正月休みが明け、1月6日、プラチナムレコードに行くと、取材や撮影などで スケジュールがぎっしりと詰まっていた。
当時のいくつかのスケジュールを紹介する。1月11日、水曜日。スタジオ『EBIS』にて音楽月刊誌の表紙の撮影と取材。2つの月刊誌の撮影ということでスタジオを掛け持ちで移動した。
撮影を終わると、次にはアイドル雑誌の取材が入った。取材が終わると撮影場所のすぐ近くの居酒屋にくり出す。
「今日は撮影と取材、どうもありがとう。GLAYの皆さん、好きな物を言ってくださいね。」 僕は1年前の自分を思い浮かべてみる。居酒屋にくり出しても、もちろん全部自前だ。
ポケットの中の百円玉を計算しながら、「ビール、もう1杯飲んでも大丈夫かな?」 そんな計算をしながらグラスを重ねる毎日。
ところが、この日のように「好きなものをなんでも言ってくださいよ。ここは結構食べ物もおいしいんですよ。」などと言われると、王様になったような気分だ。
「今年は正月からツイてる。何をやっても最高の年になりそうだ。」 そんなことを考えながら、喉越しに流し込むビールの味は格別だ。
●グラビアの撮影
1月19日。この日もスタジオEBISだ。この日は、音楽月刊誌の表紙と巻頭特集のグラビアの撮影。
デビュー前は、「音楽雑誌で取り上げてほしいよね。その雑誌で自分たちのライブの告知でもしてくれれば、最高だよね。」というのも夢だった。それが今は夢ではなくなっている。
実際にGLAYは表紙の撮影であるとか、カラーの巻頭のグラビア撮影であるとか、インディーズ時代にはとても考えられないような恵まれたポジションにいた。
それぞれヘアメイクさんがつき、スタジオではカメラさんがスタンバイし、照明さんがライティングの準備をしてスタンバっている。
5人が、各々の形でカメラの前に立つ。「JIROさん、ちょっと斜め横を向いてくれますか。」 「NOBUMASAさん、リズム隊として、JIROさんの、もうちょっと横に並んだほうがいいんじゃないのかな。」 色々な指示をされる。
悪い気はしない。TERUも、JIROも、HISASHIもカメラマンの言う通りに動く。「え、なんで、こんなにシャッターを切るの?」と思うくらい、次から次へ、シャッターが、パチパチと切られる。
フラッシュがたかれる。まばゆい。プロのカメラマン、プロの照明マンたちが自分たちに向かってシャッターを切る。そして、照明や衣装を変え、次々とポーズをとらされる。
撮影終了後、メンバー同士、「メジャーになるということは、こういうことなんだ。」 そんなことを語りながら、スタジオを後にする。
●連日の取材と撮影
1月2日・横浜『イエロースタジオ』。この日は1月25日発売の『Freeze My Love』のプロモーションビデオの撮影が行われた。プロモーション用のビデオは、GLAYにとっては4度目。
僕にとっても『彼女の“Modern…”』に続いて2度目だった。スチールカメラと違って動きを重要視される撮影。TERUも、TAKUROも、HISASHIも、JIROも動きがなんとなくぎこちない。
「もう少し、一気楽にいきましょうよ。ステージでやっているような気分でいいんですからね。あんまり力が入っちゃうと、顔の筋肉が硬直して絵として自然のものが撮れないんですよ。」
自分たちの中でも、「ダメだ。もうちょっと力を抜かなければ。自然のままでいかなければいけない。」ということはわかっているが、なかなかそうもいかないのが素人の悲しさだ。
取材や撮影が連日のように入る。4月から始まる『SPEED POP GIG '95』ツアーのリハーサルも兼ねたシークレットライブが3月1日、アルバムの発売日に目黒鹿鳴館で行われることに決まった。
この日のライブのため、2月に入ると目黒のマッドスタジオなどで連日のようにライブのリハーサルをくり返した。
僕のスティックの音を合図に、メンバー全員の音が一斉に爆発する。メジャーデビューを果たした後は、リハーサルにも音楽月刊誌のカメラマンが取材に来ていたりと、一瞬たりとも気を抜けないような雰囲気になっていた。
TERUの声がスタジオ内に響く。「もっと原点に帰ってやろうよ。ちょっと音が浮ついていると思うんだ。みんな、原点、原点に帰ろうよ。浮ついた心なんか持ってると、絶対にいいライブができないからさ。」
こんな厳しいリハーサルの甲斐あって、3月1日の鹿鳴館でのシークレットライブは無事に終えた。
【記事引用】 「GLAY‐夜明けDaybreak/大庭伸公(デビュー初期のドラマー)・著/コアハウス」