GLAY Story

GLAY関連の書籍を一つにまとめてみました。今まで知らなかったGLAYがみえてくる――。

 JIROの脱退騒動③

2009-04-01 | JIROの脱退騒動
 JIROはなぜ、そこまで自分を追い込んでしまったのだろうか。

 JIROは、「休みすぎたのが原因だったかもしれないですね」と言う。「長期の休みだったんで、色んな人のライブを見たんですよ。洋楽邦楽を問わず好きなバンドを見ましたね」

 「俺の中で、それまでってGLAYしか物差しがなかったんですよ。全部GLAYを基準に判断していたことが違う見え方がしてきたんでしょうね。特にレッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)はスゴかった」

 「アメリカだから日本だからということは関係なく、バンドとして音で勝負している気がした」

 「俺らも音楽が好きで始めてここまで来たけど、GLAYは音楽もやっているけど人気商売みたいな側面もあったし。俺たちはホントにこれでいいのだろうか、こういうことがやりたかったのだろうか、人気に頼っているだけじゃないのかって。焦りもあったんでしょうね」

 GLAYはただの人気商売のバンドなのだろうか。本当に音で勝負しているのだろうか。JIROのそんな自問は、彼だけではなくバンド全体の空気でもあった。


●抱え込んだ矛盾と混乱

 彼がもうひとつの原因としてあげるのが、このツアーに対してのものだ。

 「ああいうステージにした責任みたいなものもあったんだろうしね。実際ライブをやっていると、TAKUROくんなんかもステージの向こうのほうに行きたくてしょうがないのがやっていてわかったし、TERUもそうですよね」

 「そういうのを見て、俺が取った選択は間違っていたのだろうかとか。久しぶりに細かく全国を回るツアーだったから、待っている人たちの期待も裏切れないし。そういうことも重なって逃げ出したくなったというのもあったかもしれない」

 それは、GLAYが抱え込んでいた矛盾と混乱でもあったのだろう。幕張を終えて、そこから先をどう切り開いていくのかという試行錯誤の象徴的な場面。それがJIROだったということが核心だったのではないだろうか。

 つまり、「人気」という点で突出していたのが彼だったからだ。それも、いわゆる「アイドル的な」という形容詞がつくような、だ。JIROは「もちろん、ステージに立ったときにキャーと言われないと寂しい」と前置きしつつこう言う。

 「確かに幕張以降、みんなそういうことを切り離していこうとしてましたよね。自分が音楽以外の評価、人気で異彩を放っているというのは知ってましたから。そういう意味でも煮詰まっていたということもあったと思う」

 「“GLAYのためにも自分のためにも、あるべき姿を取り戻さないと”と思ってましたね」


●GLAYの音楽を取り戻す

 TAKUROはそのことに関して、2度ほどJIROと話し合っている。1回目は仙台で、2回目が金沢でだった。

 「アイツ、はち切れそうだったね。壊れそうだった、あの時期。俺としても、触れさせてはいけない部分に触れさせてしまったという自責の念みたいなものもあった」

 「あの当時、みんながよく言ってたのが“GLAYの音楽を取り戻すんだ”っていうことでしたよ。お客さんのためというより、自分たちの内へというあり方だったし」

 「脱エンターテインメントというか。ひたすら演奏に没頭するというツアーをやったわけですから。一人ひとりの人生への問いかけのようなものが噴き出しているみたいな毎日でしたからね」

 金沢のコンサートの後、ホテルから全員で食事に行く時もJIROは部屋から出てこなかった。TAKUROは、JIROの部屋の扉の下に「何かあったら何でもいつでも相談してね」というメモを入れて出た。

 その夜の食事会のことを山本史朗はこう言う。

 「みんな結構酔ってましたね。何でこうなったのか原因を探そうよということになって。永井さんがかなり酔っぱらって、『ダメだよ、みんなしっかりしなきゃ!』って何度も何度も同じことを言ってたのが印象的でした」


●JIROとの話し合い

 翌日はオフだった。TAKUROは、JIROと2人でじっくりと話す時間をつくった。

 「1回目も同じことを言ったと思うんだけど、俺の答えはいつも決まっていたと思うよ。もし、あなたが悩んでいるならリーダーとして全力で解決するから時間をくれと」

 「もうひとつは、脱退という形を取らないで10年でも20年でも休止でもいいじゃんと。それでもGLAYという肩書きがイヤなら解散しようと。その決断は明日でも構わない。それは今もそうですよ」

 「GLAYの音楽が純度を保っているのはビジネスじゃない所での関わりが多いからだと思うから、仮にそれがビジネスだったとしてもそこだけは保っていかないといけない」

 「ただ、3年たったら何であんなことを悩んでいたんだろうというような理由で脱退するとしたら、その後でひとりで音楽をやるにせよ、その責任の重さに今のJIROが耐えられるだろうかと思った。その話はしましたね」


●ロックキッズ・JIROとの決別

 そんな話し合いをJIROはどう感じたのだろう。

 「わかるよわかるよって、そこまで思ってるならここでツアーを止めるのは全然構わないよ、俺は責めないし、GLAYのメンバーも責めないと思うと言ってくれて」

 「ここまで自分のことを考えてくれてるのかというのはありましたね。あったけえなー、っていう。ただ、他のメンバーには何でこうなったかはちゃんと話したほうがいいと思うって言うんで、次の日に楽屋で全員にぶちまけましたね」

 翌日、開演前の楽屋でJIROは全員の前で、自分の心境を洗いざらい話した。

 それが、JIROにとっての気持ちの整理となった。「休みすぎたのがよくないって言ったんですよ(笑)。でも、あれは大きかったですよね。挫折感も覚えたし。いろんなモノをリセットしたくて、色んな選択肢も考えたし」

 「こんなに煮詰まった俺にどんな選択肢が残っていて、どういう道を選ぶのが幸せなんだろうかとか、その幸せというのはロックっぽいのかぽくないのかとか」

 「俺がネガティブになっていた時も他のメンバーはポジティブに戻れるように気を遣ってくれていたし、やっぱりGLAYのメンバーが一番大切だよなとか。ホントに色々考えましたね」

 「ひと言じゃ言い表わせないけど、ロックだロックじゃないとか何がロックかとか、そういうことが全部パーンとはじけた気がして」

 「それまではGLAYに対してもどこか無責任だったし、形にならないことを夢見ていたりしたんだけど、そこから全部自分で把握しようと思うようになったし。物事を考えられるようになったんじゃないかな」

 JIROはそんな話をした後、一瞬間を置いてこう言った。「そう、そういった意味では、あの出来事がロックキッズ・JIROとの決別だったんじゃないかな」


●『TIME』の誕生

 金沢のファンには申し訳なかった。でも、あれがあったから今のJIROがいられる。例えば、金沢で曲を作っているということもそんな変化だったといえるだろう。

 「ひとりぼっちのピークだったんですよね。その日に、今までの俺ってこういう時にグチャグチャ悩んでばっかりだったけど、TAKUROくんだったら曲をつくってるんだろうなって思って、ひとりでギター弾いて『TIME』 をつくった」




 ⇒JIROの脱退騒動④


【記事引用】 「夢の絆 ~DOCUMENT STORY 2001-2002~/田家秀樹・著/角川書店


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