隠れ犯とよんでいる存在や性質を知るに至った経験は、数多(あまた)あります。
まずは、そのものに近い情報(予告、脅しごと)ですが・・・
ザッと他の種類を挙げようとして、これは随分なことだと思いなおしました。
チョッピリになったであろうオツムをいたわらせていただき、
この記事ではとっかかりくらいで 少しずつ・・
隠れ犯の存在を示す直接的なことの1つは、関連の濃い人の存在です。
上記のような予告者や、既存の紛れ込みとなるような人物を境に、
明らかな偽者(目の前に来る場合や電話やメールの相手、及びテレビで)と、
被催眠術者(憑依されたようになってしまう人)の存在があります。
証拠となる物の変容のしかたでも、具体的にかつ(違い分かる私には)色濃く表れ、
もう感情も刺激してきます。
さらに、おヒト絡んだり、相手となると、もう・・
相手は、さまざまな犯罪手段を持っていますが、このようにある程度大別できそう。
しかし、いくらあざとさ全面で(唯一の当事者の私には)一目瞭然ではあっても、
それらどれ1つとっても、計画的にパターン、バージョンを違えて行ってくるので、
自分では総合的にどれに相当するかが判別できていても、
対策や人への説明となると、一筋縄ではいきませんし
その妨害事や否定を持ち込まれると、
いくら頑張っても実質けがをせんばかりの骨折り損重ね、ヘドを吐く思いをするのです。
(これでも遠慮して表現しています…)
今年過ぎるまでにこのようなことが重なって、知らずと自分が追い込まれ、肝腎な時に、自分がすぐにでも死にたい乗じて死ぬこと前提の頭になってしまい、実家の悪条件のわずかなスキに母に言う事に、通常に無い異変を出してしまいました。
最後の最後に、実質母を救える状態になかったことに加え、これでもかというくらいつらい別れになってしまいました。
ちゃんとわかってくださる方には、とんでもなく痛い内容をご覧に入れることになってしまい、心よりお詫び申し上げます。
先日、電話で懸念生じたのは、(自分では知りようのない)自分の偽者がいるかもしれないことです。
かんたんです、明らかにつながりを切り替える音や間が作られたり、作られなかったりするからです。
今回は、いったん相手がこちらを確認したあとに、きりかわり音を聞かされ、そこから通話相手に変化がありました。
あとで分析すればするほど、偽物のほうがぐんと確率あがってきたのです。
なぜ、すぐに断じれないかというと、相手はいかようにも瞬時にできるからです。
残念ながら、他にも考えようがでてきてしまうのが、催眠術による相手の急変の可能性です。
ただ、相手にどんな目的があるか、それまでのことといつどんな違いがあるかで1つ1つ判別していくと、一番高い確率のものがおのずと出てきます。
(特にこの段、逐一改竄が見られました。再現的訂正をいれましたが、スンナリわかりにくいときなどは、けっきょく・・かもしれません m(_ _)
自分のことが他人に任せられなくなった状態では、もう職業や立場に違いをつけて考えるわけにはいきません。自分で何でも知ってやっていかなきゃなんです。
でも、私だけでなく、人は
[見る]というより、自分で正確に[診る]を放り出してはいけないよ。
今は、情報的にも ねじれきった世で、よりたいへん。
みるものには、これまでの経緯に対する偽ごとが必ず含まれると思ってまちがいない。
間接的な人やレッテル名称で判断させられる安易ごと、死人に口なしごとには、違和感もってほしい。
まず全然違ったり、違う事情が混じっていたりするから。
こうやって書いていると、また、日本人小学校の高齢の校長先生の話が思い出されました。
おそらく生まれは明治。
つまり、日本の激変の起こりようを知り得たお方。
チンギスカンのお話で起こった、私が話をとらえきれなかったことは、本当 たまたまで、少し弱々しい喋り口でもたいがい話は理解できていたのです。
そんななかで、力づよく、冗長的くらいにわかりやすい(創作?)おとぎ話が2つほどあって覚えています。
その2つ、
当時は、いくらなんでも、そんなバカな人(主人公)がいるもんかいなと、
教訓事としては失礼ながら、たいしたお話でもなんて酷いことを思っていた私。
いやもう、現在、殆どの人(特に大人)がその2人の主人公やってるではないですか!
(また、記事の話題ができてしまいました。どういうお話かはまた後日にでも。)
そして私にもそんな罠が仕掛けられています。
約39年越しに、ははあー、おそれいりました ! なのです。
厳しさ残る中にも、しっかりした世を引き継ぎうきうき気分でいいと思いこんで育った私たち年代・・
親の親くらいの年代では、
ちょんまげから実際にどんな運びで事件ごとが降りかかってきて、何が起こってきているかを察知してきておられたには、ちがいありませんでした。
これに限りませんが、
具体的な言葉以外にも、求めを忠実に覚えることによる体得;
楽観的な面のあった私も、受け止めなければならない温故知新があると、真剣に覚える感覚が、しぜんと養われていたのでしょう。
私の受けた(人からの)教育には、とても大事なことが含まれていました。
現代のガラッと変えられ強制の運びからは、とっぱらわれてしまったとみられる各教育が。