ひさしぶりにショーペンハウエルに目を通すとこんなひどいユーモアの数々
«人間に与えられる幸福の限度は、個性によって、あらかじめ決まっている。
それは、精神的能力の限界によって精神的な享楽の能力が決まっているからである。
精神的な享楽の能力が低い人間は、感能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。»
«内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。»
«人間の幸福に対する二大敵手は 苦痛と退屈 である。
苦痛から遠ざかれば退屈に近づき、退屈から遠ざかれば苦痛に近づくというように、われわれの生活は、苦痛と退屈の間の振り子運動である。
退屈から逃れるために、困苦から生じた文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光を通じて結局再現されているのである。»
«人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。
だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。
逆に精神的に貧弱で下等な人間であれば社交的だ。
この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ以外に格別の生き方もないのである。»
«俗物には俗物なりの虚栄心の享楽がある。
富か位階か、権勢や威力などで他人を凌ぎ、それによって他人に尊敬されるという意味の虚栄もあれば、同じ俗物どものなかでも傑出したやつと付き合って、虎の威を借りる狐のような気分にひたるという意味の虚栄もある。
俗物はその求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人でなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。
それどころか精神的な能力を見せつけられると、嫌悪か憎悪を感ずる。
富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。
こういったことは精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。
俗人の生は無限に満たされることのない肉体的享楽の獲得のため、屈辱的な苦痛に耐え、しかもそうした生活が円環のように死ぬまで続くものである。»
«「賢者でも名誉欲は捨て難い」と昔から言う。
名誉欲の迷妄の本質は、自分にとって直接には存在していないもののために、自分にとって直接存在しているものを犠牲にしてしまうことである。
名誉欲について次のことを知っておけば、この罠に陥ることは無い。
名誉は他人の頭脳の中にしかないものだから結局間接的な価値である。
他人の意見は大抵われわれに影響しないものである。
名誉欲の強い人間は他人が自分を褒めるのを聞きたがるものだが、面と向かっては自分を褒める人間が、陰で自分の噂をするさまを聞いたら、癇癪を起こして病気になってしまうほどである。
結局名誉欲に囚われれば、心の安静と満足という、幸福の条件を自ら失うことになる。»
«虚栄心とは、自分に圧倒的な価値があるという「確信」を、他人の心中に呼び起こしてみたいという願いである。
そうすれば自分も、自分自身に価値があると思えるのではないかという、密かな期待が伴っているのだろう。
要は他人の思惑によって自分の価値の認識を変化させようというわけで、この方法で「自分の価値に対する揺るぎなき確信」が得られないのは明白である。
誇りも得られない。
誇りは確信に基づいており、われわれに左右出来ないからだ。
虚栄心の強い方々に御忠告差し上げたいのは、どんな素晴らしい話がおできになるとしても、ずっと黙っておいでのほうが、他人の好評が得られるということである。»
«民族の誇りは最も安っぽく、いたずらに持つべきではない。
これは、自らの内面になに一つ誇りを持てない憐れな輩が最後に逃げ込む場所である。»
«観照する行為と主観の同化の状態であり、時間や因果関係といった「根拠の原理」を認識できないため、どこ?いつ?なぜ?といったことに邪魔されることなく、ひたすらなに?を認識することに集中した状態である。
この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。
この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。»
«ありあまる認識能力を持つ人とはどのような人であろうか?それは天才であり、以下に集約される。
活発さ、落ち着きのなさ
想像力の強力さ
実生活上の弱点
眼光の鋭さ
インスピレーション
数学への嫌悪(怜悧さの欠如)
狂気»
«意志は自由意志ではなく、生の衝動である。
人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。»
«非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。
これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。
非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。
言い換えれば、それは誤謬や妄想である。
我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。
しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。»
«キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。
それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。
意志の否定の先にある世界では、我々は動機から解放される。
意欲が無いからである。
意欲が無くなると、我々の性格までもがひっくり返ったように感じられる。
これが教会の言う「再生」、「恩寵」の力である。»
«一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。
しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。
しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。»
«人間に与えられる幸福の限度は、個性によって、あらかじめ決まっている。
それは、精神的能力の限界によって精神的な享楽の能力が決まっているからである。
精神的な享楽の能力が低い人間は、感能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。»
«内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。»
«人間の幸福に対する二大敵手は 苦痛と退屈 である。
苦痛から遠ざかれば退屈に近づき、退屈から遠ざかれば苦痛に近づくというように、われわれの生活は、苦痛と退屈の間の振り子運動である。
退屈から逃れるために、困苦から生じた文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光を通じて結局再現されているのである。»
«人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。
だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。
逆に精神的に貧弱で下等な人間であれば社交的だ。
この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ以外に格別の生き方もないのである。»
«俗物には俗物なりの虚栄心の享楽がある。
富か位階か、権勢や威力などで他人を凌ぎ、それによって他人に尊敬されるという意味の虚栄もあれば、同じ俗物どものなかでも傑出したやつと付き合って、虎の威を借りる狐のような気分にひたるという意味の虚栄もある。
俗物はその求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人でなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。
それどころか精神的な能力を見せつけられると、嫌悪か憎悪を感ずる。
富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。
こういったことは精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。
俗人の生は無限に満たされることのない肉体的享楽の獲得のため、屈辱的な苦痛に耐え、しかもそうした生活が円環のように死ぬまで続くものである。»
«「賢者でも名誉欲は捨て難い」と昔から言う。
名誉欲の迷妄の本質は、自分にとって直接には存在していないもののために、自分にとって直接存在しているものを犠牲にしてしまうことである。
名誉欲について次のことを知っておけば、この罠に陥ることは無い。
名誉は他人の頭脳の中にしかないものだから結局間接的な価値である。
他人の意見は大抵われわれに影響しないものである。
名誉欲の強い人間は他人が自分を褒めるのを聞きたがるものだが、面と向かっては自分を褒める人間が、陰で自分の噂をするさまを聞いたら、癇癪を起こして病気になってしまうほどである。
結局名誉欲に囚われれば、心の安静と満足という、幸福の条件を自ら失うことになる。»
«虚栄心とは、自分に圧倒的な価値があるという「確信」を、他人の心中に呼び起こしてみたいという願いである。
そうすれば自分も、自分自身に価値があると思えるのではないかという、密かな期待が伴っているのだろう。
要は他人の思惑によって自分の価値の認識を変化させようというわけで、この方法で「自分の価値に対する揺るぎなき確信」が得られないのは明白である。
誇りも得られない。
誇りは確信に基づいており、われわれに左右出来ないからだ。
虚栄心の強い方々に御忠告差し上げたいのは、どんな素晴らしい話がおできになるとしても、ずっと黙っておいでのほうが、他人の好評が得られるということである。»
«民族の誇りは最も安っぽく、いたずらに持つべきではない。
これは、自らの内面になに一つ誇りを持てない憐れな輩が最後に逃げ込む場所である。»
«観照する行為と主観の同化の状態であり、時間や因果関係といった「根拠の原理」を認識できないため、どこ?いつ?なぜ?といったことに邪魔されることなく、ひたすらなに?を認識することに集中した状態である。
この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。
この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。»
«ありあまる認識能力を持つ人とはどのような人であろうか?それは天才であり、以下に集約される。
活発さ、落ち着きのなさ
想像力の強力さ
実生活上の弱点
眼光の鋭さ
インスピレーション
数学への嫌悪(怜悧さの欠如)
狂気»
«意志は自由意志ではなく、生の衝動である。
人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。»
«非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。
これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。
非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。
言い換えれば、それは誤謬や妄想である。
我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。
しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。»
«キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。
それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。
意志の否定の先にある世界では、我々は動機から解放される。
意欲が無いからである。
意欲が無くなると、我々の性格までもがひっくり返ったように感じられる。
これが教会の言う「再生」、「恩寵」の力である。»
«一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。
しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。
しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。»