早速ですが、ワタシがここに今年一発目のコラムで絶対に書こうと思っていたことがあります。それは、現在のワタシの「美意識」、「モノゴトに対する着眼」、もっと言えば「フェチズム」の根本に影響を与えた一冊の本を思い出したからでございます。それは、
「サルでも描けるまんが教室」
でした。
通称「サルまん」。あまりマンガに詳しくないワタシですが、マンガの世界では有名な本であるらしいです。みなさん、ご存知でしょうか?何で、この「サルまん」にワタシは出会うことになったのか。そのきっかけは、小学生の頃から始まります。
小学生の頃、クラスには必ず「マンガ」を描くのが得意な男子女子がいたと思います。実はワタシもその一人でした。しかし、絵はそこそこ上手くても、ストーリーなどを産み出す力は持ち合わせてなく、その頃のワタシも自ずとその事を理解していましたが、今でも形から入るのが好きなワタシですので、実際にマンガ家が使っているようなGペンだったりスクリーントーンだったりを駆使して、マンガ家気分を味わっていました。そうやってマンガ(というかイラスト)を夢中になって描きまくっては、徐々にマンガ家になることを何となく夢見はじめた中学生の頃、「ちゃんとマンガを描くための勉強をしよう。どうやればちゃんとしたマンガが描けるのだろう、何かいい参考書があればイイなぁ・・・」という想いが募り、そして本屋に駆け込んだ時に出会ったのが、この「サルでも描けるマンガ教室」でした。
ワタシがこの本を手に取った時は、純粋な気持ちで、「これでボクちんもマンガが描けるようになるぞ!」と思っていたのですが(にしては表紙とタイトルで気付け、という感じだが)、早速ハードカバーの表紙をワクワクしながらめくって見るとそこには、横たわってパンツ下げて半ケツ出しているお兄さんがテレビの前でゴソゴソしている写真だったり(「マンガの一生」がテーマで、沢山のマンガがちり紙交換に出され、そのちり紙が最後にはこのように使われます、という図)、汚いオジさん(注※これは作者の二人「相川コージ」さんと「竹熊健太郎」さんのことであって、全くもって愛を込めた表現でございます)が、スッポンポンになってセクシーポーズをとっている写真(「人体デッサン」がテーマ)だったりで、「ちゃんとしたマンガが描きたい!」という純朴な少年の想いは、このような大人たちの思惑によって見事に裏切られたのでした。
しかし、多感で性の目覚めも著しい第二次性徴期のワタシ。この「汚いオジさん」(愛!)の毛むくじゃらのヌードや、どことなく童貞クンの薫りがする青臭い「エロ」の描写に、無意識にも興味が注がれ、マンガ家になりたい!という夢はどこへやら、その大人の「いやがらせ」のような数々を夢中で読んでいたのでございます。そして、「エロ」だけではなく、実際に「マンガを描くためにはこうすれば描ける」、という方法論や、マンガが作られる現場の説明などを、正面からというよりは逆手にとるような手法で展開される内容は、ワタシに「一生懸命に質の高いバカバカしさ」の素晴らしさを刷り込んでくれた教科書となったのです。もしこの本ではなく、全うなマンガ入門みたいな本を買っていたとしたら、ワタシの人生は大きく変わっていたように思います。もしかすると、ワタシにはもうその頃からこの「ジョーダン」の世界に慣れていたからこそ、すんなり受け入れられたのかもしれないが、純粋無垢にマンガを描こうと思っていた人にとっては、処女をレイプされるかのような衝撃だったに違いない、と思う。そして、ワタシにとって、それを防御出来たもう一つの理由として、オジさんたちのヌードに興味を移行出来たからに違いない・・・。
「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」のネタごとに作られる映像が、どこかこの「サルまん」の世界に似ていることに最近気づきました。何となく童貞臭くって、かつオジさん臭くって、役者(スタッフ?)もどことなくワタシの好むエロスが漂っている。ワタシが松尾スズキを好きなのも、同じエロスを発しているからのようにも思える。もちろん、「物事に対するイヤガラセのような愛し方」も、今、歌謡曲を唄っているワタシにも脈々と流れている精神であることを、改めて自覚するのでありました。
この「サルまん」。発売された当初に買ったので、写真のようなハードカバーのモノなのだが、今はどうも手に入りにくいようです。ちなみにこの本、上巻・下巻とあるのに、ワタシは上巻しか買いませんでした。続けて下巻を買わなかった辺りが、何ともワタシらしいなぁ、と思います。買っておけばよかったナァ・・・。さらにさらに、この上巻を、大学時代に友人に貸したまま、行方不明になってしまいました。これをもし見ていたら・・・今度会ったとき返してくれませんかね?
相川コージ先生、竹熊健太郎先生、素晴らしいバイブル、本当にありがとうございました。これを読んで育った今のワタシ、とても大好きです。
「サルでも描けるまんが教室」
でした。
通称「サルまん」。あまりマンガに詳しくないワタシですが、マンガの世界では有名な本であるらしいです。みなさん、ご存知でしょうか?何で、この「サルまん」にワタシは出会うことになったのか。そのきっかけは、小学生の頃から始まります。
小学生の頃、クラスには必ず「マンガ」を描くのが得意な男子女子がいたと思います。実はワタシもその一人でした。しかし、絵はそこそこ上手くても、ストーリーなどを産み出す力は持ち合わせてなく、その頃のワタシも自ずとその事を理解していましたが、今でも形から入るのが好きなワタシですので、実際にマンガ家が使っているようなGペンだったりスクリーントーンだったりを駆使して、マンガ家気分を味わっていました。そうやってマンガ(というかイラスト)を夢中になって描きまくっては、徐々にマンガ家になることを何となく夢見はじめた中学生の頃、「ちゃんとマンガを描くための勉強をしよう。どうやればちゃんとしたマンガが描けるのだろう、何かいい参考書があればイイなぁ・・・」という想いが募り、そして本屋に駆け込んだ時に出会ったのが、この「サルでも描けるマンガ教室」でした。
ワタシがこの本を手に取った時は、純粋な気持ちで、「これでボクちんもマンガが描けるようになるぞ!」と思っていたのですが(にしては表紙とタイトルで気付け、という感じだが)、早速ハードカバーの表紙をワクワクしながらめくって見るとそこには、横たわってパンツ下げて半ケツ出しているお兄さんがテレビの前でゴソゴソしている写真だったり(「マンガの一生」がテーマで、沢山のマンガがちり紙交換に出され、そのちり紙が最後にはこのように使われます、という図)、汚いオジさん(注※これは作者の二人「相川コージ」さんと「竹熊健太郎」さんのことであって、全くもって愛を込めた表現でございます)が、スッポンポンになってセクシーポーズをとっている写真(「人体デッサン」がテーマ)だったりで、「ちゃんとしたマンガが描きたい!」という純朴な少年の想いは、このような大人たちの思惑によって見事に裏切られたのでした。
しかし、多感で性の目覚めも著しい第二次性徴期のワタシ。この「汚いオジさん」(愛!)の毛むくじゃらのヌードや、どことなく童貞クンの薫りがする青臭い「エロ」の描写に、無意識にも興味が注がれ、マンガ家になりたい!という夢はどこへやら、その大人の「いやがらせ」のような数々を夢中で読んでいたのでございます。そして、「エロ」だけではなく、実際に「マンガを描くためにはこうすれば描ける」、という方法論や、マンガが作られる現場の説明などを、正面からというよりは逆手にとるような手法で展開される内容は、ワタシに「一生懸命に質の高いバカバカしさ」の素晴らしさを刷り込んでくれた教科書となったのです。もしこの本ではなく、全うなマンガ入門みたいな本を買っていたとしたら、ワタシの人生は大きく変わっていたように思います。もしかすると、ワタシにはもうその頃からこの「ジョーダン」の世界に慣れていたからこそ、すんなり受け入れられたのかもしれないが、純粋無垢にマンガを描こうと思っていた人にとっては、処女をレイプされるかのような衝撃だったに違いない、と思う。そして、ワタシにとって、それを防御出来たもう一つの理由として、オジさんたちのヌードに興味を移行出来たからに違いない・・・。
「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」のネタごとに作られる映像が、どこかこの「サルまん」の世界に似ていることに最近気づきました。何となく童貞臭くって、かつオジさん臭くって、役者(スタッフ?)もどことなくワタシの好むエロスが漂っている。ワタシが松尾スズキを好きなのも、同じエロスを発しているからのようにも思える。もちろん、「物事に対するイヤガラセのような愛し方」も、今、歌謡曲を唄っているワタシにも脈々と流れている精神であることを、改めて自覚するのでありました。
この「サルまん」。発売された当初に買ったので、写真のようなハードカバーのモノなのだが、今はどうも手に入りにくいようです。ちなみにこの本、上巻・下巻とあるのに、ワタシは上巻しか買いませんでした。続けて下巻を買わなかった辺りが、何ともワタシらしいなぁ、と思います。買っておけばよかったナァ・・・。さらにさらに、この上巻を、大学時代に友人に貸したまま、行方不明になってしまいました。これをもし見ていたら・・・今度会ったとき返してくれませんかね?
相川コージ先生、竹熊健太郎先生、素晴らしいバイブル、本当にありがとうございました。これを読んで育った今のワタシ、とても大好きです。