ジョージのインドネシア体験記

パダン(Padang)という、インドネシア、西スマトラの地方都市での生活体験記。

No.31 犠牲祭(09.11.30)

2009-11-30 11:02:33 | No.31~No.40
 私のインドネシア語について、だらだら~っとすでに2回続けて書いたのに、実はまだ続きがあります。ですが、タイムリーな話題があるので、こっちを先にして、続きは後回しにします。

 28日の土曜日に、Idul Adha(アイドゥル・アドハ)という、イスラムの犠牲祭がありました。カレンダーの上では27日になってますが、27日は集団礼拝だけで、家畜のいけにえが捧げられたのは28日でした。
 犠牲祭は、イスラム暦の12月、巡礼月に、メッカへの巡礼を果たした人だけではなく、送り出した人たちも巡礼を祝うために、家畜を犠牲にささげるのだそう。断食明けのIdul Fitri(アイドゥル・フィトリ)と並ぶ、イスラムの大祭です。

 朝6時半過ぎに、我が家の前で建設中のモスクのスピーカーから、「犠牲になる牛が来たから、今から始めるよ」というような放送があったので、あわててとび起き、身支度して外に出ました。
 モスクの向かいの空き地には、いけにえとなる4頭の牛と2頭の山羊がつながれています。ぼちぼち人が集まってきて、7時半ごろになって、いよいよ始まりました。
 まず1頭の牛が引っぱり出され、足にロープを絡められて、蹴り倒され、大人の男が数人がかりで押さえつけます。宗教的な儀式なので、もっとおごそかなものかと思っていたのですが、意外と乱暴なんですね。もっとも、牛にしてみればされることに変わりはないから、暴れるし、それなら押さえつけることにはなりますが。
 血が飛び散らないようにするためでしょうか、草の束を首にそえて、神をたたえる文句を口にしながら、包丁で首をバッサリ。「切る位置が少し下過ぎる」とか言われてましたが、数分で牛は完全に動かなくなり、すぐに数人が皮をはいでいきます。
 一方で、次の牛が引っぱってこられ、同じように蹴り倒され、首を切られました。3頭目は一番大きな牛だったので、少してこずっていましたが、4頭全部、同じようなもの。案外、淡々とやっていくんですね。
 この後のことも含め、この犠牲祭を見学した私の感想は、食肉加工をモスクでやってるような感じ、というもの。の時に、神をたたえる言葉を唱えるというのも、見たことはありませんが、普段からやってるはずです。お祭りとして、盛り上げるために特別何かあるわけではありませんでした。
 ただし、あくまで異教徒の私が見ての感想ですから、やってる人たちムスリムにとっては、一生に一度はという巡礼や神様のこと、あるいは世界中のイスラムの同胞に思いを馳せたりして、何かしらの精神的な高揚があるのかもしれませんが。

 皮を剥がれたのから順次、モスクの中に運び込まれ、解体されていきます。それぞれが家から持ってきた包丁などでバラしていきます。
 イスラムの行事だからか、女性は一切手出ししません。見物にすら、ほとんど来ていません。子供たちは横で見ていたり、周りで遊んでいたり。でも、子供にも手伝わせたりしていません。
 写真を撮りながら、様子をじっと見ていると、やはり年の功か、概して年配の人は手際がよく、若いのはあまりよくないようです。毎年のことだから、やはり慣れってのが大きいでしょうし、刃物があまり良くないので、若いのは力任せになりがちのよう。日常では、男が料理することは、ほとんどないのです。
 砥石をわきに置いて、ときどき砥ぎながらやってますが、あまりちゃんと砥げてるように見えません。それで、カッターナイフなんて使ってる人も何人もいます。ついつい手出ししたくなるのですが、今回は写真を撮るのに専念して、手出し口出しは一切しないようにしました。
 切られた肉は山と積まれていきます。部位ごとに分けるなんてことはしないようです。内臓だけはトラックに乗せてどこかへ持って行って、きれいになったのが後で戻ってきました。
 山羊の肉も、いつの間にかどこに行ったかわからなくなったので、同じ山に混ぜられたのかもしれません。

 頭は別に置かれてあったのですが、それも最後は皮をはぎ、叩き割って、取れる肉は取っていました。何かしらの儀式でもするのかと思っていたのですが、ちょっと拍子抜けするぐらい、何もありません。
 山になった肉は、はかりで重さをはかって、袋に分けられていきます。内臓や肋骨なども一緒に入れられてます。ざっと数えて、200袋ぐらいでしょうか。11時半ごろにほぼ作業は終わりました。
 2日前に、外国人で異教徒の私のところにも、肉の引換券が配られてきました。ありがたいことに、私も1袋いただいて帰ってきました。

No.30 senseiのインドネシア語(2)(09.11.24)

2009-11-24 15:31:55 | No.21~No.30
 私に向かって話しかけてくることだったら、普通はゆっくり目のインドネシア語で話してもらえるので、ある程度まではわかります。けれど、周りがミナン語で話していることは、言葉としてはほとんどわかりません。しぐさや雰囲気でわかることがある、という程度。
 周りがミナン語を使うのだったら、ミナン語を覚えないの?という声もありそうですね。でも、今のところは、いくつかの単語を知っているというレベルです。現実的にも、目標としても、インドネシア語の習得のほうが先ですね。
 知識人たるものは、後に残らない会話よりも、文章の読み書きをしてナンボだから、なんてのは冗談ですが、ミナン語はほとんど文字になってないのです。辞書もない。
 私は耳で聞くだけで、ものを覚えれるほどの頭脳は持ち合わせていなくて、五感のうちのできるだけ多くを使わないと、なかなか覚えられません。この場合なら目と耳でしょうか。まあ、漢字文化圏にどっぷり浸かって育ちましたしね。言葉は聞くよりも、読むものという風に頭が出来上がってしまっているのです。
 
 誰の説かは知りませんが、「一般に、赤道に近いところの言葉は簡単」で、赤道直下のインドネシア語は世界一簡単な言語の一つだそう。
 たしかに、とっつきやすい言語だとは思います。使う文字はローマ字だし、動詞などの活用もあまりありません。
 ですが、長所は短所にだってなりうる。たとえば、使う文字はローマ字ですが、発音は、アー、ベー、チェー…と、ドイツ語に近いような発音です。vは音が濁らないのでfと同じ発音になるし、rは思いっきり巻き舌です。ちなみに、私は巻き舌が苦手。
 インドネシア語の中にも、日本のカタカナ英語みたいなのがたくさんあって、おかげで英語そのままで通じることがある半面、文字が英語と同じなだけに、混乱することもしばしばあるのです。
 たとえば、informationはinformasi、universityはuniversitas。こういうのは分かりやすい。でも、単語の綴りを聞いたときなどに、「エー」といわれるとaかeか、わからない。気を利かせてくれて、日本語に合わせてaの時もあるからです。
 日本人の英語は、語尾が子音だけでも母音がくっついたりするので、語尾が強調されて聞こえますが、インドネシア語では、語尾は英語より弱くなるのが普通のよう。たとえば、angkotは私はアンコットと書いてますが、実際カタカナで書くとすれば「アンコッ」という感じに聞こえます。英語由来だろう単語でも、semen(cement)、tren(trend)となっていたり。
 2年前に観光で来た時だったかな、友人の家で、バナナをごちそうになったとき、「このバナナは縁起がいいんだよ。バナナのキンだ」って言うから、「金」だと思って、「金持ちになれるのか」って言うと、「違う、英語のキン。キン、キン」。はて?と思って頭の中で綴りを思い浮かべてみると、king。語尾が-ngだと、gの音は全くありません。

 同じく2年前、パダンに2回目に来た時は、パダンまでは一人旅。ジャカルタの空港で、ポーターやらが数人寄ってきたときに「MANDARA AIRの窓口を探してる」って英語で言うと「MANDARA HOTEL?」。何度言っても通じないから、最後はノートに書いて見せると、「オー、マンダラ・アイル」。正規の職員じゃないとはいえ、空港でairぐらいの英語が通じない。インドネシア語でairは「水」。英語になっても、発音がインドネシア語のままなんですよ。
 文字が同じなだけに、発音が違うなんて夢にも思ってない人も少なからずいるようです。なにより、アクセントがめちゃくちゃで、私にとって、英語には聞こえないのです。
 何人か会ったことがあるけど、どうも、中学、高校の英語の先生からしてアヤシイようです。生徒のほうが映画見たり洋楽聞いたりで、きれいな英語を使う人がいたりしますが、そういうことを言いだせば、日本だって同じようなものですね。

 観光で来ていたときや、今年も初めのころは、英語だったら大丈夫だって言って、実際使うことも多かったのですが、最近はあまり自分から英語ができるって言ったり、英語を使ったりはしなくなりました。
 相手が英語を使っても、インドネシア語にしか聞こえない。すると、受け答えもインドネシア語が出てきてしまって、英語が出てこないんですよ。中学レベルの英語すら出てこないことがしばしば。
 インドネシア語がある程度できるようになるのに反して、私の英語力は急速に落ちていくようです。で、最近は「英語だったらできるんだけど、indolishはできない」なんて言っています。

No.29 senseiのインドネシア語(1)(09.11.16)

2009-11-16 14:59:20 | No.21~No.30
 パダンで私はだいたい「センセイ」と呼ばれてます。日本で知り合った連中とその周辺では、名字に「さん」付けか、呼び捨てが多い。呼び方を「ジョージ」に変えようと企んではいるのですが、なかなか上手くいきません。
 直接の生徒からならともかく、特に何かを教えてるわけでもないのに、先生なんて呼ばれ方はしたくないのですけれど、そういうことを分かってもらうのは、ちょっとできそうにありません。
 高校の第2外国語で日本語をかじったとか、何かしら日本語を学んだことがあれば、センセイと呼んでくることが多いようです。例えば、例の町会長のようなおっちゃんの娘さん。今年の6月に高校を卒業したんですけど、中学で日本語を勉強したことがあるらしく、知り合った時からセンセイと呼ぶんですね。そこから広まったようで、近所ではほぼ私の呼び方はセンセイになってしまってます。
 しかたないので、「先生」ではなく、「sensei」と呼ばれているのだと思うことにしています。

 ところで、senseiこと私のインドネシア語です。パダンに来てから、もう8か月になります。「そろそろ日常会話ぐらいは問題なくなってきてるんじゃないの?」と思われているかもしれませんね。
 ところが、私のインドネシア語は遅々としてあまり進歩がないようです。来月、日本語能力試験があるのですが、3級を受ける学生の日本語の方が、私のインドネシア語よりも上なんですね。私は英語だってたいしたレベルではないんですけど、100%英語を使う環境の方が、まだ言葉の不自由は少ないかもしれません。

 なんでそんなに上達が遅いんだ?と思われるでしょうね。最大の理由はいたって単純。私の勉強不足。単語を覚えてなくて、語彙が足りないのです。
 どうも私は、単純なものの記憶というのが苦手で、何かしら理屈がくっついて、他のものとリンクしていくようなのでないと、なかなか覚えられないのです。人の顔と名前を覚えるのも、誰々の家族とか友人という「関係」の部分はすぐ覚えるのに、肝心の名前はすぐ忘れてしまったりします。
 私の英語能力のネックになったのも、結局は語彙が少ないせいです。大学のゼミで、帰国子女でTOEIC890点という人が一緒でしたが、彼女に「ジョージは発音がきれいだから英語が得意そうに思えるのに、なんで苦手意識があるの?」と聞かれたことがあります。
 発音がいいのは、洋楽で英語を覚えたためでしょう。鳥の口真似と同じですね。でも、語彙も歌詞のレベルにとどまったままなのです。
 英語のネイティブや彼女のように堪能な人としゃべると、なまじ発音が良くて「この人は英語で大丈夫そう」と思われるのでしょうね。ばーっとしゃべられて、ある程度は聞き取れたとしても、返答に困るのです。言葉が出てこない。
 どういう答えを返すか考えて、それからそれを頭の中で英作文するので、すごく時間がかかってしまう。もし単語が出てこないと、そこで停止してしまうのです。
 いまの私のインドネシア語もそんな感じでしょうか。英語の方がまだいけそうと思えるのは、語彙の差でしょう。

 自分の勉強不足はさておき、ここから、インドネシア語が上達しない言い訳をしていきます。
 まず、パダンでは、インドネシア語はあまり使われてないのです。主に、ミナンカバウ族の言葉、ミナン語が話されています。方言と独立した一つの言語との差がどこにあるか、私は知りませんが、日本語に対して大阪弁というような関係ではないはずです。
 インドネシアは多民族国家で、各民族ごとに固有の言語を持ってるのが普通です。それぞれに似たところもあるでしょうけど、方言ではないですね。だから、インドネシア語のイメージとしては、ヨーロッパで英語が共通語のようになってるのに近いかもしれません。
 ですから、例えば、日本語学習のために外国人が沖縄(それも田舎)に来たとして、周りは琉球語でしゃべってる、という感じでしょうか。
 テレビや、学校教育などでは、インドネシア語が使われていますが、我が家にテレビはありませんし、私はインドネシア語をどこかで習ったこともないのです。

 デキの家で、テレビでアニメをやってて、字幕が付いているのがありました。見てるとほとんど同じだけど、しゃべってるのと微妙に違うのがある。何語なの?と聞くと、お隣のマレーシアのアニメで、マレー語だそう。
 私にはインドネシア語とマレー語は区別できません。ですが、ミナン語かインドネシア語かはすぐにわかります。だから、誰かに話しかけられると「インドネシア語でゆっくり話して下さい」が決まり文句。
 長くなったので、続きは次回にします。

No.28 アンコット(09.11.11)

2009-11-11 12:59:41 | No.21~No.30
 別のネタで書いていたのですが、気が変わったので、途中まで書いていたのを破棄して書き直すことにしました。
 私はずっと神戸に住んでいましたが、阪神間は日本でも特に鉄道網が密な地域ですから、たいていの場所には電車と徒歩で行ってました。私は中学時代に部活でずいぶんと鍛えてもらったおかげで、歩くのぐらいはあまり苦になりませし、神戸にいる限りは自分で自動車を持つ必要性は感じませんでした。それで、自動車の免許証は取らずじまい。ということで、車の運転はできません。
 日本にいる間はそれでよかったのですけれど、パダンではそうもいきません。パダンにも鉄道はありますが、単線で、パリアマン行きのが1日に一往復とか。私はこれまで一度も利用したことがないし、はじめてパダンに来た時には、線路はあるけれど廃線だと思っていたくらいです。
 パダンが田舎だから、と思われる人もあるかもしれませんが、人口規模でいえば、約80万人。スマトラ島で第3の都市です。日本でいえば、静岡市や堺市と同等以上ぐらいなのです。

 パダンの公共交通といえば、アンコットやバス、バイクタクシーに馬車といったところ。アンコット(angkot)というのは、angkutan kotaの略で、ワゴン車を改造した乗り合い自動車です。
 だいたい決まった路線をぐるぐる回っていて、料金は2千から3千ルピア(約20円から30円)ぐらい。場所にもよるでしょうが、長くて数分も待てば次が来るぐらい、けっこうたくさん走っています。どの車がどこ行きなのかは、車体の色とフロントガラスなどに書いている番号で区別します。それでもわからない時は、運転手に聞く。「だいたい決まった路線」というのは、運転手の都合か何かで、普段通る道と違うところに行くことがあるのです。
 公共交通といっても、アンコットの運転手は公務員ではなく、車の持ち主に雇われているのが普通のよう。車のオーナーは、例えば研修生制度なんかで日本に出稼ぎに行ってたような人が多いようです。
 給料は歩合でもらっているのでしょうか。一人でも多く乗せようとするので、夕方など利用者の多い時には、一台に17、8人も乗ることがあります。それでも乗りきらない時は、入口のところにつかまって体は車外、なんてこともします。
 案外サービスのいいところもあって、乗りそうな歩行者があれば止まって待ったり、たくさん荷物を抱えた人には脇道にまで入っていったり、交渉次第で貸し切りにしたりもあるようです。
 アンコットに停留所や時刻表なんてのはなくて、乗る時は、待っててくれることもあるぐらいだから、道端に立ってたりすれば、呼び止めなくても運転手の方で止まってくれるし、降りるときは「kiri(左の意)」と言えば止めてくれます。

 初めてパダンに遊びに来て、アンコットに乗ったときには、いかにもインドネシアに来たって気になって、気に入ったのです。
 車内にはふつう、BGMというには音量の大きすぎる音楽がかかっています。外側には、派手なステッカーやペイント。車は、日本だったら廃車かな、というボロいのがまだまだ現役。車って、走るだけなら、意外とシンプルな機械だったんだなと思ったこともあります。
 けれどやっぱり、エンストしたりもよくあって、押し掛けしたり、それでも動かなくなったのは、その場で修理してたり。2、3人もいれば、脇に寄せるぐらいはすぐできるだろうに、道路をふさいだまま、何かやってたりします。
 
 運転手は若いのが多いせいか、運転はアラい、アラい。そんなにスピード出したって、客の乗り降りがあれば、すぐに止まらなきゃいけないんだからって思うんですけどね。当然、事故もよく起こしてるのです。
 観光で来たときはそれほど気にならなかったけど、ここで生活するようになって毎日のように利用するとなると、ちょっと年配で、年相応に落ち着いた運転手の方が安心できます。
 日本では、電車に乗ってる時間は読書の時間だったのですけど、こっちでは新しい本は手に入らないし、自動車の中では本は読めません。
 毎日アンコットに乗ってる時間はなんとなく浮いてるし、活字と疎遠になってるのも、なんとなく寂しい。

No.27 自宅でインターネット(09.11.01)

2009-11-01 23:30:12 | No.21~No.30
 地震から1か月が過ぎました。個人的にもたくさんの方から励ましのメールをいただきましたし、被災地に対して様々な形でご支援くださった方も多かろうと思います。パダンの住民の一人として、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 私が今回の地震のことについて、ある程度全体像をつかめたのは、地震の2日後、テレビを見てからでした。それまでは、狭い行動半径の中で自分で見たものと、出所のわからないウワサ話だけ。その時のウワサ話は、結局ほとんどが事実ではありませんでした。

 日本でも、私はテレビなんてあんまり見ませんでしたけど、ニュースぐらいはやっぱり知りたいし、通信手段が携帯だけよりはEメールも使えた方がいい。災害時には両方ダメになる可能性もありますけどね。
 それで、泥縄もいいところなんですが、自宅でもインターネットができるようにしなきゃな、ということで、ついに自宅でもネットに接続できるようになりました。

 私はこれまで、パダンではADSLしかないものだと思っていました。WARNET(日本でいえばネットカフェですが、カフェの要素がほとんどないので、「ネット屋」と訳します)もADSLです。光通信の回線はありません。
 もしADSLだと、自宅でするには固定電話の契約も要るし、工事も必要かもしれないな、というのが、導入に二の足を踏んでいた理由です。
 ところが、USBに付けるだけでネットができるようになるのがある、しかも時間制限もない、という話を聞いたのです。はじめに聞いたのはドナのところでですが、その後、私が教えている学生のティアにも聞いてみると、ティアが自宅で使っているのは、それだというのです。
 スピードはADSLにやや劣るものの、1か月時間制限なしで10万ルピア(約1千円)。ADSLだと、最もリーズナブルと思えるプランで1か月20万ルピア、50時間までです。USBなので、停電しても本体のバッテリーが続く限り使えます。ADSLは停電すればモデムの電源が切れますから、接続もそこで切れます。ネット屋を利用してたときは、何度かそういう目にあっているのです。
 
 さっそくティアと一緒に店に行ってみると、今契約すれば1か月40万ルピアだというのです。なんでいきなり値段が4倍にもなるのか、訳がわからないのですが、食い下がったところでどうにもなりそうにありません。
 ふりだしに戻ってしまったかと思ったのですが、ティアが、「友達にUSBモデムを売りたがってるのがいる。それだったら、1か月10万ルピアでできるはずです」って言って、その場でその友人に電話してくれたのです。
 その人はすぐに来てくれて、私のノートパソコンでも使えることが確認できました。「他の人に売る予定があるけれど、今100万ルピア(約1万円)で買ってくれるなら、売ってあげる」と言います。月々の支払いの名義なんかは、あまり問題になりそうではないし、モデムに100万ルピアというのも、当初の予定通りなので、買うことにしました。
 それにしても、その日の内に、こんなに都合よく売りたがってる人が見つかるなんて、不思議ですね。ティアが根回ししていたのかもしれないし、他に売る予定があるって部分は嘘かもしれませんが。
 パダンに限らず、インドネシア全般、ワイロとコネの社会だって話を聞いたことがありますが、コネ社会ってのは、私のようなよそ者にとっては、何がどこでどうつながっているのか、さっぱりわかりませんね。

 とにかくこれで、晴れて自宅でネットができるようになり、もうネット屋に通う必要もなくなりました。ちなみに、ネット屋は15分単位で、15分1000ルピアです。すでに書いたように、ネット屋でもADSLなので、スピードは快適とは言えない上に不安定です。
 今までは、PCのバッテリーの持ち時間、約1時間半ぐらいで用事を済ませなければなりませんでしたが、時間を気にしなくてもよくなったのは、うれしいですね。

 私が日常接するのは学生が多いってのはあるでしょうが、パダンで日常的にネットを使うような人は、やはり学生が多いようです。それで、何かしらパソコン関係の話題なんかになると、必ずと言っていいほどよく聞かれるのが「先生、FACEBOOKは使ってないの?」。
 FACEBOOKって、SNSですよね?私はあんまりそういうのに興味がないので、詳しく知りませんが、連中は「ネット=FACEBOOK」と言わんばかり。相手するのが面倒な時があるぐらい、携帯メールだけでもいろんなところからやってくるのに、そんなのに手を出す気は今のところありません。