GLAY Story

GLAY関連の書籍を一つにまとめてみました。今まで知らなかったGLAYがみえてくる――。

 売れない時代の幸せな日々

2009-09-09 | デビュー初期




 GLAYの成功と引き替えに、支払った代償はある。数え切れないくらいに、いろいろ。けれど、シンプルに考えれば、たったひとつともいえる。

 それが、彼女だった。それはもう男女の問題なわけで、いくつもの原因と結果が絡み合って別れたのには違いないのだけれど、やっぱりいちばんの理由は、僕がGLAYだったからだと思う。

 GLAYが成功したがゆえに、なにより大切な彼女を手放さなきゃならなくなった。彼女は、僕が成功によって失ったものの象徴だ。


●ジョン・レノンよりも深く影響を受けた人

 「タクロウ君が警備員のままだったら、結婚したかもしれない」 いつだったか、彼女は確かにそういった。

 ソウルメイトという言葉があるけれど、彼女は人生の師であり、親友であり、もちろん女の人として、女性としてもすごく好きだったから、恋人であり……、僕にはいくつもの意味を持つ存在だった。

 別れてしまった今も、決断をするときはいつも彼女のことを考える。正しい選択をするために。あの人だったらこんなときどうするだろう、なんというだろう。そう考えるのが、癖になっている。

 世間的な言葉でいえば、彼女は恋人だったのだろうけれど、人生の師という定義がいちばん近いかもしれない。おそらく、ジョン・レノンよりも僕が深く影響を受けた、唯一の人だ。

 最初に彼女に会ったのは、東京の音楽スクールだった。僕たちが来京に出て来て間もない頃だから、僕が19歳のとき。ボーカリストだった友だちにくっついて音楽学校に遊びにいったら、そこに彼女がいた。

 GLAYの初めての東京ライブは、実は浦和で、客は二人だったという話は前にしたけれど、彼女はそのうちの一人でもあった。

 なんて、素敵な子なんだろうと思った。けれど、当時彼女にはボーイフレンドがいたから、僕にはどうすることもできなかった。それから1年くらいブランクがあって、再び出会ったとき、彼女は一人だった。

 そして、僕は恋に落ちた。ちょっと変わった子ではあった。一緒に初詣に行ったことがある。

 何を願ったのか聞いたら、「世界の平和を願ったわ」 冗談でもなんでもなく、真面目にそう答えた。僕は思わず笑ったけれど、そういうことをいってもちっとも不自然じゃない、それが魅力に感じられる人だった。

 恋してたから、そう思ったんじゃない。そういう人だったから、恋したのだと思う。


●”YOSHIKIさんの七光り”

 あれは95年の1月だから、僕らがデビューして1年も経っていない頃のことだ。例のYOSHIKIさんプロデュースのデビューシングル『RAIN』は、トータルで15万枚売れた。新人としては、かなりのヒットだった。

 そのヒットが、新人バンドのレコーディングにYOSHIKIさんがピアノとして参加したという話題性によるものであることは、十分に意識していた。その後しばらくは親の七光りならぬ、”YOSHIKIさんの七光り”といわれたものだった。

 自分たちから望んでそうしたことでもあり、僕らはなんの抵抗も感じていなかった。むしろ思惑通りで これでGLAYは注目を浴びたわけだから、あとはその名前に負けないだけの音楽を創っていくだけのことだ。

 翌月に発売した2枚目のシングル真夏の扉も、テレビアニメの主題歌になって十万枚売れた。まあ順調なスタートを切ったというわけだ。その後が、いけなかった。

 デビュー直後から、スタッフは僕たちに高いハードルを与え続けた。歌にしても、演奏のテクニックにしても、トップクラスのミュージシャンを見続けてきた彼らの目に、GLAYはいかにも頼りなく見えていたに違いない。

 僕に与えられた最初のハードルは、当時流行っていた、「カメリアダイアモンド」のCMソングに採用される曲を書くことだった。

 しかし、詞も曲も、何十回も書き直しをして完成させたその曲、『彼女のModern…』はあと一歩のところで採用を見送られる。この曲はなんの仕掛けもないまま、僕らの三番目のシングルとして発売された。

 それでも新人バンドのサードシングルといえば、大ブレイクするものだと思っていたから、あまり心配していなかったのだが、蓋を開けてみると売れ行きは惨憺たるものだった。

 初収わずかに八千枚。話にならない数字だ。それから約一年間、低迷が続く。


●『アレンタウン』

 こういう話だ。デビューはしました。けど、CDは売れない、コンサートにも人が入らない。GLAYはもう四人だけのものではない。スタッフの何十という目の、期待が注がれるなかで なにも結果の出せないGLAYというバンドがいて。

 幼稚なプライドを木端微塵にうち砕かれ、無茶苦茶落ち込んで、今度こそGLAYはもう駄目かなと思っていた、そういう時期のこと。

 95年1月18日。日付まで憶えているのは理由がある。当時、僕は恵比寿の八畳一間に住んでいた。彼女が遊びにきていて、なんだかその日は眠れなくて、じゃあ歌を唄おうということになった。

 彼女がこの歌を唄ってくれたのは、後にも先にもあのときだけで、それ以降はなぜかどんなにせがんでも唄ってはくれなかったからよく憶えている。歌はビリー・ジョエルの『アレンタウン』。

 そういえば、ビリー・ジョエルの良さを教えてくれたのも彼女だった。二人でひとつの布団にくるまって、あの歌をビリー・ジョエルの真似をしながら唄っているうちに、なんだか口について離れなくなった。

 で、朝になって。テレビをつけたら、ニュースが流れていた。

 「関西で地震がありました。死者は……」 朝方のうちは、まだ死者数名という発表だった。「大丈夫かな」 なんて話をしながらも、思い出したように『アレンタウン』を唄っていた。

 その間にも、テレビのニュースは神戸の情報を流し続け、昼くらいには死者数千人ということになって、二人でものすごくショックを受けたことを憶えている。

 お金がないものだから、一食の食費を300円にしようとかいって、あらゆるものを卵とじにして丼物を作るという技を開発したのもあの頃だ。豚肉を卵でとじて、豚玉井、コンビーフも卵でとじて、コンビーフ玉丼とか。


●大関さん弁当

 ホカ弁にもお世話になった。よく買いに行った弁当屋に、ロパート・デ二ーロにちょっとだけ似た店長がいて、二人で勝手に"デニーロ"って渾名をつけていた。

 「今日はデニーロいなかったよ」 「デニーロと恵比寿の駅ですれ違ったぞ」 その弁当屋はメニューが変わっていた。

 横綱弁当とか、関脇弁当とか、小結弁当とか相撲の番付なのはわかるんだけど、なぜか大関は、大関さん弁当になっていた。大関だけ、なぜかさんづけ。ある日のこと、やくざが二人弁当屋にやってきた。

 メニューを見上げながら、若い方が、「兄貴、どれにします」 渋い兄貴が、「そうだな。……大関さん弁当」 それを聞いて弟分は、デニーロに威張って、「おいっ、大関さん弁当二つ」

 おかしくって、二人して笑いをこらえるのに必死だった。売れない時代はそういう具合で、実に幸せな毎日を送っていたのだが……。






【記事引用】 「胸懐/TAKURO・著/幻冬舎


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