法隆寺の西側に行くと、山のほうへ行く道があります。
これをずっと行くと、裏手(北側)に出ます。
先日何の気もなしに、娘エムと二人で、その道を歩いてみました。
「ドングリが拾いたい」というので。
もっとも春先のこの時期、ドングリはボロボロなのしか落ちてないのですが。
冒頭の写真は、その時のコースです。オレンジ色の線。
YahooやGoogleの地図では、この一部には道がないことになっていますが、あります。
もちろん舗装なんかはされてなくて、藪がすこし覆っているところですが。
法隆寺から少し上って、まだ地図で道と確認できるところの少し左手に入ったところにこんなものがあります。
刻んでありますが、「ウォーナー塔」というものです。
「太平洋戦争末期、日本の各都市に爆撃がおこなわれたが、京都と奈良は無事だった。なぜならこの二つの古都には世界的な文化遺産が多数あったからだ」
といったことを小学生の頃聞いたことがあります。
だからなんじゃいというのが正直な感想でしたが、その話のもとになっているのが、この「ウォーナー塔」で顕彰されているウォーナー博士。東洋美術の大家であった博士が、京都と奈良には文化財が多いので、爆撃の目標からはずしてくれろと米空軍に要請したので、京都奈良は戦災を逃れたのだ、恩人のウォーナーさん、ありがとう、というわけです。
ところが、この話、まったくの作り話であるとのことです。
詳しくは、吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んでもらいたいのですが、簡単に言うと、なんで奈良京都が爆撃を受けなかったかというと、原爆を落とす予定だったから(そのほうが原爆の威力をよりはっきり検証できる)というかなり寒い話です。当時の米軍の資料などから確認されています。
ウォーナー博士はなにをしたのかというと、日本の文化財リストを作った。
でもこれは、戦災から守るリストではなかったそうです。
しかしそれをもとに、日本の文化財を守ってくれたウォーナーさん伝説が作られた。これにはGHQも一枚噛んでいて…。
とまあ、こんな感じです。
著者の方は地道な歴史研究者で、念入りに資料を当たってくれますが、なかなかスリルのある話です。
それはともかく、散歩のつづき。
ウォーナー塔から元の道に戻ってさらに少し行くと、こんな廃屋があります。
こいつはただの廃墟ではなく、空風呂。
湯を張ったのではない、蒸し風呂のあった建物です。
でもただの廃墟って何だろう。自分で書いて不思議に思えてきた。
このボロボロの建物に、説明書きが書かれています。
読めるところだけ書き写すと、
「…薬師風呂
…奈良朝時代約
…百年前
…養老年
…鎌足の子息藤原
…の娘めである
…后様の深き御慈
…法隆寺にて御夢
…風呂を設けられ
難病者を救はん為め御?
ろ下されました我が薬師風
呂も其の一つであり土地の人々
は通称薬師風呂と呼ん
で親しんで居ります」
この建物を回り込むようにして歩くと、さらに山道が続いています。
左手下に畑が見えます。
それを見ながら歩いて行くと、がさごそ枯葉を踏んでいきます。
静かな林の中、ときどき、驚いた鳥ががさっと音をたてて飛んでいく。
「エム、怖くないか?」
「こわない」
なかなか勇ましいことで。
子どもと一緒でも数分でこんな所へ出ました。
冒頭写真の一番右上の溜池です。
明るくて気持ちいいなあといいながらうろうろ。
そして道を南に下っていくと、西里に出ました。いわゆる「昔ながらの町並み」です。
ところでこの日たどった道は、地図には出ていません。
そういう道が、法隆寺の北側にはたくさんあります。
もしこの記事を読んで興味を持たれて行くのなら、くれぐれも注意してください。
道に迷わないようにするのも当然ですが、絶対に畑などに立ち入らないように。
これをずっと行くと、裏手(北側)に出ます。
先日何の気もなしに、娘エムと二人で、その道を歩いてみました。
「ドングリが拾いたい」というので。
もっとも春先のこの時期、ドングリはボロボロなのしか落ちてないのですが。
冒頭の写真は、その時のコースです。オレンジ色の線。
YahooやGoogleの地図では、この一部には道がないことになっていますが、あります。
もちろん舗装なんかはされてなくて、藪がすこし覆っているところですが。
法隆寺から少し上って、まだ地図で道と確認できるところの少し左手に入ったところにこんなものがあります。
刻んでありますが、「ウォーナー塔」というものです。
「太平洋戦争末期、日本の各都市に爆撃がおこなわれたが、京都と奈良は無事だった。なぜならこの二つの古都には世界的な文化遺産が多数あったからだ」
といったことを小学生の頃聞いたことがあります。
だからなんじゃいというのが正直な感想でしたが、その話のもとになっているのが、この「ウォーナー塔」で顕彰されているウォーナー博士。東洋美術の大家であった博士が、京都と奈良には文化財が多いので、爆撃の目標からはずしてくれろと米空軍に要請したので、京都奈良は戦災を逃れたのだ、恩人のウォーナーさん、ありがとう、というわけです。
ところが、この話、まったくの作り話であるとのことです。
詳しくは、吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んでもらいたいのですが、簡単に言うと、なんで奈良京都が爆撃を受けなかったかというと、原爆を落とす予定だったから(そのほうが原爆の威力をよりはっきり検証できる)というかなり寒い話です。当時の米軍の資料などから確認されています。
ウォーナー博士はなにをしたのかというと、日本の文化財リストを作った。
でもこれは、戦災から守るリストではなかったそうです。
しかしそれをもとに、日本の文化財を守ってくれたウォーナーさん伝説が作られた。これにはGHQも一枚噛んでいて…。
とまあ、こんな感じです。
著者の方は地道な歴史研究者で、念入りに資料を当たってくれますが、なかなかスリルのある話です。
それはともかく、散歩のつづき。
ウォーナー塔から元の道に戻ってさらに少し行くと、こんな廃屋があります。
こいつはただの廃墟ではなく、空風呂。
湯を張ったのではない、蒸し風呂のあった建物です。
でもただの廃墟って何だろう。自分で書いて不思議に思えてきた。
このボロボロの建物に、説明書きが書かれています。
読めるところだけ書き写すと、
「…薬師風呂
…奈良朝時代約
…百年前
…養老年
…鎌足の子息藤原
…の娘めである
…后様の深き御慈
…法隆寺にて御夢
…風呂を設けられ
難病者を救はん為め御?
ろ下されました我が薬師風
呂も其の一つであり土地の人々
は通称薬師風呂と呼ん
で親しんで居ります」
この建物を回り込むようにして歩くと、さらに山道が続いています。
左手下に畑が見えます。
それを見ながら歩いて行くと、がさごそ枯葉を踏んでいきます。
静かな林の中、ときどき、驚いた鳥ががさっと音をたてて飛んでいく。
「エム、怖くないか?」
「こわない」
なかなか勇ましいことで。
子どもと一緒でも数分でこんな所へ出ました。
冒頭写真の一番右上の溜池です。
明るくて気持ちいいなあといいながらうろうろ。
そして道を南に下っていくと、西里に出ました。いわゆる「昔ながらの町並み」です。
ところでこの日たどった道は、地図には出ていません。
そういう道が、法隆寺の北側にはたくさんあります。
もしこの記事を読んで興味を持たれて行くのなら、くれぐれも注意してください。
道に迷わないようにするのも当然ですが、絶対に畑などに立ち入らないように。
初めて知りました!
もし奈良京都に落ちていたら、、、怖いお話ですね。
斑鳩に住んでいながらあまり法隆寺近辺を散歩していないので、道をよく知らないのです。
「西里」もよく聞くのですが、まだ行ったことがない。
その近辺にシフォンケーキのおいしい喫茶店があると聞きましたが。
話がズレました。
私も春休みにウォーナー塔目指して娘と歩いてみようと思います。
あの辺かな~と思うところはあるけど、確信はなし。でもたぶんそんなにややこしいとこじゃないでしょうね。
ウォーナー塔自体はそんなに遠くないですよ♪
散歩がてらにどうぞ。
西里の町並みを西に向かって歩いていくと、
調度役場から北上してくる道に出会いますが、
その角の喫茶店です。
「紅茶とシフォンケーキの店」って書いてたと
思います。
その裏側には、「きらら」さんというフェアトレードの店
もあるようですが、しょこらまだ行ったことなし。
どちらも駐車場あったと思うのですが、なんとなく
車では行きにくい感じで。。。
ご紹介、ありがとうございました♪
フェアトレードショップまであったとは。