土は、白っぽく、適度に柔らかい踏み心地。
ということは、西のほうでしょうか、子供の頃で、車を降りてたどり着いたのがどこに当たるのかがわかっていない状況。
その場には、子供では私しかいませんでした。
親は、母しか見えていません、父はどうも別の方々と別行動をとっていたかなという薄っすらした記憶。
昭和では昔からの光景が残っていたとはいえ、あきらかに特別でした。
奥に構えているとても大きな建物三つが目に入るところで立ち止まりました
一つは向きを内側に変えて屋根の重厚さがよく見えます。
瓦をはじめ全体に黒っぽくおちついた、否の打ち所のないいでたちだけれど、質実剛健というよりとても 雅(みやび)。
我々を案内していた方は、フェリー(当初大型客船)乗船前に来て母と行動していた人、台湾でできたばかりの(当時は?)高級日本料理店で私を称賛していた人 と同一人物とみられました。
子供の私だけに向き直り、「ここはあなたの所です」
ゆっくりそう言うと、「今日は建物には入りません」(その前に簡単な内部の説明を伺ったはずだけれど、覚えていません。)
じゃあ、また今度入るかな‥ と、当然のように期待します・・が、
おそらく失くなってしまったのでしょう😭 二度と訪れることになりませんでした。
高校や大学の図書室、図書館も、私に特別に出入りが許された場所があったのに、二度目からかないませんでした、悪の妨害で!
統一的に造られている土塀の脇から距離をおいたところを、背の高いその方(いつもお付きのような人が3名以上)と母が悠々と歩いていき、そのあとを私が歩いた…
昭和のその当時は着物姿の方のほうが多いくらいで、適度に活気ある往来があり、今から思えば、さすがにチョンマゲではないけれど、同じ昭和でも時代が違うかのごとくです。
建物のデザインは、当初見た父の家紋(三つ柏というらしい)の雰囲気に共通性があるように思えます。
建物には蔵書があるようなイメージを持っています。
ちなみに日本の活字印刷はかなり歴史が新しく(技術は非常に高度で管理が行き届くように工夫されていた)、一般に売られるものといえば岩波文庫のような文庫本サイズ。
表紙にしても一定の雰囲気に統一されていて、現在のようなのっぺり感はありません。
それ以前の書物といえば、手書きの巻物ばかりです。
とにかく、父方 母方のどちらをとっても、私のルーツはあれやこれやで、身びいきだの肩入れしようがない ということか、ということにしていたのか、定かではありませんが、
オブザーバー、審判適任の要素とはみられていた一つではないかと推測されます。
両親も、大事なことを、何もかも忘れ去ってきていたようでしたし、なにしろ日本国憲法の発布よりは平等な世ですから、私の家はプライドは高くても、やけに家系のことなど口にしたりしませんでしたし、私も無頓着。本人たちも明確に聞けていなかったのかもしれません。
遺伝的素養が、長男や長女に、生物学的に備わるとされていたことは確かであっても、もうそれ以上のことを誰も言えないでしょう。
日本国憲法では、長男、長女には重い意味を持っています。
根本的なことを必要とされた学術自体がねじ曲げられてしまっている今は、再着手も不能。
悪の粛悪によって、偽情報を、ちゃんと見抜けない人ばかりになってしまった
どうりで偽情報はどんどん猛威をふるっていた‥
昔は、必死に規定したり、機能上の整備制限して 悪い情報がはびこらぬようにされていたけど、
現在はすべてが自己責任。
もう流用ごと(重罪)はやめないと、殺故誤新中です。
↑ これ、見なきゃいけない人は このブログ参照しようとしない💧
けど、呼びかけときます。
ダウン中も、リアクションくださったり、誠にありがとうございます(●'◡'●)
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