ルノワール絵画事件は池田大作がノーベル平和賞を取るための資金集めのために行われたものと言われています(十五億円が消えました)。警察との癒着のため、うやむやになっていますが国会で取り上げたら良いと思われます。
いろいろ言われている創価学会員の住民票移動のことですが、それは主に女子部が行っています。女子部なら子供も夫もおらず身軽だからです(結婚すると婦人部となります)。しかし、それを突き止めるのは非常に難しいと思われます。昭和四十年代、五十年代には盛んに行われていました。
男子部はそういうことはしようとしない。そんなことして何になる、と思うものが圧倒的に多い。男子部はクーデターのような激しいことを考える。女子部はクーデターのようなことは考えず、住民票移動などを考える。
「※※青年部とは男子部と女子部を併せたもの。男子部は未婚・既婚を問わず、年齢が四十歳程まで(以前は三十七、八歳で壮年部移行であったが最近は四十歳頃までに伸びてきている。これは男子部の活動家が非常に減少してきているからである。昔は会館の警備をする牙城会、会館で会合が行われるときに車の誘導をする創価班は厳しい面接試験に通ったものが成っていた。しかし現在は牙城会、創価班になるものが居なく、希望者は誰でも成れる。牙城会、創価班になるように男子部では勧誘が行われている。昔は成りたくても牙城会、創価班には成れなかった。そして現在は牙城会は午後九時までの勤務になっている。以前は翌朝までであったが、現在は午後九時から警備会社が行う。徹夜して会館の警備を行う熱心な男子部が居なくなったのである)。女子部は年齢にあまり関係なく未婚者を言う。女子部は結婚すると婦人部と成る。未婚者で婦人部も存在する(これは年齢的なことからである)」
創価学会は総体革命(言うなれば日本の革命のことです)の一環として弁護士、検察官などを多数輩出させています。弁護士の数は日本に五百名を超えています。池田大作が狙う総体革命のためです。池田大作にハイルヒットラーの弁護士が全国に五百名居るとは困ります。日蓮正宗が訴訟を起こそうとも反対的に五百名が全国規模で訴訟を起こされたら参ってしまうため、日蓮正宗は訴訟を起こすことのできない状況にあります。また、訴訟を起こす経済的余裕が日蓮正宗にはありません。創価学会の日本占領計画は進んでいるのです。一人の独裁者に日本は占領されてしまう可能性があるのです。その独裁者は八十二歳を迎えても未だ死にません。
創価学会青年部は「日顕の死」の十時間唱題会(一日に十時間です)を開いていました。そのなかで“うつ病”を発症するのは多かったです。
宜しくお願いします。
自分はホームページを造っています。
http://sky.geocities.jp/mifune008/
「創価学会内部改革派憂創同盟」で検索した方が無難かも知れません。
日本共産党さんしか頼りにできるのは居ないのです。民主党はやる気がないようです。
【余記】
池田大作は、金集めのため、連日、松島家に出入りした。家族同然の付き合いだった。
この間に、松島道子(渡部道子)との関係ができたようである。池田大作が松島家の三畳間で裸身を道子氏にタオルでふかせていたのを会員の小沢よねさんに目撃されたのも、こうした付き合いの最中の出来事であった。文字どおり、色と金の二筋道である。
池田大作の資金集めに協力した縁で本人や家族が後に創価学会幹部に取り立てられた一家は、他にもたくさんある。中には、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで私が負債処理に当たる、といった気の毒な人もいたが……。
金集めもさることながら、取り立てもなかなかのものだったらしい。それこそ、“寝ているフトンをはぐ”ということもあったといわれている。
彼が金貸業でどれほど才覚を発揮したかということは、二十代の若さで通常の給与の百倍近い所得を得て、札ビラを切っていたことからもわかる。
彼は、その金で、女子部員をモノにし、そして、幹部達を従えて秘かに次期会長の座を狙うようになった。
しかしながら、池田大作は後になって、自分にバラ色の人生を与えてくれた金貸業の仕事を人に知られるのを極端に嫌い、隠そうとした。彼は、自分の金貸業手代の頃の話を一度だけ、私にしてくれたことがある。
昭和四十九年十月頃、大石寺対山荘で「今日は飲もう」と珍しく酒を何杯か飲んだ後、水割りを半分ほど飲んだ。池田大作が杯に口をつけたのを、私は三回くらいしか見ていない。(注:これは池田大作が酒を飲めば統合失調症であることが露見するから、人前で酒は飲まないようにしていたのではないかと筆者は邪推する)
その後の雑談の中で、「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」と言った。
ちなみに、戸田は、石田次男氏(石田幸四郎公明党委員長実兄。戸田の後継者と目されていたが、池田大作に冷遇され、死去)には一切そうしたことにタッチさせなかった。戸田は、失敗を犯したのではなくて、池田大作を創価学会の後継者と考えていなかったから金貸業に突っ込んだと見るべきであろう。
(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p107-8 参照)
事業が破綻していたとき、池田大作は朝、戸田先生より様々な学問の講義を受けていたことになっているが、これは極めて疑わしいことである。これは後に創作された「若き日の日記」および「人間革命」に載っているが、池田大作が戸田先生より様々な学問の講義を受けていたと言っているだけであって、戸田先生も誰も証人はいない。「若き日の日記」および「人間革命」は戸田先生の死後、十年ほどして書かれたものであり、創作の可能性は極めて高い。事業に失敗し再建へのどさくさの中、そういう時間を取ることは不可能であろう。
無数の悪鬼の集団
創価学会員は人が良い。これは普通の人なら頭に来るような折伏を受けて「素直に入信した人の集まり」であるからと推測する。また、非常に人が良くないと創価学会の信仰を続けることはとても不可能である。すなわち、人が良くない人はふるいに掛けられるように創価学会から去っていったと推測される。
また、心理学的にも人の良さは遺伝するとされる。親が人が良ければ子供も人が良いのが一般である。「勤行唱題をすると心がスッキリする」とは法華講の人も創価学会の人も以前は共通して言っていた。しかし現在、創価学会はそうは言わない。創価学会のかなりの家庭で御本尊が創価学会製の“魔”の御本尊に換えられたからであろう。
創価学会員も法華講員も顕正会員も元気である。日蓮宗一般に元気になるようである。見延派も日蓮正宗ほどではないが元気になると言うことである。ところが同じ南無妙法蓮華経と唱える新興仏教(立正校正会や000)は元気にならないらしい。日蓮宗でないと元気になれないようである。
特に臨床心理学において創価学会員の精神疾患の難治性は知れ渡っている。普通なら軽くなるはず、良くなるはずの病態がなかなか良くならない。これは池田大作が招き入れた無数の悪鬼の集団によるものと思われる。他に説明の方法がない。
創価学会員は難治性である故にある臨床心理療法所では患者の75%が創価学会員である。創価学会員でない人は治ってゆくが創価学会員はなかなか治らない。それ故に患者に占める創価学会員の割合が75%という高い数字になっている。こういう臨床心理療法所が日本中に多数存在する。「精神疾患は一度罹患すると一生」とも言われるように難治である。精神薬理学の進歩は遅々としたものである。第一、精神疾患が何なのか解らないのが精神医学の現状である。創価学会に入っているときに精神疾患に罹患し、途中で創価学会を辞めた人も治らずに苦しみ続けている。
池田大作の死とともに激しい池田大作批判が起こらないことには、それら無数の悪鬼は現また元創価学会員から去ってゆかないであろう。創価学会員は苦しみ続けることになる。それともそれら精神疾患に苦しんでいる人が「池田大作を強く激しく否定すること」なのか? 法華講に移ることか? しかし狂信的な創価学会員は法華講には移らない。何か画期的な方法が発見されない限り救われない。
「池田大作を強く激しく否定すること」ではなかろうか?
論文集
戸田先生の遺言
創価学会内部改革派憂創同盟残党
【はじめに】
戸田先生は偉大な指導者であったことに異論を言う者は少ない。創価学会の人でなくても、二代目の戸田会長は素晴らしい人物であった、と言う人は極めて多い。では何故、戸田先生は池田大作を除名にせず、重用していたのか? これが謎である。
戸田先生は池田大作の魔性を見抜いており、戸田先生は、遺言状に池田大作除名を書いた。しかし戸田先生の家に御遺品を取りにトラック二台で行ったとき遺言状も奪ってきた、と推論することもできる。戸田先生が池田大作の魔性を見抜けなかったはずがない。
【考察】
戸田先生は突然死されたのではない。アルコール中毒による腎障害と糖尿病で亡くなられたのである。遺言状を書く時間は十分にあった。しかし、アルコール中毒のために判断能力が低下していた可能性も考えられる。
また、戸田先生は神様ではない。池田大作の魔性を見抜けなかったとしても不思議はない。
戸田先生は性格が非常に豪放磊落であった。見抜いていたとしてもそれを寛大に許していたという可能性も高い。
また、事業が倒産の危機の時、池田大作が暴力団で身につけた動物的なカンでお金を集め、高利貸し業で戸田先生の事業の危機を救ったということがなければ、戸田先生は早く池田大作を放出していただろう。池田大作を重用すると言うことはなかったであろう。
戸田先生が亡くなられる前、「次の会長は誰にするんですか?」との問いに「それは、お前たちが決めるんだ」と言われた(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道、2002)が、戸田先生は池田大作が選ばれることは想定外だったのではないのか? 戸田先生はみんなが石田次男氏を次期会長にすると甘く考えていたのではないのか? 戸田先生は神様ではない。性格が非常に豪放磊落であった。そのように甘く考えていた可能性は高い。
戸田先生が亡くなって直ぐに池田大作がこういう行動に出たのは、池田大作は妄想性パーソナリティ障害 (Paranoid Personality Disorder)であったため、戸田先生を疑ったためと考えられる。池田大作は若い頃から非常に疑い深い性格だったことは藤原行正氏の本(池田大作の素顔:講談社)にも書かれてある。
その疑い深い性格が彼を成功へと導いたのである。戸田先生の遺書が有ったのか無かったのかは今になっては解らない。遺言が有って、それを池田大作が捻り潰した可能性は充分に高い。
池田大作は戸田先生の家に着くと、玄関の鍵を開けに来た家人に挨拶をすることもなく誰よりも早く戸田先生の家に入った。目ざとく戸田先生の遺書を仏壇の前に発見すると、それを内ポケットに入れた。誰も見ていなかった。
やがてトラックで来た仲間が入ってきた。戸田先生の遺品を学会本部へ持ってゆくことに参加したのは未だ若い男子部の四人だった。池田大作は「これを持ってゆけ。これは要らない。これを持ってゆけ」と指示をすることが主だった。
その日、家に帰り、戸田先生の遺書を開いた。やはり池田大作除名が書かれてあった。遺書の内容は池田大作除名が全てと言っても良かった。非常に短い遺書であった。
池田大作には危険を感じ取る動物的なカンがあり、そのカンで今まで何度となく危険を救われてきた。
「これで第三代会長は俺のものだ、これで第三代会長は俺のものだ」と池田大作は微笑んだ。
(未完)
池田大作の生涯
創価学会内部改革派憂創同盟残党
【はじめに】
私は以前、池田大作は広宣流布を頓挫させるためにこの世に生を受けた、と書いた。
「第六天の魔王 智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王 我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」(最蓮房御返事)―――これが該当する可能性は無い。
池田大作は単なる俗物であり、創価学会に入り戸田城聖氏のもとへ就職したことが偶然の幸いとなり、劣等感に根ざした極めて強い権力志向が、お人好しの極めて多かった創価学会に於いてライバルを蹴落とし、創価学会の会長となり、栄華を極めた、と考えるのが適切な説と思う。
池田大作の人生を幼少時より書いてゆく。
【幼少時代】
池田大作は零細な海苔製造業者のである池田子之吉(ねのきち)、妻一(イチ)の五男として昭和三年一月二日、東京都荏原(えばら)郡入新井町大字不入斗(いりやまず、現・品川区)に生まれた。男女併せて十人の兄弟がいた。
昭和六十年前後の状況を山崎正友氏が(懺悔の告発:日新報道:1994)に書かれている。
長男 喜一 ビルマにて戦死
長女 とよ子 国立第一病院看護婦
次男 増雄 大衆食堂経営、家を継ぐ
三男 小宮開造 阿部商会(外車ディ-ラー)役員、死亡
四男 清信 三洋工業、学会幹部
五男 大作 本人
六男 栄一 トビ職
七男 隆一 東和工業
八男 正利
次女 いね子 東芝社員の妻
これを見ると、明らかに学会員であるのは一つ上の兄のみである。
山崎正友氏が池田大作の家系を調べたところに依ると、数代先まで東京湾でノリ採集や漁師をしていた、という。
インターネットでは池田大作が在日朝鮮人という論が強い。しかし、山崎正友氏は在日朝鮮人ということは全く言及されていない。
しかし、小学生時代に病床の父から韓国語を教わっており韓国語が堪能であるとインターネットでは言われている。
池田大作の少年時代は、同級生や教師などの証言に依れば、貧しい、女好きの、子だくさんの海苔屋の五男で、特徴もなく、一生懸命勉強しても中位の成績の、目立たない少年だった。
後年、創価学会の会長になったと聞いて、誰もが驚いたという。
二十五歳(昭和三年生まれであるから昭和二十八年)までは池田太作(タサク)が本名であったが、二十五歳の時、正式に戸籍上、池田大作に名前を変更している。戸田城聖氏や池田大作の奥さんのように勝手に名前を変えることはできる。しかし戸籍の名前を変えることは家庭裁判所が認めたときのみである(少なくとも以前はそうであった。現在は在日外国人のことで簡単に変えられるようになったようである)。戸籍の名前を変えることはそれほど困難なものであった。池田大作は潜在性統合失調症であるため、その誇大妄想と被害妄想により凄まじい執念で戸籍の名前をも変えた。池田大作の当時の給料は一般人の百倍近くであったと言われる故、その有り余るお金で買収したとも考えられる。この戸籍の名前を変えることができたことは一つの謎(調査中)と山崎正友氏は書かれている。
【青年期】
池田太作は戦後の混乱期、定職にも就かずブラブラしていたが川崎市から大田区を縄張りとする暴力団の手先となって貸し金の取り立てなどを手伝っていたらしい(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p105 )。
この頃、学校時代の友人であるMという女性に誘われて座談会に参加し、御本尊を渡される。このとき「人間革命」に書いてある戸田城聖氏との劇的な出会いはない。戸田城聖氏との劇的な出会いに詩を詠んだということはない。それは「人間革命」の本当の作者である篠原善太郎氏(東大卒。戦前、河田清のペンネームで小説を書いたことがある。小説家志望だった。学会総務。外郭会社・東西哲学書院社長。同社は信濃町近辺や全国の学会会館近くにレストラン、寿司屋、書店のチェーン店を展開している学会外郭の最大手の一つだった。既に亡くなっている。竹入義勝氏とともに長野県の日蓮正宗法華講の古くからの剛信な一族出身。)が池田大作より命令され創作したものである。
次のように書かれている。
「学校時代の友人に誘われて創価学会本部へ行きました。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしょうか。五時間ぐらいそこで締め上げられたのです。
南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で敗れて信仰しなければならないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない」(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p71-2)
「それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。
家に持ち帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴り、私の上でゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二解の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長(小平芳平のこと)から折伏されたんですよ」(S32・10・18付聖教)
以来、肺病を患っていた池田太作は肺病を治すためもあり、熱心に信仰を始めた。勤行唱題の声が喧しいと大家さんから注意されるほどであった。
池田太作はそして幾つかの事業を行っていた戸田城聖氏の処へ就職の面接に行く。戸田城聖氏は金を貯めている学会員から借り入れて手形割引などで他の学会員に高利で貸す金融業「大蔵商事」も営んでいた。戸田城聖氏は池田太作の借金取り立ての経験に目を付け採用する。
この金融業で池田太作は経験と才能を発揮する。金を貯め込んでいる学会員の家を当てるのが非常に巧かった。戸田城聖氏の傾きかけていた事業を再起させたのは池田太作の金融業での経験と才能だった。取り立ても厳しく、病気で寝ている老人の布団を剥いで持って帰ることもあったという逸話もある。
大蔵商事で池田太作は営業部長として辣腕を振るい、池田太作の給料はそのため当時の平均給料の百倍近くであった(ここの給料は歩合制であった)。この金で池田太作は女子部員をものにし、また、幹部達に金を振る舞い、次期会長を狙うべく人脈作りを行ったらしい。(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994)
「人間革命」の「この冬もオーバーコートなしで過ごさねばならない」ということは嘘である。
この金融業の時代に池田太作は毎日のように金集めのため松島勇氏の家に出入りする。松島勇氏は埼玉県大宮市の国鉄機関車区に勤めており池田太作の依頼に基づいて仲間の国鉄職員から貸し金を集め、池田太作のドル箱であった。そのため池田太作は毎日のように松島家に出入りした。家族同然の付き合いだったと言われる。「月刊ペン事件」で有名な、松島家の三畳間で裸身を松島道子にタオルで拭かせていたのを学会員の小沢よねさんに目撃されたのはこの頃のことである。
松島道子は後に参議院議員になった。夫となった松島一郎は衆議院議員になった。松島道子と池田太作との関係は二人(松島一郎と松島道子)の結婚後も続き、そのためその夫婦の間は冷え切っていた。松島一郎は妻の不倫に気付いていながらも黙認を仕方なくされ、その黙認したことにより衆議院議員に池田大作より推薦されることができた。
松島道子の姉が池田大作批判の急先鋒である藤原行成氏の妻である。池田大作は松島道子の姉にも手を出そうとした。しかし手を出すことができず、池田大作は松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐め続けることになる。松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐めることに実の妹である松島道子が手助けをしていた。
松島家以外にも戸田城聖氏の金融業の資金集めに協力した故に後に創価学会幹部に取り立てられた一家は他にもたくさんあり、そのなかには、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで山崎正友氏が負債処理に当たった処もあったという。
池田大作がこの戸田城聖氏の元で行っていた金融業は現代のサラ金と同じものであった。「人間革命」にはそのことが解らないように脚色されてある。
池田大作は昭和四十九年、大石寺大山荘に於いて山崎正友氏と酒を飲んでの雑談の時、「戸田先生の唯一の失敗は私に金貸しのような汚い仕事をやらせたことだ。俺なら後継者の人生経歴をそんなことで傷つけたりしない」と言った。戸田城聖氏は池田大作を創価学会の後継者とは考えていなかったから金貸し業に突っ込んだと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p107-8)
また、池田大作は「資金繰りが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだあれがしたあ』(当時流行していた歌謡曲“星の流れに”の替え歌)と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」と思い出話を語ったと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p108)
この大蔵商事は学会首脳が働いていたが、昭和三十五年の池田大作の会長就任とともに学会首脳は退き、以降は戸田城聖氏の妾であった森重紀美子とその甥らが経営したが、脱税摘発や貸金こげつきで事実上、倒産する。その後、大同商事と社名を変え、昭和四十七年頃から中西治雄氏が関わり、創価学会の建物の火災保険、学会員や学会本部関係の物品販売、大石寺土産物取扱い、学会員相手の高利貸し、などを行う。
昭和三十二年の大阪事件に於いて臆病な池田大作は卑怯にも警察に全てのことを話している(すでにこのとき池田大作は堕落していた)。つまり仲間を売っている。そのために池田は早期に釈放されたし無罪になった。大阪事件では何十人もの創価学会員が有罪になり、創価学会は有罪になった人たちを全員、除名にした。この大阪事件の判決は昭和三十七年であった。
【会長就任後】
池田大作は特別書籍と呼ばれるゴーストライター軍団を会長室の上の階に設置し、自らの著作および講演原稿を作らせるようになった。責任者は原島嵩氏で、その下に、上田雅一(慶大卒、副会長)、桐村泰次(東大卒、副会長)、野崎勲(京大卒、副会長)、石黒東洋(東工大卒)、細谷昭(一橋大卒、副会長)らで編成されていた。このゴーストライター軍団は原島嵩氏が抜けたりメンバーこそ多少替わったものの現在(平成二十二年)も健在である。
“潮”や“第三文明”などに掲載する文化人、学者との対談も、すべてゴーストライター軍団に依るものである。トインビー博士との対談も、同様にして作られた。池田大作は相手と会って食事したり雑談し、写真を撮るだけである。
昭和四十九年から翌年にかけて「月刊ペン」誌上で編集長である渡部大蔵氏が創価学会批判を行ったが、それは池田大作の女性関係にまで及んでいた。この池田大作の女性関係は真実であり、創価学会側は笹川陽平氏(笹川良一氏の三男、船舶振興会理事長)に相談し、二千万円を渡部大蔵氏の弁護士に渡し買収に成功した。しかし渡部大蔵氏はどのように金額を積んでも頑なに拒否した。そして裁判は弁護士から裏切られた渡部大蔵氏の執行猶予付きの懲役刑となった。
渡部大蔵氏はこの裁判を不服として上訴中、病に倒れ死亡した。しかし渡部大蔵氏の死後、藤原行正氏などの造反が起こり、彼らが証言台に立ち、池田大作の女性関係が真実であることが裁判に於いて立証された。
この女性関係は凄まじく、日本全国だけで二十名を超えていたという。一部を書くと、公明党の衆議院議員となった二人の女性は池田大作の愛人であった。
全国各地にある学会施設には池田専用の極めて豪華な部屋へついて昭和五十二年、民社党の春日一幸氏から竹入委員長宛に一通の手紙が届いた。このことを国会に於いて追求するという内容であった。九州の霧島では国立公園の真ん中に法律を無視して施設を造っていた。これは愛知県渥美半島、北海道、広島でも同じようであった。広島では税務署が池田大作の豪華設備について「宗教と関係ないから課税する」と言ってきていた。急遽、これら池田専用の極めて豪華な設備を解体する作業が行われた(この解体作業に費やした費用も莫大であった)。結局、創価学会が「選挙で票をよこす(公民選挙協力)」と約束し、民社党は追及を行わなかった。
(未完)
【研究と報告】
大阪池田小事件と宅間守と創価学会*
創価学会内部改革派憂創同盟残党**
【key words】Ikeda elementary school, Spree killer, Psychopathie, Mamoru takuma, Soka-gakkai
【はじめに】
大阪池田小事件(2001年6月8日)
この事件もスプリー殺人の典型的事例とされている。出刃包丁を持った男1名(宅間守・当時37歳)が、2時限目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎころ、自動車専用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室などにおいて、児童8人を刺殺し、児童や教員10数人を傷害した。2003年8月28日に大阪地裁は死刑を言い渡した。死刑確定から1年未満の2004年9月14日、執行された。(犯罪学雑誌:第74巻、第6号:2008)
【生活歴】
宅間守は刑務所入所と精神病院措置入院を繰り返していた。精神病院には中学生時代から強姦事件を繰り返し起こしたため、通院薬物療法及び精神療法を受けていた。そして父親と極めて不仲であった。両親は熱心な創価学会員であった。
高校を中退した後、いつもの激しい暴力を伴った強姦事件を起こす。この強姦事件では被害者に告訴される。宅間守は精神病院を受診し、統合失調症の診断を受け、閉鎖病棟に入院させられ、いつ退院できるか分からない状況に陥った。抗精神病薬の投与量は大量であった。
統合失調症ではない普通の人間ならば少量の抗精神病薬の投与によっても激しい倦怠感のため、長時間、横になってしまうものである。抗精神病薬はベンゾジアゼピン系抗不安薬と異なり耐性は付きにくい。いつまでも抗精神病薬の副作用に苦しむはずである。
ところが統合失調症の患者は普通の人間が服用すると半日は仕事できないような激しい倦怠感に襲われるにも拘わらず、ほとんど平気である。それどころか幻聴や妄想が無くなり、却って明るく元気となる。ここで統合失調症との確定診断がつくものである。これは脳内ドーパミン系などの過活動が正常化されるためと説明されている。
宅間守は抗精神病薬の副作用にあまり苦しまなかったことを考えると統合失調症であったことの証明になる。少なくとも脳内ドーパミン系などの過活動がそのときには存在したことの証明になる。
この入院中、宅間守は五階屋上から飛び降り自殺を図る。しかし奇跡的に下顎骨骨折と上顎骨骨折のみであった。
池田小事件の検察官は、この入院中のエピソードを強姦罪による逮捕・有罪判決を逃れるために精神病者を装ったもの、すなわち詐病で、飛び降りも自殺目的ではなく、病院からの脱走目的としている。しかし、当時のカルテにも、その後の診断書にも宅間守の病名が一貫して統合失調症と記載されていること、実際に強力な抗精神病薬が投与されていたこと、精神科医を騙して統合失調症の診断名を得ることは不可能であることを考えると、詐病ではない。実際に、少なくとも当時、統合失調症の症状を呈していたことは確実である。
そして宅間守は先の激しい暴力を伴った強姦により3年間、奈良少年刑務所に服役している。初犯で、初めての服役であるにも拘わらず、仮釈放の恩恵も受けず満期出所であったことは、入所中の行状がよほど芳しくなかったか、言葉の上だけでも改悛の情を示さなかったことを意味すると思われる。また、この服役期間中に宅間守は両親に金銭的な要求をし、父親によって勘当された。
宅間守は1999年に小学校教諭4人にお茶に精神安定剤を混入させた事件で措置入院になっていた。このときは統合失調症に罹患していて心神耗弱状態とされたため、不起訴処分になっている。
そしてこの措置入院は39日とあまりにも短く終わっている。精神病院といえども、あまりに凶暴な性格の宅間守を入院させておくことが困難であったのであろう。退院時の診断名は統合失調症ではなく妄想性人格障害と変わっていた。また、この39日間の入院中に兄が自殺していた。享年42歳であった。
退院より半年後、精神障害者保健福祉手帳の交付を申請し二級の手帳を取得している。
宅間守は性格が極めて粗暴であり、職場でもトラブルを頻繁に起こし、転職を繰り返していた。離婚も3回し、4回目の妻も宅間の暴力と金をせびる習癖に耐えかねて5ヶ月後には離婚した。すなわち宅間守は離婚を4回したことになる。
1999年の措置入院の後、宅間守は精神病院への任意入院(自ら望んでの入院)を三回繰り返していた。そして四回目の任意入院を予約している間に、池田小事件を起こした。
池田小事件の起こった2001年には、司法書士の学校に通ったり、訴訟を起こしたり、精神科医の偽の名刺を作ってお見合いパーティーなどでナンパを繰り返したり、数週間家に引き籠もって飲まず食わずの生活を送り、何回か精神科病院に短期間入院したり、ソーシャルワーカーにSOSの電話をしたり、その間に数回の自殺未遂を繰り返したりしていた。このように軽躁状態と鬱状態の両面が現れていた。
宅間守は統合失調症、妄想性人格障害、反社会性人格障害、境界性人格障害などの合併であると考えられる。精神鑑定に於いて一つの病名を示すようになっていることは精神医学を知らない裁判官の無知である。精神疾患は合併することが多いものである。宅間守はその他に気分障害(双極性障害)、不安障害、向精神薬依存症も合併していたと考えられる。
【創価学会との関係】
雑誌に載っていた宅間守の部屋の中央に御厨子が置かれており扉が開いていて中の御本尊が写真に写っていた。この御本尊は日顕上人の御本尊であり、当時は創価学会が宗門より破門され、創価学会独自の御本尊を配布され初めて数年が経っており、創価学会は日顕上人の御本尊の回収と創価学会独自の御本尊の配布をほぼ終了していた。
日顕上人の御本尊が宅間守の部屋の中央にある御厨子に懸かっていることより山崎正友氏は法華講員または妙観講員であることを疑い本山に問い合わせた。しかし(創価学会・公明党の犯罪白書:山崎正友:第三書館:2001:p39)において「本山の名簿に宅間守の名は載っていなかった」と書かれている。山崎正友氏は日達上人と非常に親しく、本山(宗門)に非常に近い存在であり、法華講総講頭(法華講で最も高い位)にまでなった人物である。本山に宅間守が法華講員または妙観講員かどうかを非常に詳しく調べさせたと推測される。本山は宅間守のことについて間違いの無いように綿密に調べたことは確実である。
宅間守のような極めて粗暴な性格の者には創価学会員であっても「決して近づくな!創価学会員と見なすな!創価学会に大変な迷惑がかかる!実質上、創価学会員ではないと見なせ!」と内部伝達され、放置されるものである(誰見境なく折伏することが昔は多かったため、こういう学会員は多いのである)。御本尊が日顕上人のものであったことは放置されていたからである。
御厨子が開かれていたままだったということは、宅間が勤行唱題中に祈祷性精神病すなわち急性精神病状態に陥り、御厨子を閉める余裕無く、車に乗り大阪池田小へ向かったと推定される。普通、勤行唱題が終わると御厨子は閉めるものである。(筆者注:一般の人は御厨子は普通は閉めておくものという認識がないため、宅間守が勤行唱題中に祈祷性精神病すなわち急性精神病状態に陥ったという意見は未だ全く見られない。数多い宅間守についての論文に於いて、このことに言及しているものはない)
御本尊は日顕上人のものであったが、創価学会は破門されてから数年経過していた。両親は熱心な創価学会員である。そのため宅間守は勤行唱題中に祈祷性精神病すなわち急性精神病状態に陥ったものと推測される。
死刑の判決を受けたとき「池田先生、バンザーイ!」と叫んだことは有名である。宅間守は生活の苦しさと遣り場のない苦しさから創価学会の信仰を熱心に行っていたと思われる。それは部屋の中央に御厨子が扉を開けて置かれていたことからも推察される。
ただ、性格の余りもの凶暴さと強姦などの犯罪を繰り返し刑務所と精神病院措置入院を繰り返していることから、創価学会員は創価学会の幹部より創価学会に迷惑をかける要注意人物として接触を禁止されていたと推定される。
宅間はインターネットにて創価学会を誹謗中傷していたということであるが、妄想性人格障害と診断されていることからも創価学会員から接触を拒否されていることを強く恨みに持ち、または統合失調症の被害妄想のために、また熱心な創価学会員である父親への憎しみのため、インターネットにて創価学会を誹謗していたと思われる。
【おわりに】
宅間は小学生の時に大阪教育大付属池田中学への進学を望んだが母親がお金を出してくれないため断念した。
「家庭が安定し、恵まれ、勉強できた人間でも、アホで大怪我して展望のない腐り切った自分のようなおっさんに、たかだか5~6秒で刺されて死ぬ。そんな不条理さを分からせてやりたかった。いくら勉強ができようが、いつ死ぬかわからんのが人生。世の中、勉強だけじゃちゃうぞ、と一撃を与えたかった」「そこらの子を殺すより、裕福で頭のええ、将来有望な人間を殺す方が自己満足がある」と宅間は公判で述べている。
【文献】
1)岡田尊司:自尊心を求めるH・コフートの自己愛の発達理論とS・フロイトの病的なナルシシズム:医学書院、1994
2)岡田尊司:パーソナリティー障害、PHP新書、東京、2001
3)岡田尊司:人格障害の時代:平凡社新書:2004
4)岡田尊司:パーソナリティー障害がわかる本:株式会社法研:2008
5)笠原嘉:精神病、岩波書店、東京、1998
6)松下正明:新世紀の精神科治療(5)、現代医療文化の中の人格障害:中山書店、東京、2002
7)福島章:犯罪精神医学入門:中公新書:2005
8) 福島章:精神鑑定 脳から心を読む:講談社:2006
9) 岩波明:精神障害者をどう裁くか:光文社新書:2009
10)中谷陽二:精神鑑定の事件史:中公新書:1997
11) 伊東高麗夫:病跡学とオカルト:勁草書房:1980
12) 中安信夫:初期分裂病/補稿:星和書店:1996
13) E.クレッチュマー:天才の心理学:岩波書店:1981
14) DSM-�-TR、精神疾患の分類と診断の手引き:医学書院、東京、2007
*An incident Ikeda elementary school, Mamoru takuma, and Soka-gakkai
**どんぐり病院(〒000-0000 どんぐり市どんぐり町000-00)
Toshiro MIFUNE:000 psychiarty, 00000, 00000, JAPAN .
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(第3章終了)
第4章 隠れ法華講への道
隠れ法華講への道
お寺には週一回行くのみである。家には創価学会の“魔”の御本尊のため家では遙拝勤行しかできない。勤行唱題も家人に隠れてであるから時間が限られている。
その代わり、創価学会内部改革派憂創同盟の活動を盛んに行おうと思っている。創価学会内部改革派憂創同盟の活動が成功すると大部分の創価学会員を宗門に帰すことができる。そして大部分の創価学会員を幸せにすることができる。
生命力がない。元気がない。しかし“魔”の御本尊に祈っても生命力や元気は暗示的にしか強くはならないで居た。実家の日達上人の御本尊に祈りたい。実家の日達上人の御本尊に勤行唱題すると目は輝き、元気一杯になる。
この前、実家の仏間に飾っていた池田大作の写真入り額縁を取り払った。この前、悪いことは起こらなかった。額縁を取り払ったのが奏功したのだろう。それまでは実家で日達上人の御本尊に勤行唱題すると何故か不思議と悪いことが続けて起こった。
近年、創価学会員が勤行唱題をあまり行わなくなったのは御本尊が“魔”の御本尊に変わったため、勤行唱題しても生命の歓喜を覚えなくなったためと思われる。そのために勤行は朝夕一座ずつと創価学会は変わった。以前は朝五座、夕三座だった。しかも二座の長行はそれだけでも10分は掛かり大変だった。“魔”の御本尊でなかったから勤行唱題中の生命の歓喜は強く、自然と勤行唱題を長くしていた。今は勤行唱題しても余り生命の歓喜を覚えなくなったため、みんな勤行唱題を長時間は行わなくなったのだ。
「直結信仰」が悪いことを原島嵩氏は(絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007、p170)にて書かれている。
『第二祖日興上人は「佐渡国法華講衆」へのお手紙のなかで「誰々が日蓮聖人の直の弟子であるという輩がいるが、これは無間地獄におちる大謗法です」(趣旨)とご教示されており。「直結信仰」を厳しく否定されておられるのです。』
『さらに創価学会は日蓮正宗の血脈を否定している、これも大謗法です。』
現在の創価学会は日蓮大聖人直結信仰である。そして日蓮正宗の代々の血脈を否定している。代々の血脈否定とは御法主上人否定のことである。これは御本尊否定にも繋がる。
そして原島嵩氏は法華講員となっている現在、毎日が楽しく法悦に包まれていることを著書「絶望の淵から蘇る」に書かれている。現在、創価学会には法悦(生きている一瞬一瞬が歓喜となる)が無くなりかけている。日達上人様の御本尊に勤行唱題すると法悦に包まれるが、平成五年から配布された創価学会製造の“魔”の御本尊に祈っても法悦は感じられない。創価学会員が勤行唱題を長時間は行おうとはしなくなった一つの大きな原因がこれであると確信する。そして創価学会製造の“魔”の御本尊に祈ると驚くような悪い偶然が起こる。その悪い偶然の起こる確率は非常に低いが起こってしまう。それが立て続けに起こってしまう。これではとても創価学会の信仰を続けることはできない。筆者は職場を解雇になる寸前に気付いた。
今、自分は落ち着いている。創価学会員である間は(今も正式には脱会していなく、隠れ法華講員である。妻の一族が狂信的な創価学会のため退会届は出すことができない)常にソワソワしていた。落ち着くように言われても落ち着けない。そのため精神科の薬を常用していたほどだ。今は全く服用なしで落ち着くことができている。創価学会病であったわけである。
創価学会病は多い。精神科外来に来る患者さんの多くが創価学会員である。隠していても自分のように慣れたら分かるものである。自分は幼い頃から創価学会の信仰をしてきた。たくさんの創価学会員と接してきた。そのため患者さんの言動、表情、そして雰囲気とカンなどから解るのである。
また、反創価学会になるまでは気合いを入れるため三色旗のボールペンを常に胸のポケットに刺していた。患者さんから「先生は創価学会ですか?」と言われることが多かった。
創価学会は中枢部があまりに穢れすぎていた。末端は純粋だった。一部だけが穢れていた。中枢部は思い上がり甚だしい(増上慢)池田大作によって穢れ果てされていた。創価学会の穢れは、池田大作一人によってもたらされた。池田大作が創価学会の全てを支配し破壊した。純粋な信徒団体だった創価学会を穢れきった信徒団体にした。そして創価学会自ら独立の道を選択し、宗門より独立していった。それは全てを支配するという池田大作の野望だった。
戸田会長は「創価学会が御宗門にたてつくようになれば、すぐに解散させてください」と時の御法主上人に常々申されていた。
また「広宣流布の暁には創価学会を解散させて、ぜんぶ法華講につける」と遺言されていた。
一般の創価学会員は池田大作の悪行をほとんど知らない。全く知らないと言っても過言ではない。聖教新聞は池田大作を神のように誉め称える記事で満ちている。それは月刊誌「大百蓮華」も同じである。週刊誌「創価新報」は宗門を中傷する汚い偽りの記事で溢れている。そういうもののみ創価学会員は読んでいるのである。
池田大作は自分を神のように讃える幹部のみを優遇してきたし、批判的な幹部は遠去けられてきた。創価学会は池田王国なのである。創価学会本部は池田大作を神様のように崇めていないと居着かれない魔窟なのである。
池田大作(創価学会)を信じるものは低脳か余程のお人好しとしか思われない。同時放送での態度、言動を見れば池田大作のあまりもの傲慢さに呆れ返るのが普通である。それに気付かないのは低脳か余程のお人好しになる。
池田大作の目が成り上がりの独裁者の目をしていることを気付かなければならない。独裁者は常に反逆に怯えている。竹入義勝氏への狂気の机でんでん叩きを繰り返した45分間のスピーチもそれに由来している。
創価学会員は一般に非常に人が良い。創価学会員以外は(日蓮正宗信徒以外は)信じることができないほどである。友達になりたいと思わないほどである。付き合いたいと思わないからである。それほど人が良いから激しい折伏にも怒らずに素直に入信したのであろうし(その人でなくその人の親のことが多い。今は二世三世が多い。人の良さは遺伝する。)信仰を続けているのである。一部の創価学会員が欲深くて良くない。その人たちが創価学会の評判を下げていると言っても過言でないかもしれない。そして池田大作が一番、創価学会の評判を下げている。
池田大作が亡くなると創価学会の評判は良くなってゆくであろう。しかし自分は創価学会が大きく方向転換をしない限り(信徒団体として宗門に戻らない限り)創価学会を辞め、法華講に入る予定である。(注:書いている時期が様々であるため、こうなってしまうことをお詫びしたい)
いろいろ言われている創価学会員の住民票移動のことですが、それは主に女子部が行っています。女子部なら子供も夫もおらず身軽だからです(結婚すると婦人部となります)。しかし、それを突き止めるのは非常に難しいと思われます。昭和四十年代、五十年代には盛んに行われていました。
男子部はそういうことはしようとしない。そんなことして何になる、と思うものが圧倒的に多い。男子部はクーデターのような激しいことを考える。女子部はクーデターのようなことは考えず、住民票移動などを考える。
「※※青年部とは男子部と女子部を併せたもの。男子部は未婚・既婚を問わず、年齢が四十歳程まで(以前は三十七、八歳で壮年部移行であったが最近は四十歳頃までに伸びてきている。これは男子部の活動家が非常に減少してきているからである。昔は会館の警備をする牙城会、会館で会合が行われるときに車の誘導をする創価班は厳しい面接試験に通ったものが成っていた。しかし現在は牙城会、創価班になるものが居なく、希望者は誰でも成れる。牙城会、創価班になるように男子部では勧誘が行われている。昔は成りたくても牙城会、創価班には成れなかった。そして現在は牙城会は午後九時までの勤務になっている。以前は翌朝までであったが、現在は午後九時から警備会社が行う。徹夜して会館の警備を行う熱心な男子部が居なくなったのである)。女子部は年齢にあまり関係なく未婚者を言う。女子部は結婚すると婦人部と成る。未婚者で婦人部も存在する(これは年齢的なことからである)」
創価学会は総体革命(言うなれば日本の革命のことです)の一環として弁護士、検察官などを多数輩出させています。弁護士の数は日本に五百名を超えています。池田大作が狙う総体革命のためです。池田大作にハイルヒットラーの弁護士が全国に五百名居るとは困ります。日蓮正宗が訴訟を起こそうとも反対的に五百名が全国規模で訴訟を起こされたら参ってしまうため、日蓮正宗は訴訟を起こすことのできない状況にあります。また、訴訟を起こす経済的余裕が日蓮正宗にはありません。創価学会の日本占領計画は進んでいるのです。一人の独裁者に日本は占領されてしまう可能性があるのです。その独裁者は八十二歳を迎えても未だ死にません。
創価学会青年部は「日顕の死」の十時間唱題会(一日に十時間です)を開いていました。そのなかで“うつ病”を発症するのは多かったです。
宜しくお願いします。
自分はホームページを造っています。
http://sky.geocities.jp/mifune008/
「創価学会内部改革派憂創同盟」で検索した方が無難かも知れません。
日本共産党さんしか頼りにできるのは居ないのです。民主党はやる気がないようです。
【余記】
池田大作は、金集めのため、連日、松島家に出入りした。家族同然の付き合いだった。
この間に、松島道子(渡部道子)との関係ができたようである。池田大作が松島家の三畳間で裸身を道子氏にタオルでふかせていたのを会員の小沢よねさんに目撃されたのも、こうした付き合いの最中の出来事であった。文字どおり、色と金の二筋道である。
池田大作の資金集めに協力した縁で本人や家族が後に創価学会幹部に取り立てられた一家は、他にもたくさんある。中には、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで私が負債処理に当たる、といった気の毒な人もいたが……。
金集めもさることながら、取り立てもなかなかのものだったらしい。それこそ、“寝ているフトンをはぐ”ということもあったといわれている。
彼が金貸業でどれほど才覚を発揮したかということは、二十代の若さで通常の給与の百倍近い所得を得て、札ビラを切っていたことからもわかる。
彼は、その金で、女子部員をモノにし、そして、幹部達を従えて秘かに次期会長の座を狙うようになった。
しかしながら、池田大作は後になって、自分にバラ色の人生を与えてくれた金貸業の仕事を人に知られるのを極端に嫌い、隠そうとした。彼は、自分の金貸業手代の頃の話を一度だけ、私にしてくれたことがある。
昭和四十九年十月頃、大石寺対山荘で「今日は飲もう」と珍しく酒を何杯か飲んだ後、水割りを半分ほど飲んだ。池田大作が杯に口をつけたのを、私は三回くらいしか見ていない。(注:これは池田大作が酒を飲めば統合失調症であることが露見するから、人前で酒は飲まないようにしていたのではないかと筆者は邪推する)
その後の雑談の中で、「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」と言った。
ちなみに、戸田は、石田次男氏(石田幸四郎公明党委員長実兄。戸田の後継者と目されていたが、池田大作に冷遇され、死去)には一切そうしたことにタッチさせなかった。戸田は、失敗を犯したのではなくて、池田大作を創価学会の後継者と考えていなかったから金貸業に突っ込んだと見るべきであろう。
(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p107-8 参照)
事業が破綻していたとき、池田大作は朝、戸田先生より様々な学問の講義を受けていたことになっているが、これは極めて疑わしいことである。これは後に創作された「若き日の日記」および「人間革命」に載っているが、池田大作が戸田先生より様々な学問の講義を受けていたと言っているだけであって、戸田先生も誰も証人はいない。「若き日の日記」および「人間革命」は戸田先生の死後、十年ほどして書かれたものであり、創作の可能性は極めて高い。事業に失敗し再建へのどさくさの中、そういう時間を取ることは不可能であろう。
無数の悪鬼の集団
創価学会員は人が良い。これは普通の人なら頭に来るような折伏を受けて「素直に入信した人の集まり」であるからと推測する。また、非常に人が良くないと創価学会の信仰を続けることはとても不可能である。すなわち、人が良くない人はふるいに掛けられるように創価学会から去っていったと推測される。
また、心理学的にも人の良さは遺伝するとされる。親が人が良ければ子供も人が良いのが一般である。「勤行唱題をすると心がスッキリする」とは法華講の人も創価学会の人も以前は共通して言っていた。しかし現在、創価学会はそうは言わない。創価学会のかなりの家庭で御本尊が創価学会製の“魔”の御本尊に換えられたからであろう。
創価学会員も法華講員も顕正会員も元気である。日蓮宗一般に元気になるようである。見延派も日蓮正宗ほどではないが元気になると言うことである。ところが同じ南無妙法蓮華経と唱える新興仏教(立正校正会や000)は元気にならないらしい。日蓮宗でないと元気になれないようである。
特に臨床心理学において創価学会員の精神疾患の難治性は知れ渡っている。普通なら軽くなるはず、良くなるはずの病態がなかなか良くならない。これは池田大作が招き入れた無数の悪鬼の集団によるものと思われる。他に説明の方法がない。
創価学会員は難治性である故にある臨床心理療法所では患者の75%が創価学会員である。創価学会員でない人は治ってゆくが創価学会員はなかなか治らない。それ故に患者に占める創価学会員の割合が75%という高い数字になっている。こういう臨床心理療法所が日本中に多数存在する。「精神疾患は一度罹患すると一生」とも言われるように難治である。精神薬理学の進歩は遅々としたものである。第一、精神疾患が何なのか解らないのが精神医学の現状である。創価学会に入っているときに精神疾患に罹患し、途中で創価学会を辞めた人も治らずに苦しみ続けている。
池田大作の死とともに激しい池田大作批判が起こらないことには、それら無数の悪鬼は現また元創価学会員から去ってゆかないであろう。創価学会員は苦しみ続けることになる。それともそれら精神疾患に苦しんでいる人が「池田大作を強く激しく否定すること」なのか? 法華講に移ることか? しかし狂信的な創価学会員は法華講には移らない。何か画期的な方法が発見されない限り救われない。
「池田大作を強く激しく否定すること」ではなかろうか?
論文集
戸田先生の遺言
創価学会内部改革派憂創同盟残党
【はじめに】
戸田先生は偉大な指導者であったことに異論を言う者は少ない。創価学会の人でなくても、二代目の戸田会長は素晴らしい人物であった、と言う人は極めて多い。では何故、戸田先生は池田大作を除名にせず、重用していたのか? これが謎である。
戸田先生は池田大作の魔性を見抜いており、戸田先生は、遺言状に池田大作除名を書いた。しかし戸田先生の家に御遺品を取りにトラック二台で行ったとき遺言状も奪ってきた、と推論することもできる。戸田先生が池田大作の魔性を見抜けなかったはずがない。
【考察】
戸田先生は突然死されたのではない。アルコール中毒による腎障害と糖尿病で亡くなられたのである。遺言状を書く時間は十分にあった。しかし、アルコール中毒のために判断能力が低下していた可能性も考えられる。
また、戸田先生は神様ではない。池田大作の魔性を見抜けなかったとしても不思議はない。
戸田先生は性格が非常に豪放磊落であった。見抜いていたとしてもそれを寛大に許していたという可能性も高い。
また、事業が倒産の危機の時、池田大作が暴力団で身につけた動物的なカンでお金を集め、高利貸し業で戸田先生の事業の危機を救ったということがなければ、戸田先生は早く池田大作を放出していただろう。池田大作を重用すると言うことはなかったであろう。
戸田先生が亡くなられる前、「次の会長は誰にするんですか?」との問いに「それは、お前たちが決めるんだ」と言われた(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道、2002)が、戸田先生は池田大作が選ばれることは想定外だったのではないのか? 戸田先生はみんなが石田次男氏を次期会長にすると甘く考えていたのではないのか? 戸田先生は神様ではない。性格が非常に豪放磊落であった。そのように甘く考えていた可能性は高い。
戸田先生が亡くなって直ぐに池田大作がこういう行動に出たのは、池田大作は妄想性パーソナリティ障害 (Paranoid Personality Disorder)であったため、戸田先生を疑ったためと考えられる。池田大作は若い頃から非常に疑い深い性格だったことは藤原行正氏の本(池田大作の素顔:講談社)にも書かれてある。
その疑い深い性格が彼を成功へと導いたのである。戸田先生の遺書が有ったのか無かったのかは今になっては解らない。遺言が有って、それを池田大作が捻り潰した可能性は充分に高い。
池田大作は戸田先生の家に着くと、玄関の鍵を開けに来た家人に挨拶をすることもなく誰よりも早く戸田先生の家に入った。目ざとく戸田先生の遺書を仏壇の前に発見すると、それを内ポケットに入れた。誰も見ていなかった。
やがてトラックで来た仲間が入ってきた。戸田先生の遺品を学会本部へ持ってゆくことに参加したのは未だ若い男子部の四人だった。池田大作は「これを持ってゆけ。これは要らない。これを持ってゆけ」と指示をすることが主だった。
その日、家に帰り、戸田先生の遺書を開いた。やはり池田大作除名が書かれてあった。遺書の内容は池田大作除名が全てと言っても良かった。非常に短い遺書であった。
池田大作には危険を感じ取る動物的なカンがあり、そのカンで今まで何度となく危険を救われてきた。
「これで第三代会長は俺のものだ、これで第三代会長は俺のものだ」と池田大作は微笑んだ。
(未完)
池田大作の生涯
創価学会内部改革派憂創同盟残党
【はじめに】
私は以前、池田大作は広宣流布を頓挫させるためにこの世に生を受けた、と書いた。
「第六天の魔王 智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王 我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」(最蓮房御返事)―――これが該当する可能性は無い。
池田大作は単なる俗物であり、創価学会に入り戸田城聖氏のもとへ就職したことが偶然の幸いとなり、劣等感に根ざした極めて強い権力志向が、お人好しの極めて多かった創価学会に於いてライバルを蹴落とし、創価学会の会長となり、栄華を極めた、と考えるのが適切な説と思う。
池田大作の人生を幼少時より書いてゆく。
【幼少時代】
池田大作は零細な海苔製造業者のである池田子之吉(ねのきち)、妻一(イチ)の五男として昭和三年一月二日、東京都荏原(えばら)郡入新井町大字不入斗(いりやまず、現・品川区)に生まれた。男女併せて十人の兄弟がいた。
昭和六十年前後の状況を山崎正友氏が(懺悔の告発:日新報道:1994)に書かれている。
長男 喜一 ビルマにて戦死
長女 とよ子 国立第一病院看護婦
次男 増雄 大衆食堂経営、家を継ぐ
三男 小宮開造 阿部商会(外車ディ-ラー)役員、死亡
四男 清信 三洋工業、学会幹部
五男 大作 本人
六男 栄一 トビ職
七男 隆一 東和工業
八男 正利
次女 いね子 東芝社員の妻
これを見ると、明らかに学会員であるのは一つ上の兄のみである。
山崎正友氏が池田大作の家系を調べたところに依ると、数代先まで東京湾でノリ採集や漁師をしていた、という。
インターネットでは池田大作が在日朝鮮人という論が強い。しかし、山崎正友氏は在日朝鮮人ということは全く言及されていない。
しかし、小学生時代に病床の父から韓国語を教わっており韓国語が堪能であるとインターネットでは言われている。
池田大作の少年時代は、同級生や教師などの証言に依れば、貧しい、女好きの、子だくさんの海苔屋の五男で、特徴もなく、一生懸命勉強しても中位の成績の、目立たない少年だった。
後年、創価学会の会長になったと聞いて、誰もが驚いたという。
二十五歳(昭和三年生まれであるから昭和二十八年)までは池田太作(タサク)が本名であったが、二十五歳の時、正式に戸籍上、池田大作に名前を変更している。戸田城聖氏や池田大作の奥さんのように勝手に名前を変えることはできる。しかし戸籍の名前を変えることは家庭裁判所が認めたときのみである(少なくとも以前はそうであった。現在は在日外国人のことで簡単に変えられるようになったようである)。戸籍の名前を変えることはそれほど困難なものであった。池田大作は潜在性統合失調症であるため、その誇大妄想と被害妄想により凄まじい執念で戸籍の名前をも変えた。池田大作の当時の給料は一般人の百倍近くであったと言われる故、その有り余るお金で買収したとも考えられる。この戸籍の名前を変えることができたことは一つの謎(調査中)と山崎正友氏は書かれている。
【青年期】
池田太作は戦後の混乱期、定職にも就かずブラブラしていたが川崎市から大田区を縄張りとする暴力団の手先となって貸し金の取り立てなどを手伝っていたらしい(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p105 )。
この頃、学校時代の友人であるMという女性に誘われて座談会に参加し、御本尊を渡される。このとき「人間革命」に書いてある戸田城聖氏との劇的な出会いはない。戸田城聖氏との劇的な出会いに詩を詠んだということはない。それは「人間革命」の本当の作者である篠原善太郎氏(東大卒。戦前、河田清のペンネームで小説を書いたことがある。小説家志望だった。学会総務。外郭会社・東西哲学書院社長。同社は信濃町近辺や全国の学会会館近くにレストラン、寿司屋、書店のチェーン店を展開している学会外郭の最大手の一つだった。既に亡くなっている。竹入義勝氏とともに長野県の日蓮正宗法華講の古くからの剛信な一族出身。)が池田大作より命令され創作したものである。
次のように書かれている。
「学校時代の友人に誘われて創価学会本部へ行きました。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしょうか。五時間ぐらいそこで締め上げられたのです。
南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で敗れて信仰しなければならないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない」(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p71-2)
「それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。
家に持ち帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴り、私の上でゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二解の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長(小平芳平のこと)から折伏されたんですよ」(S32・10・18付聖教)
以来、肺病を患っていた池田太作は肺病を治すためもあり、熱心に信仰を始めた。勤行唱題の声が喧しいと大家さんから注意されるほどであった。
池田太作はそして幾つかの事業を行っていた戸田城聖氏の処へ就職の面接に行く。戸田城聖氏は金を貯めている学会員から借り入れて手形割引などで他の学会員に高利で貸す金融業「大蔵商事」も営んでいた。戸田城聖氏は池田太作の借金取り立ての経験に目を付け採用する。
この金融業で池田太作は経験と才能を発揮する。金を貯め込んでいる学会員の家を当てるのが非常に巧かった。戸田城聖氏の傾きかけていた事業を再起させたのは池田太作の金融業での経験と才能だった。取り立ても厳しく、病気で寝ている老人の布団を剥いで持って帰ることもあったという逸話もある。
大蔵商事で池田太作は営業部長として辣腕を振るい、池田太作の給料はそのため当時の平均給料の百倍近くであった(ここの給料は歩合制であった)。この金で池田太作は女子部員をものにし、また、幹部達に金を振る舞い、次期会長を狙うべく人脈作りを行ったらしい。(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994)
「人間革命」の「この冬もオーバーコートなしで過ごさねばならない」ということは嘘である。
この金融業の時代に池田太作は毎日のように金集めのため松島勇氏の家に出入りする。松島勇氏は埼玉県大宮市の国鉄機関車区に勤めており池田太作の依頼に基づいて仲間の国鉄職員から貸し金を集め、池田太作のドル箱であった。そのため池田太作は毎日のように松島家に出入りした。家族同然の付き合いだったと言われる。「月刊ペン事件」で有名な、松島家の三畳間で裸身を松島道子にタオルで拭かせていたのを学会員の小沢よねさんに目撃されたのはこの頃のことである。
松島道子は後に参議院議員になった。夫となった松島一郎は衆議院議員になった。松島道子と池田太作との関係は二人(松島一郎と松島道子)の結婚後も続き、そのためその夫婦の間は冷え切っていた。松島一郎は妻の不倫に気付いていながらも黙認を仕方なくされ、その黙認したことにより衆議院議員に池田大作より推薦されることができた。
松島道子の姉が池田大作批判の急先鋒である藤原行成氏の妻である。池田大作は松島道子の姉にも手を出そうとした。しかし手を出すことができず、池田大作は松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐め続けることになる。松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐めることに実の妹である松島道子が手助けをしていた。
松島家以外にも戸田城聖氏の金融業の資金集めに協力した故に後に創価学会幹部に取り立てられた一家は他にもたくさんあり、そのなかには、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで山崎正友氏が負債処理に当たった処もあったという。
池田大作がこの戸田城聖氏の元で行っていた金融業は現代のサラ金と同じものであった。「人間革命」にはそのことが解らないように脚色されてある。
池田大作は昭和四十九年、大石寺大山荘に於いて山崎正友氏と酒を飲んでの雑談の時、「戸田先生の唯一の失敗は私に金貸しのような汚い仕事をやらせたことだ。俺なら後継者の人生経歴をそんなことで傷つけたりしない」と言った。戸田城聖氏は池田大作を創価学会の後継者とは考えていなかったから金貸し業に突っ込んだと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p107-8)
また、池田大作は「資金繰りが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだあれがしたあ』(当時流行していた歌謡曲“星の流れに”の替え歌)と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」と思い出話を語ったと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p108)
この大蔵商事は学会首脳が働いていたが、昭和三十五年の池田大作の会長就任とともに学会首脳は退き、以降は戸田城聖氏の妾であった森重紀美子とその甥らが経営したが、脱税摘発や貸金こげつきで事実上、倒産する。その後、大同商事と社名を変え、昭和四十七年頃から中西治雄氏が関わり、創価学会の建物の火災保険、学会員や学会本部関係の物品販売、大石寺土産物取扱い、学会員相手の高利貸し、などを行う。
昭和三十二年の大阪事件に於いて臆病な池田大作は卑怯にも警察に全てのことを話している(すでにこのとき池田大作は堕落していた)。つまり仲間を売っている。そのために池田は早期に釈放されたし無罪になった。大阪事件では何十人もの創価学会員が有罪になり、創価学会は有罪になった人たちを全員、除名にした。この大阪事件の判決は昭和三十七年であった。
【会長就任後】
池田大作は特別書籍と呼ばれるゴーストライター軍団を会長室の上の階に設置し、自らの著作および講演原稿を作らせるようになった。責任者は原島嵩氏で、その下に、上田雅一(慶大卒、副会長)、桐村泰次(東大卒、副会長)、野崎勲(京大卒、副会長)、石黒東洋(東工大卒)、細谷昭(一橋大卒、副会長)らで編成されていた。このゴーストライター軍団は原島嵩氏が抜けたりメンバーこそ多少替わったものの現在(平成二十二年)も健在である。
“潮”や“第三文明”などに掲載する文化人、学者との対談も、すべてゴーストライター軍団に依るものである。トインビー博士との対談も、同様にして作られた。池田大作は相手と会って食事したり雑談し、写真を撮るだけである。
昭和四十九年から翌年にかけて「月刊ペン」誌上で編集長である渡部大蔵氏が創価学会批判を行ったが、それは池田大作の女性関係にまで及んでいた。この池田大作の女性関係は真実であり、創価学会側は笹川陽平氏(笹川良一氏の三男、船舶振興会理事長)に相談し、二千万円を渡部大蔵氏の弁護士に渡し買収に成功した。しかし渡部大蔵氏はどのように金額を積んでも頑なに拒否した。そして裁判は弁護士から裏切られた渡部大蔵氏の執行猶予付きの懲役刑となった。
渡部大蔵氏はこの裁判を不服として上訴中、病に倒れ死亡した。しかし渡部大蔵氏の死後、藤原行正氏などの造反が起こり、彼らが証言台に立ち、池田大作の女性関係が真実であることが裁判に於いて立証された。
この女性関係は凄まじく、日本全国だけで二十名を超えていたという。一部を書くと、公明党の衆議院議員となった二人の女性は池田大作の愛人であった。
全国各地にある学会施設には池田専用の極めて豪華な部屋へついて昭和五十二年、民社党の春日一幸氏から竹入委員長宛に一通の手紙が届いた。このことを国会に於いて追求するという内容であった。九州の霧島では国立公園の真ん中に法律を無視して施設を造っていた。これは愛知県渥美半島、北海道、広島でも同じようであった。広島では税務署が池田大作の豪華設備について「宗教と関係ないから課税する」と言ってきていた。急遽、これら池田専用の極めて豪華な設備を解体する作業が行われた(この解体作業に費やした費用も莫大であった)。結局、創価学会が「選挙で票をよこす(公民選挙協力)」と約束し、民社党は追及を行わなかった。
(未完)
【研究と報告】
大阪池田小事件と宅間守と創価学会*
創価学会内部改革派憂創同盟残党**
【key words】Ikeda elementary school, Spree killer, Psychopathie, Mamoru takuma, Soka-gakkai
【はじめに】
大阪池田小事件(2001年6月8日)
この事件もスプリー殺人の典型的事例とされている。出刃包丁を持った男1名(宅間守・当時37歳)が、2時限目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎころ、自動車専用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室などにおいて、児童8人を刺殺し、児童や教員10数人を傷害した。2003年8月28日に大阪地裁は死刑を言い渡した。死刑確定から1年未満の2004年9月14日、執行された。(犯罪学雑誌:第74巻、第6号:2008)
【生活歴】
宅間守は刑務所入所と精神病院措置入院を繰り返していた。精神病院には中学生時代から強姦事件を繰り返し起こしたため、通院薬物療法及び精神療法を受けていた。そして父親と極めて不仲であった。両親は熱心な創価学会員であった。
高校を中退した後、いつもの激しい暴力を伴った強姦事件を起こす。この強姦事件では被害者に告訴される。宅間守は精神病院を受診し、統合失調症の診断を受け、閉鎖病棟に入院させられ、いつ退院できるか分からない状況に陥った。抗精神病薬の投与量は大量であった。
統合失調症ではない普通の人間ならば少量の抗精神病薬の投与によっても激しい倦怠感のため、長時間、横になってしまうものである。抗精神病薬はベンゾジアゼピン系抗不安薬と異なり耐性は付きにくい。いつまでも抗精神病薬の副作用に苦しむはずである。
ところが統合失調症の患者は普通の人間が服用すると半日は仕事できないような激しい倦怠感に襲われるにも拘わらず、ほとんど平気である。それどころか幻聴や妄想が無くなり、却って明るく元気となる。ここで統合失調症との確定診断がつくものである。これは脳内ドーパミン系などの過活動が正常化されるためと説明されている。
宅間守は抗精神病薬の副作用にあまり苦しまなかったことを考えると統合失調症であったことの証明になる。少なくとも脳内ドーパミン系などの過活動がそのときには存在したことの証明になる。
この入院中、宅間守は五階屋上から飛び降り自殺を図る。しかし奇跡的に下顎骨骨折と上顎骨骨折のみであった。
池田小事件の検察官は、この入院中のエピソードを強姦罪による逮捕・有罪判決を逃れるために精神病者を装ったもの、すなわち詐病で、飛び降りも自殺目的ではなく、病院からの脱走目的としている。しかし、当時のカルテにも、その後の診断書にも宅間守の病名が一貫して統合失調症と記載されていること、実際に強力な抗精神病薬が投与されていたこと、精神科医を騙して統合失調症の診断名を得ることは不可能であることを考えると、詐病ではない。実際に、少なくとも当時、統合失調症の症状を呈していたことは確実である。
そして宅間守は先の激しい暴力を伴った強姦により3年間、奈良少年刑務所に服役している。初犯で、初めての服役であるにも拘わらず、仮釈放の恩恵も受けず満期出所であったことは、入所中の行状がよほど芳しくなかったか、言葉の上だけでも改悛の情を示さなかったことを意味すると思われる。また、この服役期間中に宅間守は両親に金銭的な要求をし、父親によって勘当された。
宅間守は1999年に小学校教諭4人にお茶に精神安定剤を混入させた事件で措置入院になっていた。このときは統合失調症に罹患していて心神耗弱状態とされたため、不起訴処分になっている。
そしてこの措置入院は39日とあまりにも短く終わっている。精神病院といえども、あまりに凶暴な性格の宅間守を入院させておくことが困難であったのであろう。退院時の診断名は統合失調症ではなく妄想性人格障害と変わっていた。また、この39日間の入院中に兄が自殺していた。享年42歳であった。
退院より半年後、精神障害者保健福祉手帳の交付を申請し二級の手帳を取得している。
宅間守は性格が極めて粗暴であり、職場でもトラブルを頻繁に起こし、転職を繰り返していた。離婚も3回し、4回目の妻も宅間の暴力と金をせびる習癖に耐えかねて5ヶ月後には離婚した。すなわち宅間守は離婚を4回したことになる。
1999年の措置入院の後、宅間守は精神病院への任意入院(自ら望んでの入院)を三回繰り返していた。そして四回目の任意入院を予約している間に、池田小事件を起こした。
池田小事件の起こった2001年には、司法書士の学校に通ったり、訴訟を起こしたり、精神科医の偽の名刺を作ってお見合いパーティーなどでナンパを繰り返したり、数週間家に引き籠もって飲まず食わずの生活を送り、何回か精神科病院に短期間入院したり、ソーシャルワーカーにSOSの電話をしたり、その間に数回の自殺未遂を繰り返したりしていた。このように軽躁状態と鬱状態の両面が現れていた。
宅間守は統合失調症、妄想性人格障害、反社会性人格障害、境界性人格障害などの合併であると考えられる。精神鑑定に於いて一つの病名を示すようになっていることは精神医学を知らない裁判官の無知である。精神疾患は合併することが多いものである。宅間守はその他に気分障害(双極性障害)、不安障害、向精神薬依存症も合併していたと考えられる。
【創価学会との関係】
雑誌に載っていた宅間守の部屋の中央に御厨子が置かれており扉が開いていて中の御本尊が写真に写っていた。この御本尊は日顕上人の御本尊であり、当時は創価学会が宗門より破門され、創価学会独自の御本尊を配布され初めて数年が経っており、創価学会は日顕上人の御本尊の回収と創価学会独自の御本尊の配布をほぼ終了していた。
日顕上人の御本尊が宅間守の部屋の中央にある御厨子に懸かっていることより山崎正友氏は法華講員または妙観講員であることを疑い本山に問い合わせた。しかし(創価学会・公明党の犯罪白書:山崎正友:第三書館:2001:p39)において「本山の名簿に宅間守の名は載っていなかった」と書かれている。山崎正友氏は日達上人と非常に親しく、本山(宗門)に非常に近い存在であり、法華講総講頭(法華講で最も高い位)にまでなった人物である。本山に宅間守が法華講員または妙観講員かどうかを非常に詳しく調べさせたと推測される。本山は宅間守のことについて間違いの無いように綿密に調べたことは確実である。
宅間守のような極めて粗暴な性格の者には創価学会員であっても「決して近づくな!創価学会員と見なすな!創価学会に大変な迷惑がかかる!実質上、創価学会員ではないと見なせ!」と内部伝達され、放置されるものである(誰見境なく折伏することが昔は多かったため、こういう学会員は多いのである)。御本尊が日顕上人のものであったことは放置されていたからである。
御厨子が開かれていたままだったということは、宅間が勤行唱題中に祈祷性精神病すなわち急性精神病状態に陥り、御厨子を閉める余裕無く、車に乗り大阪池田小へ向かったと推定される。普通、勤行唱題が終わると御厨子は閉めるものである。(筆者注:一般の人は御厨子は普通は閉めておくものという認識がないため、宅間守が勤行唱題中に祈祷性精神病すなわち急性精神病状態に陥ったという意見は未だ全く見られない。数多い宅間守についての論文に於いて、このことに言及しているものはない)
御本尊は日顕上人のものであったが、創価学会は破門されてから数年経過していた。両親は熱心な創価学会員である。そのため宅間守は勤行唱題中に祈祷性精神病すなわち急性精神病状態に陥ったものと推測される。
死刑の判決を受けたとき「池田先生、バンザーイ!」と叫んだことは有名である。宅間守は生活の苦しさと遣り場のない苦しさから創価学会の信仰を熱心に行っていたと思われる。それは部屋の中央に御厨子が扉を開けて置かれていたことからも推察される。
ただ、性格の余りもの凶暴さと強姦などの犯罪を繰り返し刑務所と精神病院措置入院を繰り返していることから、創価学会員は創価学会の幹部より創価学会に迷惑をかける要注意人物として接触を禁止されていたと推定される。
宅間はインターネットにて創価学会を誹謗中傷していたということであるが、妄想性人格障害と診断されていることからも創価学会員から接触を拒否されていることを強く恨みに持ち、または統合失調症の被害妄想のために、また熱心な創価学会員である父親への憎しみのため、インターネットにて創価学会を誹謗していたと思われる。
【おわりに】
宅間は小学生の時に大阪教育大付属池田中学への進学を望んだが母親がお金を出してくれないため断念した。
「家庭が安定し、恵まれ、勉強できた人間でも、アホで大怪我して展望のない腐り切った自分のようなおっさんに、たかだか5~6秒で刺されて死ぬ。そんな不条理さを分からせてやりたかった。いくら勉強ができようが、いつ死ぬかわからんのが人生。世の中、勉強だけじゃちゃうぞ、と一撃を与えたかった」「そこらの子を殺すより、裕福で頭のええ、将来有望な人間を殺す方が自己満足がある」と宅間は公判で述べている。
【文献】
1)岡田尊司:自尊心を求めるH・コフートの自己愛の発達理論とS・フロイトの病的なナルシシズム:医学書院、1994
2)岡田尊司:パーソナリティー障害、PHP新書、東京、2001
3)岡田尊司:人格障害の時代:平凡社新書:2004
4)岡田尊司:パーソナリティー障害がわかる本:株式会社法研:2008
5)笠原嘉:精神病、岩波書店、東京、1998
6)松下正明:新世紀の精神科治療(5)、現代医療文化の中の人格障害:中山書店、東京、2002
7)福島章:犯罪精神医学入門:中公新書:2005
8) 福島章:精神鑑定 脳から心を読む:講談社:2006
9) 岩波明:精神障害者をどう裁くか:光文社新書:2009
10)中谷陽二:精神鑑定の事件史:中公新書:1997
11) 伊東高麗夫:病跡学とオカルト:勁草書房:1980
12) 中安信夫:初期分裂病/補稿:星和書店:1996
13) E.クレッチュマー:天才の心理学:岩波書店:1981
14) DSM-�-TR、精神疾患の分類と診断の手引き:医学書院、東京、2007
*An incident Ikeda elementary school, Mamoru takuma, and Soka-gakkai
**どんぐり病院(〒000-0000 どんぐり市どんぐり町000-00)
Toshiro MIFUNE:000 psychiarty, 00000, 00000, JAPAN .
Ccc998@infoseek.jp
(第3章終了)
第4章 隠れ法華講への道
隠れ法華講への道
お寺には週一回行くのみである。家には創価学会の“魔”の御本尊のため家では遙拝勤行しかできない。勤行唱題も家人に隠れてであるから時間が限られている。
その代わり、創価学会内部改革派憂創同盟の活動を盛んに行おうと思っている。創価学会内部改革派憂創同盟の活動が成功すると大部分の創価学会員を宗門に帰すことができる。そして大部分の創価学会員を幸せにすることができる。
生命力がない。元気がない。しかし“魔”の御本尊に祈っても生命力や元気は暗示的にしか強くはならないで居た。実家の日達上人の御本尊に祈りたい。実家の日達上人の御本尊に勤行唱題すると目は輝き、元気一杯になる。
この前、実家の仏間に飾っていた池田大作の写真入り額縁を取り払った。この前、悪いことは起こらなかった。額縁を取り払ったのが奏功したのだろう。それまでは実家で日達上人の御本尊に勤行唱題すると何故か不思議と悪いことが続けて起こった。
近年、創価学会員が勤行唱題をあまり行わなくなったのは御本尊が“魔”の御本尊に変わったため、勤行唱題しても生命の歓喜を覚えなくなったためと思われる。そのために勤行は朝夕一座ずつと創価学会は変わった。以前は朝五座、夕三座だった。しかも二座の長行はそれだけでも10分は掛かり大変だった。“魔”の御本尊でなかったから勤行唱題中の生命の歓喜は強く、自然と勤行唱題を長くしていた。今は勤行唱題しても余り生命の歓喜を覚えなくなったため、みんな勤行唱題を長時間は行わなくなったのだ。
「直結信仰」が悪いことを原島嵩氏は(絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007、p170)にて書かれている。
『第二祖日興上人は「佐渡国法華講衆」へのお手紙のなかで「誰々が日蓮聖人の直の弟子であるという輩がいるが、これは無間地獄におちる大謗法です」(趣旨)とご教示されており。「直結信仰」を厳しく否定されておられるのです。』
『さらに創価学会は日蓮正宗の血脈を否定している、これも大謗法です。』
現在の創価学会は日蓮大聖人直結信仰である。そして日蓮正宗の代々の血脈を否定している。代々の血脈否定とは御法主上人否定のことである。これは御本尊否定にも繋がる。
そして原島嵩氏は法華講員となっている現在、毎日が楽しく法悦に包まれていることを著書「絶望の淵から蘇る」に書かれている。現在、創価学会には法悦(生きている一瞬一瞬が歓喜となる)が無くなりかけている。日達上人様の御本尊に勤行唱題すると法悦に包まれるが、平成五年から配布された創価学会製造の“魔”の御本尊に祈っても法悦は感じられない。創価学会員が勤行唱題を長時間は行おうとはしなくなった一つの大きな原因がこれであると確信する。そして創価学会製造の“魔”の御本尊に祈ると驚くような悪い偶然が起こる。その悪い偶然の起こる確率は非常に低いが起こってしまう。それが立て続けに起こってしまう。これではとても創価学会の信仰を続けることはできない。筆者は職場を解雇になる寸前に気付いた。
今、自分は落ち着いている。創価学会員である間は(今も正式には脱会していなく、隠れ法華講員である。妻の一族が狂信的な創価学会のため退会届は出すことができない)常にソワソワしていた。落ち着くように言われても落ち着けない。そのため精神科の薬を常用していたほどだ。今は全く服用なしで落ち着くことができている。創価学会病であったわけである。
創価学会病は多い。精神科外来に来る患者さんの多くが創価学会員である。隠していても自分のように慣れたら分かるものである。自分は幼い頃から創価学会の信仰をしてきた。たくさんの創価学会員と接してきた。そのため患者さんの言動、表情、そして雰囲気とカンなどから解るのである。
また、反創価学会になるまでは気合いを入れるため三色旗のボールペンを常に胸のポケットに刺していた。患者さんから「先生は創価学会ですか?」と言われることが多かった。
創価学会は中枢部があまりに穢れすぎていた。末端は純粋だった。一部だけが穢れていた。中枢部は思い上がり甚だしい(増上慢)池田大作によって穢れ果てされていた。創価学会の穢れは、池田大作一人によってもたらされた。池田大作が創価学会の全てを支配し破壊した。純粋な信徒団体だった創価学会を穢れきった信徒団体にした。そして創価学会自ら独立の道を選択し、宗門より独立していった。それは全てを支配するという池田大作の野望だった。
戸田会長は「創価学会が御宗門にたてつくようになれば、すぐに解散させてください」と時の御法主上人に常々申されていた。
また「広宣流布の暁には創価学会を解散させて、ぜんぶ法華講につける」と遺言されていた。
一般の創価学会員は池田大作の悪行をほとんど知らない。全く知らないと言っても過言ではない。聖教新聞は池田大作を神のように誉め称える記事で満ちている。それは月刊誌「大百蓮華」も同じである。週刊誌「創価新報」は宗門を中傷する汚い偽りの記事で溢れている。そういうもののみ創価学会員は読んでいるのである。
池田大作は自分を神のように讃える幹部のみを優遇してきたし、批判的な幹部は遠去けられてきた。創価学会は池田王国なのである。創価学会本部は池田大作を神様のように崇めていないと居着かれない魔窟なのである。
池田大作(創価学会)を信じるものは低脳か余程のお人好しとしか思われない。同時放送での態度、言動を見れば池田大作のあまりもの傲慢さに呆れ返るのが普通である。それに気付かないのは低脳か余程のお人好しになる。
池田大作の目が成り上がりの独裁者の目をしていることを気付かなければならない。独裁者は常に反逆に怯えている。竹入義勝氏への狂気の机でんでん叩きを繰り返した45分間のスピーチもそれに由来している。
創価学会員は一般に非常に人が良い。創価学会員以外は(日蓮正宗信徒以外は)信じることができないほどである。友達になりたいと思わないほどである。付き合いたいと思わないからである。それほど人が良いから激しい折伏にも怒らずに素直に入信したのであろうし(その人でなくその人の親のことが多い。今は二世三世が多い。人の良さは遺伝する。)信仰を続けているのである。一部の創価学会員が欲深くて良くない。その人たちが創価学会の評判を下げていると言っても過言でないかもしれない。そして池田大作が一番、創価学会の評判を下げている。
池田大作が亡くなると創価学会の評判は良くなってゆくであろう。しかし自分は創価学会が大きく方向転換をしない限り(信徒団体として宗門に戻らない限り)創価学会を辞め、法華講に入る予定である。(注:書いている時期が様々であるため、こうなってしまうことをお詫びしたい)