先日のこと、メトロポリタン美術展が上野でやっているので行ってきました。
ゴッホが好きだったので、糸杉を見たくていってきました。
これは、個人的な見解ですけど・・・。
大昔、高校時代、美術の授業でゴッホを模写したこともあります。
美大に行くのか?とか、担任に言われたのは何十年昔のことでしょうか(笑)。
今の仕事について、心をそちら、つまり、美術とか音楽とか、まぁ、いわゆる芸術とかに向けると、仕事についていけないことに気づいてから、意識的にそういうものからは慣れていました。
で、今年になって、フェルメールの真珠の耳飾りの少女が公開されたので見て感動したり・・・。
同じことを期待したのですけれど、なぜか、ゴッホはすごいとは思いましたが、それから先は・・・。
ごめんなさい、ゴッホ様。僕はもう年を取りすぎたようです。
そう、多分ゴッホの作品は見る年齢を選ぶんじゃないかと思ったり。
もちろん、美術の歴史上、最も特別な存在としての価値は分かりますし、なぜ、彼の作品が特別なのかは、メトロを見ても分かります。
うーん、難しいな。
とにかく僕は、どういうわけか、あれだけ好きではなかった(個人的に)セザンヌの作品にちょっとした衝撃を受けたりしました。
セザンヌすげー・・・って感じ。
でも、メトロの中で、一番心打たれたのは、古い写真が置かれた一室でした。
写真の作品が、絵画を意識して、きっと絵画たろうともがいた作品たち、それは、写真というものが出来た初期の頃。
そして、時代が今に近づいていくにつれ、写真は絵画から離れ、写真になってくる。
変な表現かもしれませんけれど、そんなことを考えていました。
ブレッソンが、自らを良きブリンターではなかったと回想する映画のワンシーン。
しかし、ブレッソンの写真を安定して定着させることが出来ているのは、多分きっと、ブレッソン自身のネガが、ほぼ完璧な状態で露光されているからなのじゃないかと、作品集を見て感じたことがあります。
もちろん、プリントするときに様々なテクニックを使って入るのでしょうか、それにしても、プリントが安定しているから、きっと、光の読み方が完璧に近かったのだろうなと、思います。
彼の構図に関する論文もあったけれど、それは、何となくスルーしてしまった論文で、作者には申し訳ないですが、スルーでした。
ブレッソンの作品の中で、最も好きなのは確かインドで撮影された女性が両手を向こうに差し伸べ、今まさに祈りを捧げている写真です。
回顧展となってしまった、ブレッソンの作品展(開始時は存命されていました)の中で、大きくプリントされていたもので、あれはきっと、35mmの原画をより大きなネガに撮り直したのではないかと、今でも思っています。
その、ブレッソンの作品は写真としては、完璧だと思うのですが、それは写真という表現方法が行き着くべき一つのゴールを指し示しているようで、そして、それは、絵画のようで・・・、でもそれは、絵画の代わりではない。
メトロで見た写真の初期のものは、絵画をものすごく意識されている気がしました。
絵画の延長線上にある、モノトーンの作品が、写真というジャンルのものへと変化していく姿に、ちょっと感動した次第です。
なんか、今日は、だらだらとまとまらない話でした。
ゴッホが好きだったので、糸杉を見たくていってきました。
これは、個人的な見解ですけど・・・。
大昔、高校時代、美術の授業でゴッホを模写したこともあります。
美大に行くのか?とか、担任に言われたのは何十年昔のことでしょうか(笑)。
今の仕事について、心をそちら、つまり、美術とか音楽とか、まぁ、いわゆる芸術とかに向けると、仕事についていけないことに気づいてから、意識的にそういうものからは慣れていました。
で、今年になって、フェルメールの真珠の耳飾りの少女が公開されたので見て感動したり・・・。
同じことを期待したのですけれど、なぜか、ゴッホはすごいとは思いましたが、それから先は・・・。
ごめんなさい、ゴッホ様。僕はもう年を取りすぎたようです。
そう、多分ゴッホの作品は見る年齢を選ぶんじゃないかと思ったり。
もちろん、美術の歴史上、最も特別な存在としての価値は分かりますし、なぜ、彼の作品が特別なのかは、メトロを見ても分かります。
うーん、難しいな。
とにかく僕は、どういうわけか、あれだけ好きではなかった(個人的に)セザンヌの作品にちょっとした衝撃を受けたりしました。
セザンヌすげー・・・って感じ。
でも、メトロの中で、一番心打たれたのは、古い写真が置かれた一室でした。
写真の作品が、絵画を意識して、きっと絵画たろうともがいた作品たち、それは、写真というものが出来た初期の頃。
そして、時代が今に近づいていくにつれ、写真は絵画から離れ、写真になってくる。
変な表現かもしれませんけれど、そんなことを考えていました。
ブレッソンが、自らを良きブリンターではなかったと回想する映画のワンシーン。
しかし、ブレッソンの写真を安定して定着させることが出来ているのは、多分きっと、ブレッソン自身のネガが、ほぼ完璧な状態で露光されているからなのじゃないかと、作品集を見て感じたことがあります。
もちろん、プリントするときに様々なテクニックを使って入るのでしょうか、それにしても、プリントが安定しているから、きっと、光の読み方が完璧に近かったのだろうなと、思います。
彼の構図に関する論文もあったけれど、それは、何となくスルーしてしまった論文で、作者には申し訳ないですが、スルーでした。
ブレッソンの作品の中で、最も好きなのは確かインドで撮影された女性が両手を向こうに差し伸べ、今まさに祈りを捧げている写真です。
回顧展となってしまった、ブレッソンの作品展(開始時は存命されていました)の中で、大きくプリントされていたもので、あれはきっと、35mmの原画をより大きなネガに撮り直したのではないかと、今でも思っています。
その、ブレッソンの作品は写真としては、完璧だと思うのですが、それは写真という表現方法が行き着くべき一つのゴールを指し示しているようで、そして、それは、絵画のようで・・・、でもそれは、絵画の代わりではない。
メトロで見た写真の初期のものは、絵画をものすごく意識されている気がしました。
絵画の延長線上にある、モノトーンの作品が、写真というジャンルのものへと変化していく姿に、ちょっと感動した次第です。
なんか、今日は、だらだらとまとまらない話でした。