12歳の頃まで夏休みは関西から母の実家で過ごしたりしました。
ある時は、後に知らずと同会社にあって、立派な柔道家で知られる事になる
まじめで気がよくて親切で印象的だった近所のお兄さん
とも半径1m以内で会っているのでした。
少ない会話でも何でもよく覚えていると、意外と世間は狭く、不思議な縁が転がっていると気付くものだな かも。でもまあ、関連気付いているのはこの私だけなのさ。
悪からのやられよう無くば、あんなにすばらしい方々が失脚することはぜったいぜーったいあり得ません。
我が祖父も、何から何まで、何でもセンス良く作り上げてしまう何でも屋の職人のいっぽう、柔道もそうとうすごかったそうですが、半身不随になっても、健常者でも敬遠しそうな屋根の高さにあるかろうじて置いてあるような板の上を行って大量の盆栽を育てていたんだもの、ただもんじゃねえ。
母だって、甥が暴れん坊な赤ん坊のとき、もうすでに一番お年寄りだったのに、当時、奈良の十津川の最長最大にして狭くて両脇の空いた吊り橋を抱っこ任されて渡ったのですから、、、心配役は私だけのようでしたが。当の親(妹)は小学生のとき障害物競走で、トップを走っていたのに平均台を3回もやり直して遅れたという武勇伝があるし、体育会系の旦那はびびってるから、一番いい選択だったんだろうけど。
でもその旦那の実家ときたら、これまた慣れてないとけして運転できないような場所を日常行き来していたんで、妹かどちらかの車に乗せてもらったら、まさしく天上を走っている感覚になれましたよ。
母の実家のことに戻りまして、2階の押し入れの広いような場所で、母が描いていた油絵のキャンバスを出してみたり整理したりしているところに、ちょっと立ち寄ったとき、ごく、ほんのわずかの間、絵を2, 3枚、目にしました。東京駅のもののいわくは耳に入ったものの、見れた時間なんて1、2秒程度。
またいつでも ゆっくり見れるだろうと、母も言いながらすぐ収納。
ところが、1、2年後に行った時、母が、絵が無いと言う。
壁にかかっているやや小型の絵を指して私が「あれは?」
と聞くと、「あんなの違う」・・・自分が描いた絵のようだけどまるで違うと
こんなことは私の若い頃にも起きていて、
後に、って今年に入ってからですが、母に自分の作品に起こった事を説明したとき、すぐに理解し、かつ不信感がとけたりして、とりわけ母が嬉しそうになったことにはなりました。
ちなみに今回、大学などに残されていた筈の私らの作品は改装なタイミングで、全部消えていたとのこと、もはや、私の作品らしきすら、絵画系全滅としか言いようがありません。他も残骸程度です。
芸術家の貧困で疑われるのが浪費ですが、きっと違う。
人前でそうふるまっている印象だけで、自分で使う時間など持ち合わせず、コストや時間の真に有効な使い方を理解されているわけでもなく、歴史的にも何らかの盗難によることが多いと見ます。
今にして思えば; 子供の頃のある帰郷の際 おじいちゃんおばあちゃんちの食卓で、まだ到着して何日もたってないのに、母が 兄貴である叔父の横でけんかをしているかのように、ご飯もろくすっぽ食べず滅茶苦茶すねて「もう帰ります」と言ってる、、、食事中ずっと。
なぜそんなことになっていたのか、教えてはくれなかったけど、もしかしたら絵が無かったことと結びつくのかもしれない。
母のきょうだいどうしの行き違いやらは、母自身として考え直せることに、やっと、ほんの直前になって、 というところが、もう、微妙過ぎとなりました、我がきょうだいでやその関係でも
なーどと思って、回想つぶやいてます。
こんなとりとめない記事にお付き合いくださって、ありがとうございます。