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創価学会員は財務が何に使われているのか知らない。
創価学会は財務の使い道を詳細に聖教新聞などに載せるべきである。
今は創価学会員には“うつ病”が信じられないほど増えて、生活保護者が激増している。
創価学会は財務の使い道を詳細に聖教新聞などに載せるべきである。
すると狂信者以外は誰も寄付しなくなるだろう。
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創価学会内部改革派憂創同盟残党またの名を三船敏郎
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北朝鮮と小泉首相の会談を実現させるために創価学会は北朝鮮に五百億円寄付したと言われる。そのため現在も北朝鮮から創価学会に寄付の依頼が絶えないと言われる。
このことを知っている創価学会員は皆無に近い。
このことを詳細に知っている人は、詳細に教えて下さい。宜しくお願いします。できるだけ詳細にお願いします。
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多額の財務をすると不幸になる
今年も二千五百億円の金が貧しい創価学会員から搾り取られてゆく。何に使われるのか皆目見当のつかない会員にとってこれは詐欺に等しい。
海外のお城(池田家の別荘)の維持費などに使われることを知っている学会員は極めて少ない。みんな会館などの維持費などに使われていると思っているのであろう。
無知の悲しみである。
生活をぎりぎりに切り詰めて財務している会員は多い。生活保護の人達も生活をぎりぎりに切り詰めて財務している。余りにも可哀相だ。
自分の知っている整形外科の医院は毎年一千万円財務してきたが、三年前に破産した。医師である父親は遠くに働きに行き、離婚して嫁さんと子供は実家に帰っている。一家離散している。
また、自分の知っている夫婦は毎年、預金をすべて財務してきたが、現在二人ともガンで死の床にある。幼い子供がどうなるのか心配である。
自分が中等部を担当していたとき、叔父さんが遺産として入った三千万円をそのまま創価学会に寄付したところ、その年行われた高校受験で必ず合格するはずの二つの高校に二つとも落ち、結局、三流高校に行き、スケバンになったことがある。金をもらえば誰とでも寝る。現在も苦しんでいる。
すなわち、多額の財務をすると不幸になるのである。
これらの悲劇は池田大作および側近幹部は知っているはずである。しかし、彼らは自分たちが優雅な生活を送れれば良いのである。彼らにはもう信仰心はないのである。地獄に堕ちるとは全然思っていない。
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「財務」に強制はないと主張する意見が多いが、それは学会活動の非活発な地区の話であろう。自分は毎年百万円の財務を行ってきたが、初めこそ自分の意志で百万円財務してきたのであるが、ある地区に引っ越したところ、男子部のある幹部から、あからさまに「百万円は財務しろよ!」と脅迫まがいに言われてきた。「車なんか買うな! 車は動けば良いんだ!」との指導をそのままに実践してきた。そして百万円の財務を十三年間続けてきたのである(自分は比較的高額所得者なのである)。
運命は確実に下降線を描いていた。もう下降できないというところで、創価学会(池田大作)の矛盾に気付いた。遅かった。もう少し早く気付いていたらと悔やまれてならない。十年間、“うつ病”に苦しんだ果てのことであった。間違った結婚もしてしまった。
自分はその頃、財務は会館の維持などに大部分が使われていると思っていた。池田大作の海外のお城の購入やノーベル賞取りなどに使われているとは全く知らなかった。
金返せ!!
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フランスに百億円で購入した古城の年間の維持費は五億円を遙かに超えるという。何のための古城購入だったのか? 池田家の別荘とは言え、ここにも学会員のなけなしの財務が使われてゆく。
フランスの創価学会が使っていると弁明しているが、普通の鉄筋コンクリートの会館を建てたら三億円で十分に建てられた。維持費も少なかったはずだ。
全くの無駄遣いとしか思えない。
財務を返還せよ!
財務は池田大作の遊興費に使われているのではないか?
池田大作の別荘は日本には少なくとも5つはある。維持費だけでも莫大である。
ロシア、イギリス、アメリカなどにも古城などの超豪華なものが有るという。維持費だけでも莫大である。
池田大作の遊興費、池田大作のノーベル平和賞取りのために我々は財務しているのではない!
財務を返還せよ!
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“国立戒壇”をめぐって対外的、対内的に紛糾
言論問題の際、創価学会の主張する“国立戒壇建立”は憲法違反ではないかとの批判が他党から為されたが、池田大作はこれに対し「現在建設中の正本堂が日蓮聖人御遺名の戒壇であり、これは民衆立である。国立戒壇は必要ない」との回答を、東京都を通じて文部省、国会へ提出した。
日蓮正宗では、明治以後“国立戒壇を富士山麓に建立する”ということが伝承となっていたから、これを巡って日蓮正宗僧侶や他の法華講から異論が出た。中でも“妙信講”という講が強硬に「国立戒壇論の撤回は教義に違背する」と主張し、日蓮正宗と創価学会に食い下がった。
昭和四十七年の正本堂落慶を目前にする頃、この“国立戒壇”論を巡る論争は白熱し、宗団暴力事件に発展し掛かった。日蓮正宗としては、創価学会の要請と旧来の法華講や僧侶の勢力との板挟みになり、対応に窮して右往左往した。
このときは同年八月、秋谷栄之助氏(現会長)、原島嵩氏、そして私の三人が、妙信講首脳と対決討論し、何とか激突を回避した。しかし、その後、問題がぶり返し、妙信講による創価学会本部襲撃事件、そして幾つかの訴訟事件へと展開したが、昭和五十二年四月、裁判所に於ける和解で紛争は一応の収拾を見た。
この言論問題時に於ける“国立戒壇論”引っ込め作業、及び妙信講問題の処理は、私が司令官となって処理に当たった。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p81-2)
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日達上人の反論と宗門――学会の対立激化(1)
こうした事件の流れの中で、日蓮正宗側は次第に創価学会の言いなりになることを拒否するようになり、池田大作はイライラを募らせた。昭和四十七年十一月、池田大作は正本堂内で大勢の会員のいる前で、法主の日達上人を面罵した。また、翌年一月二日、大石寺対面所での法主招待の会食の席において、池田大作は、やはり幹部の居並ぶ前で、日達上人をなじった。
事の次第は、池田大作が「最近、大石寺の僧侶の素行が悪い。警察や検察庁でも話題になるくらいだ。厳重に注意して欲しい」と発言し、日達上人が気色ばんで反論し掛かったところ、池田が「そんな言い方はないでしょう猊下。そんなこと言われるなら、こちらにも考えがありますよ」と恫喝した。そして、会食に同席していた静岡地方検察庁検事・会田宣明氏を指名して立たせ「私の言ったことに間違いないだろう」と念を押し、相槌を打たせた。
その時は日達上人が黙ったが、やがて説法や講演の席で創価学会批判を始め、日蓮正宗と創価学会の間はにわかに険悪になった。
その間の事情を「蓮華」(昭和四十九年八月)は次のように書いている。
「『おととしの秋ぐらいから、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また教義上においても我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。それは世間の友好のため、広宣流布のためという目標に依ってそうしていると聞きますけれども、そのままにして置いたんではそれは大問題になりはしないか。終いに於いて取り返しのつかない事になりはしないかという憂慮の為に』
『富士宮のーーこれは信者ではないけれどもーーある有名な人は、大石寺は前々から言う通りに、軒(庇)を貸して母屋を取られるような事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だと放言していたという事です。私はそれを聞いて、非常に残念であると同時に、まだまだ我々は僧侶としての考えが甘いのではないかと思いました。どうか皆さん、自主的に日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくても、大聖人は必ず袈裟の功徳がある、その功徳(は)甚大である、という事を出家功徳抄に出しておられるでしょう』
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日達上人の反論と宗門――学会の対立激化(2)
ひさしを貸して母屋を取られるーー創価学会の宗門乗っ取りの野望を、こう表現され『日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくとも』とまで仰せられた日達上人のご覚悟は、よくよくのことであった。それほどに、創価学会の路線は、土足で宗門を踏みにじるような専横ぶりであったのであり、宗門と創価学会の亀裂は、修復困難なまでに深まっていた」
その頃、妙信講問題、正本堂の事務処理などで日蓮正宗との接点にあり、学会首脳と日達上人の信頼が厚かった私に対し池田大作は、関係修復工作を命じた。
昭和四十九年四月、北條浩氏と二人で日達上人に面談に行ったところ、けんもほろろにあしらわれてしまった。
「学会は好き勝手にやれば良い。宗門は関係ない」
「謗法者をいくら増やしたって、当宗には何の関係もない」
「いくら折伏といったって、間違った教えを広めては何にもならない」
「池田さんを仏さんにしてやれば良いじゃないか」
腹を立て、顔を真っ赤にした北條浩氏は、学会本部に帰り着くなり、後に有名となった“北条報告書”を書いた。
「本山の件
九日の本山お目通りの際、猊下の話は大変ひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほど酷いものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました」
「先生(註=池田氏)が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりに酷いので、かえすがえすも残念です。……学会が生き抜いてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ、先生の最大のご苦心に触れる思いで決意を固めました。……学会が犠牲になるような戦いは絶対してはならないと思いました。……」
一方、日達上人の方でも学会に対して宣戦布告した。
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日達上人の反論と宗門――学会の対立激化(3)
「先月の中頃でしたか。私は北条副会長並びに山崎弁護士が来られましたときに私は申し上げました。そのとき国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターというものを造るという趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
日蓮正宗は日蓮正宗としての一つの宗教法人である。大聖人様の遺名に依って広宣流布を全うしなければならない只一つの宗旨である。それを、その上に一つ、日蓮正宗国際センターというものが出来るとなれば、正宗としてはその上に一つ、また被宗教法人ができる(ことになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。
日蓮正宗としての意味が、又御戒壇の大御本尊をお守りしていると云うのも、今度は出来なくなってしまう。その上の宗教法人に於いてどうとかこうとか言われたらばこっちもその下につくんだから何ともする事が出来なくなる。その意味からはっきり断りました。どこまでも日蓮正宗はたとえ小さくても宜しいから、大聖人の教義を守っていきます。
又今皆様方のお陰で大きく成って居るけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか又大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)有るかも知れない。だから私はどこまでも大聖人の仏法を守ると云って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は否定と云いますか、お断りしたわけでございます。
それから端を発して、その後、最近の一年か二年かに亘る所の学会のいろいろな教義の違い、謗法のあり方という事も申し上げました。で、ついにその為に二人は帰って行きました。」
その後、池田大作と三人で話し合ったが、池田も事態の深刻化に改めて対応に苦慮した。首脳達と宗門問題について会議を開くに当たって、資料作りを指示され、私と八尋頼雄氏の連名で作ったのが、やはり後に問題となった“山崎・八尋報告書”であった。
その中で、日蓮正宗を「創価学会の外郭の一つ」と定義して完全に支配下に取り込むか、さもなくば折を見て手を切るか、と二つの道を提案した。池田の意によるものであった。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p82-7)
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逆恨みした池田は経済封鎖に出た
この時は結局、私が一対一で日達上人と直談判した上で、妙信講問題その他で親しく往来していた阿部総監代行(現法主上人)のとりなしにより、池田大作が頭を下げて何とか手切れはくい止められた。
だが、創価学会側は、この時の日蓮正宗側の対応を深く恨んだ。池田大作は、とりわけ根に持った。そして“山崎・八尋報告書”に基づいて、日蓮正宗制圧へと着々と手を打っていった。
池田大作の反撃は、昭和五十二年一月から始まった。元旦の挨拶を日蓮正宗攻撃で始めた後、日達上人の直弟子で、学会批判の言動のあった僧侶を選んで、青年部による集団つるし上げを行った。同時に、宗務院に対して「どう責任を取るのだ」と詰め寄った。全組織に命令をして「寺院に参詣するな。御供養するな。近づくな」と、経済封鎖を行った。
池田大作は、暴力と経済封鎖で日蓮正宗を追いつめ、日達上人を退座に追い込むつもりだった。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p87)
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正常化を願い頭を下げられた日達上人
同年二月、私は日達上人から「内々で話したいことがあるから、(東京都)文京区西片町にある管長宅(大石寺出張所)へおこし願えないか」との招待を受けた。
困ったことになったと思いつつ、人目を忍んで訪問したところ、日達上人は自らスキヤキ鍋でもてなして下さりながら「御承知の通りの事態で、困惑している。貴方の御尽力でせっかく元に戻ったと思ったのに、今の池田は、気が狂ったとしか思えない。誰か、池田を諫める人はいないですか」と切り出された。
「今回、“俺のやりたいようにやらせろ。失敗したら、また後を頼む”とクギをさされています。私も、見ている他ありません」と答えると、「笹川さんとか田中さんとか、誰か力のある人に頼んで、たしなめて貰うわけにはいかないだろうか」と重ねて尋ねられた。
「そういう人に言われても、従うような池田大作ではないし、そういうことの言える立場の人はいません」と言うと「やはり、そうですかねえ」と、ため息をついて、黙り込まれた。
しばらく、黙々と二人でスキヤキを食べていたが、やがて日達上人は「自分としては、私情を殺して広宣流布のためと思い、先師方の後を継いで創価学会を立てて来たが、こうなっては、腹を決めるしかないな。私も歳だが、このままでは、霊山へ行って歴代の御先師方に会わせる顔がない。根性のある僧侶と、根性のある信者を頼りに、ひとつ戦うしかありませんな」と述べられ、私に「山崎さん、どうか、力を貸して下さい」と頭を下げられた。
正直言って、重荷であり、困惑した。既に何とか後腐れのないよう、創価学会から抜けようと思って動き始めている最中である。これ以上、かかわりを持ちたくない。まして、池田大作を向こうに回して、余り勝ち目のない戦をするなんて、思ってみても恐ろしかった。しかし、目の前に、私を信頼してここまで打ち明けた老齢の御法主上人の姿がある。
このとき、計算や打算、戦術や戦略といった考えを抜きにした気持ちが自分の中で動いた。
「当面のつるし上げは止めさせるよう、何らかの手を打ちます。しかし、長い目で見たとき、宗門と学会の間には、このままでは相容れないものがあることはもう御承知のことと思います。そのことを踏まえて、御判断されるべきでしょう。ただ、宗門は、あくまで法門と信仰のあり方の原点に立って、大義名分の上で行動されるべきです」
日達上人は、何度もうなずかれた。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p88-9)
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攻撃中止を進言、受け入れられる
翌日、学会本部で北條浩氏に会った私は、単刀直入に「一切の仕事から手を引かせてくれ」と申し入れた。
何事かと驚く北条氏に「今のような宗門攻撃を続けていたら、宗門側も耐え切れなくなって、なりふりかまわず反撃します。両者手切れになったら、妙信講問題も、松本勝彌氏の裁判問題も、総崩れになりますし、その他、諸々の事件も息を吹き返して収拾がつかなくなる。これ以上、自信がないから、やめさせて下さい」と告げた。
どうしたら良いのか、と尋ねる北条氏に、これ以上、宗門側を追い詰めるのは得策ではないから、恩を売る形で攻撃を止めるように進言した。
「妙信講問題も、もうすぐ片がつくことだし、それからまた始めても良いではないですか」
北条氏は納得し、池田大作らを説得した。私の強い進言ということで、首脳も同意した。秋谷栄之助氏だけが「もう少しで日達上人をやめさせられたのに」と未練げに言ったが、状況判断の誤りも甚だしいと腹の中で笑った。僧侶を甘く見てはいけない。明治生まれの人間の性根を見くびったらひどい目に会うぞ……と、自分にも言い聞かせた。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p89-90)
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日達上人の反撃開始、池田のお詫び登山・会長辞任
日達上人の反撃は、昭和五十二年七月、創価学会が民社党の攻撃で弱り切っているところを見透かしたように開始された。弟子の一人が池田大作の講演の誤りを正面切って指摘したのを皮切りに、創価学会の法義違背の指摘が大々的に行われ始めた。
「山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始まりましたから、よろしく」
日達上人がはずんだ声で電話を掛けて来た。
腹背に敵を受けた形の創価学会は、ジリジリと後退した。
池田大作は困ってくると私を使って解決しようとするが、ただ、私を利用して相手を騙そうとするだけだから、そんなことに黙って利用されるつもりはなかった。また、日達上人もそうした池田のやり口や下心を見抜いてしまっているから「今度はどんな話をもって来たのですか、山崎さん」と、ニヤニヤしながら聴かれる始末だった。
「一遍に追いつめると血迷って何をしでかすか解らんから、一歩一歩、段階を追って、押したり引いたりしながらやろう」
日達上人は、自信を持って池田大作の料理に掛かった。
そうした中で、昭和五十三年七月、教義上の諸問題についての訂正、九月、勝手に模刻した本尊の返納、十月のお詫び登山と事態は進み、五十四年四月には、池田大作の会長辞任へと発展したのであった。
日達上人にしてみれば、一番手強い私を味方に付けたのだから、学会の対応は鏡に写すように解るし、相手の戦力は低下していると、楽に戦いを進められたに違いない。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p90-1)
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金貸し業の習性が人間不信の性格に
金貸し業の経験はさらに、池田大作に金の集め方、使い方と、物品に対する鑑識眼を教えた。
創価学会に於いては、職員一人一人の給与や住居から、細かい記念品に至まで、池田大作は念入りにチェックする。
財務の集まり具合を地域ごとにチェックし、良いところの幹部は優遇し、悪いところの幹部はいびり抜く。
信じられない向きもあろうが、池田大作は“金”と“人事”だけは、絶対に人任せにしないのだ。幹部も職員も、池田大作のめがねにかなわなければ昇給も昇進も覚束ないことを、骨の髄まで身にしみて知らされる。それが、池田大作の支配の手段なのだ。
貴金属や美術・骨董品にも格別の関心を示す。
外部からの贈り物や貢ぎ物の刀剣や美術品を首脳の前に並べて「今回、塚本素山(塚本創業元社長、学会顧問。故人)のもって来たこの刀は意外と安物だ。ケチったな。以後、あまり儲けさせるのはよそう」などと言う。
だが、池田大作の鑑識眼は小金貸しの域を出ないことは、自ら選り集めた富士美術館の自慢のコレクションの実に七割以上がニセモノだった、というデータを見れば明らかである。
成り上がり者には手の届かぬのが、美術品の世界である。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p108-9)
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無能でえげつないくせに綺麗事で取り繕い文化人を気取る(1)
池田大作は、こうした、実にえげつない手段と能力、作法でのし上がって来たにもかかわらず、これを極力隠し、文学者、芸術家、文化人を気取り、演出の限りを尽くす。
昭和四十年、池田大作は富士短期大学に入学し、二年間在学したことになっている。だが、受講もせず、卒業試験も受けず、卒業論文を提出するだけで卒業の資格を与えられた。こんなことを許した大学側もいい加減なものだが、金の力でこんなインチキをして“短大卒”の経歴を買った池田大作もペテン師と言われても仕方あるまい。そして、その卒業論文も、池田大作が自分で書いたものではなく、すべて、桐村泰次氏(東大卒。原島嵩氏とともに池田大作のゴーストライターを務める。副会長)が代作したものである。太作が大作になり、大作が代作で大学卒の資格を取るなんて、これまた下手な洒落のような話である。
池田大作は、『小説人間革命』を始め、おびただしい著作をこなし、また、数々の講演を行ってきた。全部、代作だが、彼はそれを、あくまで自分が自ら書いたように見せるため、原稿用紙に書き、そのコピーを幹部に配った。
だが、『小説人間革命』は、篠原善太郎氏(東大卒。戦前、河田清のペンネームで小説を書いたことがある。学会総務、外郭会社・東西哲学書院社長。同社は、東京・信濃町近辺や全国の学会会館近くにレストラン、寿司屋、書店のチェーン店を展開している学会外郭の最大手の一つ)の完全代筆であり、その他の著作、講演も、すべて“特別書籍”と呼ばれるゴーストライター群の代作である。
特別書籍は、原島嵩氏をキャップに、上田雅一(慶大卒、副会長)、桐村泰次(前出)、野崎勲(京大卒、同)、石黒東洋(東工大卒)、細谷昭(一橋大卒、副会長)らで編成され、文字通り「池田大作著作工房」であった。その後、原島嵩氏は造反したし、人の出入りはあったが、代作師団は今も健在である。(続く)
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無能でえげつないくせに綺麗事で取り繕い文化人を気取る(2)
“潮”や“第三文明”などに掲載する文化人、学者との対談も、すべてゴーストライターの手に依るものである。トインビー博士との対談も、同様にして作られた。池田大作は相手と会って食事したり雑談し、写真を撮るだけである。
こんな池田大作の虚像作りに協力している学者や文化人の意地汚さは、もって知るべしであろう。
池田大作は、写真機を持ち歩き、手当たり次第シャッターを切る。そして“池田大作撮影による写真展”なるものを各地で開いてきた。
だが、池田が写真機を振り回すとき、側に聖教新聞のプロのカメラマンが必ずついていて、写真を撮りまくる。その写真が“池田大作の写真”として公表されるのである。写真も代作である。
かつて、池田大作の写真がもてはやされ始めた頃、私は「先生はどこで、あの素晴らしい写真や美術の感覚を身につけられたのですか。子供の頃から、絵がお上手だったのですか」と尋ねた。
少し機嫌の悪かった池田大作は、ジロリと睨んで「小学校の時、タンク(戦車)の絵を描いたら、女の先生が『池田君、タワシの絵なんか描いてどうするの』と言った。それ以来、絵は描かぬことに決めた」と吐き捨てるように言ってから「歯の浮くようなお世辞は、君には似合わんよ」と言った。
この時だけは、池田大作を少し好きになったものだ。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p109-12)
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すべては異常なコンプレックスの裏返し
池田大作の振る舞いはコンプレックスの裏返しである。
子供の頃の貧乏が金への執着となり、上流への憧れが、インテリタイプの女性への手当たり次第のお手つき行為となった。
下積みの経験が支配欲と化し首脳や幹部に対し事ある毎に忠誠を誓わせ、誓約書を書かせる行為へと走らせる。
食事の際、食べかけのメロンや料理を幹部に下げ渡してジッと様子を見る。
有難くいただけば良いが、私のようにそのまま次へソッと回そうとする奴は、目ざとく見つけて牽制の言葉を掛ける。
実在する自分とその経歴が余りにも醜く、凄まじいからこそ、ことさらに美しく飾り立てようとする。腐っていく死体に香を焚き、化粧するのと同じである。
当たり前の応対に対しても“馬鹿にされた”とひがむ。
異常なコンプレックスの持ち主が、ゴマスリ集団に取り囲まれ歯止めのない自己肥大を続けていくと、池田大作のような人格ができ上がる。そして、そのエゲツない指針を金科玉条として実行する組織が、全体として、卑劣に、なりふり構わぬ自己中心に陥っていくのは、当然の成り行きといえよう。
こうした組織の中で耐えられなくなった人間性の持ち主が、やがて一人、また一人と造反していく。そうした人達に対して池田大作は、恐れと憎しみを込めて「裏切り者!」「恩知らず!」と罵る。“弟子分帳”に記した名前に線を引きながら“地獄に堕ちろ”と呪詛する。そして、自ら無間地獄に落ちて行くのである。
(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p112-3)
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