれわれにとって本当に存在するものではない。
およそ人の頭には未熟さ、浅薄さ、偏狭さ、おびただしい誤謬が渦巻いており、どんな偉大な人物にも寄ってたかって非難を浴びせるものではないか。




§4-2 名誉欲

「賢者でも名誉欲は捨て難い」と昔から言う。
名誉欲の迷妄の本質は、自分にとって直接には存在していないもののために、自分にとって直接存在しているものを犠牲にしてしまうことである。
名誉欲について次のことを知っておけば、この罠に陥ることは無い。

名誉は他人の頭脳の中にしかないものだから結局間接的な価値である。

他人の意見は大抵われわれに影響しないものである。

名誉欲の強い人間は他人が自分を褒めるのを聞きたがるものだが、面と向かっては自分を褒める人間が、陰で自分の噂をするさまを聞いたら、癇癪を起こして病気になってしまうほどである。


結局名誉欲に囚われれば、心の安静と満足という、幸福の条件を自ら失うことになる。




§4-3 虚栄心

虚栄心とは、自分に圧倒的な価値があるという「確信」を、他人の心中に呼び起こしてみたいという願いである。
そうすれば自分も、自分自身に価値があると思えるのではないかという、密かな期待が伴っているのだろう。

要は他人の思惑によって自分の価値の認識を変化させようというわけで、この方法で「自分の価値に対する揺るぎなき確信」が得られないのは明白である。
誇りも得られない。
誇りは確信に基づいており、われわれに左右出来ないからだ。

虚栄心の強い方々に御忠告差し上げたいのは、どんな素晴らしい話がおできになるとしても、ずっと黙っておいでのほうが、他人の好評が得られるということである。




§4-4 誇り

誇りには2種類ある。

自分の人柄(1)に対する誇りは持つべきである。
自らの長所を忘れると、低レベルな人間と交わって、釈迦に説法の説教をされることになるだろう。
何故ならあなたの内面の長所は彼らに見えないので、すぐ忘れられてしまうだろうから。

これに反し、民族の誇りは最も安っぽく、いたずらに持つべきではない。
これは、自らの内面になに一つ誇りを持てない憐れな輩が最後に逃げ込む場所である。




§4-5 3つの名誉

市民的名誉とは、平和的な社会に仲間入りするための名誉で、一度でも蛮行を起こせば失われてしまう。

誹謗や怪文書によっても失われてしまうから、法律により取り締まられている。
誠実と信用が大事である。と書くとつまらないが、そもそも名誉とはそれを担う人が例外的人物でないことを表すのである。
老年者の名誉も、長い間の市民的名誉の維持に信用がある。

職務上名誉とは、ある職務を司る人が、そのためのあらゆる能力をそなえ、任務を果たしているという評判である。
違反者を厳しく告発する自浄作用もこの名誉を支えるのに不可欠である。
官吏、医者、弁護士、教員、大卒者、軍人がそれぞれの職務上名誉を担っている。

最後の性生活上名誉は、女性の名誉と男性の名誉とに分かれている。

これは明白で、未婚の女性に対してはまだ男性に身を許していないという評判、既婚の女性に対しては1人の男性にしか身を許していないという評判である。
この名誉も自浄作用で守られているが、結婚制度を維持しようという力が違反者を厳しく糾弾するのである。
何故なら結婚という割に合わない取引は、信用のみに支えられているからである。

君主だけは、国益の定めた相手としか結婚出来ないから、可哀想だということで妾の制度が維持されてきたが、妾のほうも愛し合っても結婚出来ずに不幸であり、例外として黙認されている。

さて、男性の性生活上名誉は女性に対する労働組合的なものに過ぎず、姦通を厳しく罰しようというルールであり、これが出来なければ男性社会から不名誉を着せられる、というだけである。
しかも情夫は処罰されないものなので、消極的な起源をもつ名誉だとわかる。