仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

松下電器(現パナソニック)創業者・松下幸之助氏の「宇宙の根源」と自然の観察

2017年07月09日 17時36分05秒 | 想念の力、般若心経、仏教
松下電器(現パナソニック)創業者・松下幸之助氏の「宇宙の根源」と自然の観察

A.序

巽先生の所で般若心経を学ばれ、20数年間にも渡る喘息を治され、その後、全く何もない所から、売上高100億円以上の巨大企業を作り上げられた日研フード社長の越智宏倫氏(故人)が、大明呪に関する何冊かの本を書いておられましたので、読んだことがあります。

日研フードのホームページは次のアドレスです。
http://www.nikkenfoods.co.jp/
創業以来の歴史は次のアドレスです
http://www.nikkenfoods.co.jp/50th/index.html


越智氏の著書は、アマゾンを検索すれば、一覧が出力されますので、一度ご覧になると良いと思います。
大明呪に関連する著書としては、次のものがあります:

(a)真実の「般若心経」あなたの願望を実現する 真実の「般若心経」1995/3 巽 直道、 越智 宏倫

(b)治る、治る、あなたもきっと治る (肯定哲学ノート (2))1991/11

(c)できる、できる、あなたもきっとできる (肯定哲学ノート) 単行本 – 1990/10 越智 宏倫 (著)
「できる」と唱えれば“できていく”―この深い意味合いに気づき実践するとき、あなたの人生は輝かしいものとなる。
この本は、次のアドレスに全文が公開されています。
http://www.netga.jp/book/07success/book/0711.pdf


越智氏が著書の中で、松下電器(現在のパナソニック)創業者の松下幸之助氏のことを書いておられましたので、何冊かの松下氏に関する本を読んだことがありましたが、その後は松下氏の本は全く読まなくなっていました。
しかし最近、ふとしたことから松下幸之助氏の側近であった江口克彦氏の次の本を読む機会がありました。

『成功の法則―松下幸之助はなぜ成功したのか
江口 克彦 (著)
出版社: PHPソフトウェアグループ (1996/11)』

松下電器(現在のパナソニック)創業者の松下幸之助氏が、世界でも最も偉大な経営者の一人であると評価されているのは皆さんも良くご存じのことと思います。

アダムスキー氏は、自然は「宇宙の英知」の現れであり、自然の観察を行うように説かれていました。
それと同様に、松下氏は、天地宇宙・自然の観察を独自に行い、自然の理法、「宇宙の根源」の存在を述べておられます。
松下氏は、この「宇宙の根源」から全てのものが生まれてきていると考えられ、自宅の庭に「根源の社」を作られていたそうです。
ただし、「根源の社」には、既存の宗教のいかなる神も祀られておらず、社の中は空っぽだったそうです。
松下氏は、宇宙の根源を「根源さま」と名付けて信仰されて祈りをささげられていたそうです。

既存のいかなる宗教にも捉われず、森羅万象、宇宙、万物の根源を見出すというのは、凡人にできることではないと思われ、松下氏の非凡な才能を示す逸話であると思われます。
松下氏の「根源」は、釈尊の説かれた「空」、イエス・キリストの説かれた「天の父」、アダムスキー氏の説かれた「宇宙の英知」と同じようなものであると私には思われます。

松下氏が独自に考えられた「根源」に関する解釈はこれらと類似しており、なかなか興味深いものがありますから、関連部分をご紹介します。


備考
アダムスキー氏は、著作の「生命の科学」や「テレパシー」で、「宇宙の英知」という1つの存在を言い表すのに、例えば次のような数多くの異なる抽象的な言葉(表現)を使われています。

『神、創造主、全創造物の父、至上なる英知、因なる英知、因、至上なる存在、宇宙の英知、最高の英知、宇宙の因、意識的意識』

これがアダムスキー氏の論説や著作の特徴の一つです。
1つのものを言い表すのに、これほど異なる言葉を使うと、我々には、全く分からなくなります。
やはり、最初に、「宇宙の英知」に関して、その性質を明確に定義して解説し、最初から最後まで1つの言葉で解説をしないと、系統的な説明はできないと思われます。

「宇宙の英知」の定義と解説をせずに、「宇宙の英知」という未知の抽象的な言葉を、定義と解説をしていない別の抽象的な言葉に次々に置き換えていっても、説明したことにはならず、誰も何も理解できません。

我々が学ぶ自然科学では、「現象を言い表す言葉とその定義」は、最も基本的なものとして非常に重要視されており、何らかのものを新たに学んだり教える場合には、最初に「現象を言い表す言葉とその定義」を明確にしておくのが当たり前です。
アダムスキー氏の著作は、新しい抽象的概念を説明する際に、その定義と説明が不十分であることが多いので、理解できなくて困ります。



B. 松下幸之助氏の「宇宙の根源」と自然の観察

松下氏の著書『成功の法則―松下幸之助はなぜ成功したのか』(p.249~)に書かれている自然に関する見解は、アダムスキー氏の主張に類似しています。


(1) 43自然の理法に従う
思い悩んだときは、天地宇宙を考え自然を眺めてみる

「わしは学校を出ていないから、きみたちのように学問や知識を頼りにすることはできなかった。
世間の人たちの言うことも、いったいどれが正しいのか、正直なところ判断ができない場合が多かった。
それで、わしはなにをひとつの拠りどころにしたかというと、この宇宙とか自然とかつまり万物というかそういうものやったな」

難しい問題にぶつかる。どうしようかと思い悩むことがある。そんなときにじっと天地宇宙を考え、自然を、周りの景色を眺めてみる。
お日さまをみていると、ああ、素直な心で考え、行動しなければと、自然に感じられてくる。お日さまは何に対しても分け隔でなく陽射しをおくっている。人間にも動物にも、植物や虫たちにも。

あの人はいい人ですから陽を当てることにします、この人は悪い人ですから陽は当てません、ということはない。人間には当てるが植物には当てません、ということもない。その現象は、まったくとらわれてはいない。
お日さまだけではない。この宇宙にあるすべての営みが、自己にとらわれていない。月も風も森の木々も、それぞれの考えや立場や主義主張にとらわれて行動を起こしているのではない。

「考えてみればこの宇宙に存在する一切のものが、自然の理法に従って、おのれにとらわれず、それぞれの行動をしておるんや。人間も宇宙自然の存在ならば、同じように自然の理法に従って、自分にとらわれず考え、行動しないといかん」

もう二十数年も前になるが、松下の用件をもって司馬遼太郎さんを訪ねたことがあった。
そのときに司馬さんから「ことを考えるときには、一人広大な砂漠にいるという思いで考えることが大切なのです」と教えていただいた。素直な心で考えるときの、わかりやすいたとえであると、深く記憶に残っている。
こだわらず、とらわれず、素直な心で考える。行動する。そのときに私たちは、正しい判断をすることができる。



(2) 44生成発展こそ自然の理法
宇宙万物は生成発展している。
そうみたほうが幸せにつながる

春になると新しい芽がでて、やがて若葉から濃い緑になっていく。枝は伸び、年々歳々同じからず。
そのような風景を見ていると、なんとなく自然の理法というものを実感することができる。

「自然の理法とはなにかということは、ようわからんけど、万物を万物たらしめている力、あるいは法則といったもんやろうな。水が高いところから低いところへ流れるのも、物が上から下へ落ちるのも、まあ、自然の理法というもんやろう。そういう理法が厳然としてこの宇宙万物に働いておる。
そういう自然の理法というものの特質とはなにかと言えば、それは生成発展ということだとわしは思っておるんや」

仏教ではこの世は無常だという。常ではない、すなわち動いているということである。宇宙全体、万物ことごとくが常に動いている。そこまでは誰も異論がないであろう。さて、その動き方をどうみるか。衰退とみるか、発展とみるか、不変とみるか。この世自体は何も語らないのだから、それは人間の見方にゆだねられている。

松下は生成発展であるとみた。

「なぜなら、きみ、第一そう考えたほうが人聞にとって幸せにつながるやないか。ますます発展するという理法のなかで生きておるとすれば、そこに人間の努力の意義も出てくるわな。けど、そうではない、だんだんと衰退していくんだとするならば、人聞はどんなに努力をしても意味がないということになるわな」

死もまた生成発展のひとつの姿ではないのか。新緑の葉も秋が来るとともに枯れ葉になって、散っていく。しかし、次の春には木々はまた芽を吹いて茂っていく。人間も個々の姿をみれば、死んでこの世から去って行く。しかし人間全体からすれば、それもまた生成発展のひとつの姿ということになる。
死を衰退とみるのも誰が考えたかといえば、人間自身である。宇宙が死を衰退だと言っているのでもなければ、自然がこれは衰退だと言ったのでもない。神様がといっても、直接われわれに言ったわけではない。いわば人聞が勝手にそう解釈して言っているにすぎない。
どうみるかは人間の自由ということになれば、宇宙万物は生成発展している、そういう見方をしたらいい。そのような見方のほうが人間の幸せにつながる。
そして、人聞が誕生してから今日までのことを考えてみても、生成発展とみたほうが理にかなっている。人間の最初の姿から考えれば、徐々にではあるけれど、そこに進歩の過程をみることができる。原始の昔に比べれば、明らかに人聞は発展してきている。
もし生成発展するという特質が、自然の理法によって与えられていない、あるいは自然の理法自体が生成発展の本質を持っていないとするならば、なぜ人間の歴史は発展の過程なのか。衰退が本質だとすれば、人聞は今日のような姿にはならないはずである。

「自然の理法は、生成発展の性質を持っておるんやから、ものごとは、この自然の理法に則っておるならば、必ず成功するようになっておる。
成功しないのは、この自然の理法に則っていないからで、それは自分にとらわれたり、なにかにこだわったりして、素直に自然の理法に従うようなことをせんからやな」

われわれ一人ひとりの仕事でも、企業の経営でも同じである。もともと、必ず成功するようになっている。

それがときとして成功しないのは、自然の理法に則って仕事を進めていないからである。
やるべきことをやる、なすべからざるはやらない。そうしたことをきちんとやっていれば、成功するのは一面簡単なものである。

「いい物を生産し、多くの人たちに満足されるような安価で販売すれば、商売は繁盛する。
人情の機微に即した商売のやり方をすれば、お客さんが大勢やってきてくれる。ごくごく当たり前のことをすれば、商売とか、経営というものは、必ず成功するようになっておるんや」



(3) 45ほんとうの素直とは
素直な心が人聞を幸せにし、ほんとうの成功をもたらす

自然の理法は、いっさいのものを生成発展させる力を持っている。だから、素直な心になって自然の理法に従っていれば、うまくいく。成功するようになっている。
ところが、私たちにはなかなかそれができない。自分の感情にとらわれる。立場にとらわれる。地位や名誉にとらわれる。自然の理法になかなか従うことができない。それゆえ、かえって状態を悪くする。無用な苦労をする。望むような結果が得られない。

一人一人のとらわれが、争いになり、つまるところは戦争にまで至る。
自然の理法に従うならば、もともと人間には進歩発展する本質が与えられている。一言葉を替えて言えば、平和、幸福、繁栄を実現する力が与えられている。

「それがうまくいかんというのは、とらわれるからや。素直でないからや。
だとすれば、素直でないといかん、と。素直な心こそが人聞を幸せにし、また人類に繁栄と平和と幸福をもたらすものであると、わしはそう考えたんや」

しかし松下の言う素直な心とは、人の言うことになんでもハイハイと答えるということを一言っているのではない。無邪気な心のことでもなければ、幼児の心のことでもない。それだけでは、ほんとうの素直ではない。

「ほんとうの素直とは、自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、そういうことやな」

正邪、善悪、表裏の存在を知りながら、なおかつそれにこだわらない。偏らない。とらわれない。たんなる無心でもない。自分が悟ればそれでよしとするものでもない。素直な心になることは、決して易しいことではない。

「自然の理法に従えば、と言うたけどな、それは自然の理法に従っておれば、それだけでただ何もせんでええということではないんや。それは、きみ、わかるやろ」

自然の理法はやるべきこと、なすべきことをやっている。早い話がお日さまはきちんと東から出る。西に沈む。春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る。
人間もやるべきこと、なすべきことをきちんとやれるかどうか。逆になすべからざることは絶対にやらない。そういう振る舞いができるかどうか。自然の理法に従うというのは、決してそう易しいことではない。

「まあ、わしはそういうようなことをみずから考えながら今日までやってきた。宇宙万物自然というものが、わしの先生でもあったわけやな。
わしの経営についての考え方は、経営というひとつの枠のなかだけで考えたのではない。
わしはいつもその枠を越えて、宇宙とか自然とかそういうものに考えを及ぼし、そこで得られたわしなりの結論を経営に応用したんや」

経営についての松下の考えは、全体の考えの一部であって、決して全体ではない。多くの人が松下を「経営の神様」と呼んだが、ほんとうは松下が考え続けてきたのは宇宙のことであり、万物のことであり、自然のことであり、人間のことであった。松下は経営をやりながらつねに人間の本質とはなにか、人間の幸せとはなにか、宇宙の本質とはなにか、自然の理法とはなにかということを、考え続けてきた。天地自然の中に繁栄の原理を探してきた。
らこれが松下幸之助のやり方だった。


*ブログ著者の勝手な解釈
松下氏の「素直な心になって自然の理法に従う」とは、アダムスキー氏の表現では、「宇宙の英知の経路となって、宇宙の英知の意志を実行する」となると思います。
皆さんは、どう思われますか?



(4) 46根源の社の由来
松下幸之助が感謝の意を表わし、素直を誓う場所

PHP研究所の庭の左奥に、「根源さま」の小さなお社がある。松下は研究所にやってくるとまず最初に必ず根源の社の前に円座を敷き、座禅をするように足を組んで座り、ニ~三分間ほど手を合わせていた。
根源さまとは神様でも仏様でもない。松下が勝手につくったものである。そして社のなかにはなにも入っていない。松下の「根源」という考え方が入っているだけである。

「あそこへお客さんを案内すると、必ず、根源さんというのはなんですかと聞かれるな。
いちいち説明せんといかんけど、それがあの場所では面倒やな
ハハハ
どうして根源という考えをわしが持ったかというと、こういうことや。考えてみればわしのような、なんも恵まれておらなかった者が、一応の成功をしたということは不思議やろ。
それらしい説明は、聞かれればしてみせるけどな。正直言うと、なぜこうなったのか、ほんとうのところの理由はわしにも、ようわからんのや」

松下はあるとき、これは自分を存在させてくれたものに感謝しなければいけないと考えた。誰が自分を存在させてくれたのか。それは自分を生んでくれた両親である。ならば、両親に感謝しなければいけない。
その両親はどうして存在したのだろうか。両親のそのまた両親からではないのか。
その両親は、そのまた両親からということになるのではないか。それではその両親はと、どんどん考えていくと、ついには人間の始祖になる。
とすると、人間はみんな始祖とつながっている。
今日私たちがこうして存在していることは、両親やそのまた両親に感謝しなければいけないのはもちろんのこと、初めての人間、すなわち始祖に感謝しなければ、とそう思ったという。

「ところがふと、それでは初めての人間はどこから生まれてきたのか、と思ったんや。いろいろ考えたんやけど、今度はそう簡単に答は出てこん。ずいぶんとあれやこれやと思いめぐらした結果、人間は宇宙の根源から、その根源のもつ力によって生み出されたんやと、うん、突然そうひらめいた。
そうや、宇宙の根源から生まれてきたんや。それは人間だけではない、宇宙万物いっさい
わしは見ておったわけやないからわからんけど、
その力によって生み出されてきたんやと考えた。実際にそうかどうかは、
そう考えるほうが便利がいい」

「その根源の力にひとつの決まりがある。それが自然の理法というもんや。そしてその力には宇宙万物すべてを生成発展せしめる力があると。前に自然の理法は生成発展やと言うたのは、そういうことやったんや」

今日私たちがここに存在している、

その源をたどれば、初めての人聞を通り越して宇宙の根源までにいたる。そうすると、「ここに存在できていること」への感謝の思いは、実にこの宇宙の根源に対してでなければならないということになる。それで松下は、根源の社をつくった。

私はあるとき、ひょいと「根源の社の前にお座りになって、そのあいだ何を考えているのですか」と尋ねたことがある。

「うん、今日、ここに生かされていることを、宇宙の根源さんに感謝しとるんや。ありがとうございます、とな。それから、今日一日、どうぞ素直な心ですごせますように、すごすようにと念じ、決意をしとるわけや。ここはわしが感謝の意を表わし、素直を誓う場所やな」

読者に根源の社を押しつける気持ちはまったくない。ただ、自分がそういう宇宙根源から、そして人間の始祖から連綿とつながっていると思えば、おのずと自分の値打ちの重さを感じる。そう感じれば、おのずと自分の人間としての重さを自覚する。そして、感謝の念が湧いてくる。
この感謝の気持ちを持ちながら、日々をすごすことが大切だと思うのである。
松下の毎日は感謝の日々であったといっても言い過ぎではない。それでもなお、感謝の思いが足らないと言って反省することが多かった。



*ブログ著者補足
アダムスキー氏は、生命の科学第1課で、『創造主の最高の創造物としての人間はその責任を一任されています。』と述べられています。この点に関して、松下幸之助氏は、次のように述べておられます。

(5)47人聞の偉大さを自覚する
偉大な力は使い方によって、大きな善にもなり大きな悪にもなる

「人間は偉大な存在やな。いわばこの宇宙においては王者やな。こう言うと、それは不遜や、倣慢やと、そう言う人も多いと思うけど、しかし、わしは理屈はようわからんけど、現実の姿を見れば、明らかにそういうことが言えるんと違うか。この宇宙のなかで人聞が一番偉大であると」

人聞を殺せば罪になるが、犬を交通事故で轢いたとしても、罪になるわけではない。人間のために木を植え、その木を伐っても別に罰せられないのはなぜか。犬や猫、木の立場からすれば、それはけしからんということになる。ならば犬や猫から罰せられるかといえば、そういうことはない。
人聞は牛を食べたり、ぶたを食べたりする。生命が生命を食べて生命が存続する。その順ぐりが人間のところでぷつりと途絶えるのである。どうしてそういうことが許されているのか。
人間がこの宇宙のなかで王者として存在し、君臨しているからではないのか。いわばこの宇宙に存在するすべてのものは、人間の平和、幸福、繁栄を実現するために存在していると考えられないか。

「理屈ではなく、静かに実際の現象を、素直に見て考えれば、そういう結論になるやろ。
そうやない、人間もほかの存在と同じやと。ほかの動物や植物と変わりはないと、そう考えておる人が多いと思う。けど、そういうことなら人聞は他の動物を殺しても罪にならんのやから、人聞を殺してもけしからんということにはならんがな。人と人が殺しあってもいいということになるわな。そやろ。しかし、実際はそうではないわな。それはちゃんと人聞がいちばん偉大な存在だということを認識しておるわけや」

人間は偉大ではない、罪深い小さな存在、だと言う人たちもいる。
つまらない存在を偉大だと言うことは間違っている、という批判がすぐに予想される。しかしそれでは、人聞を偉大だと考えることと、小さな存在だと考えることと、どちらが幸福な結末をもたらすであろうか。

人間が小さくつまらない存在であるならば、少々無謀なことをやっても、宇宙や自然がなんとかしてくれると思い込む。小さな存在である人間が汚水を流しても、大きな自然が、海が浄化してくれる。そう考えて、公害をだしたり、自然を破壊したりしてしまうのではないのか。そんな考え方を持ち続けているかぎり、この地球は破滅の道を進んで行くことになる。やがて人聞はみずからの手で自分の首を絞めるようになるだろう。
人間は偉大な存在なんだ、自然の理法に従えば、万物を支配し、宇宙に君臨することができるほどの、大きな力を持っているのだという考え方を一人一人が持つようになれば、地球汚染や環境破壊ということもなくなるし、やがては戦争さえもなくなるだろう。
なぜなら、人間はとてつもない力を持っていると思えば、みずからの行動がひょっとすると、この地球を、この宇宙を破壊してしまいかねない、となる。大きな存在の人聞が自然に向かってとる行動は、ひょっとすれば、取り返しのつかないほど海を汚し、森林を破壊し、空気を汚染してしまうかもしれない。地球どころか宇宙さえ破滅しかねない。自然の理法に従っていないと、たいへんなことをしてしまう、と、当然思いはそこにいたる。

「ああ、人聞は偉大な存在なんだ、と思えば、そうとう大きな力を持っておるのだから、みずからの行動もほどほどにしないといかん。それに人間は万物の王者であるから、それなりの自覚と責任をもって、自然万物に相対していかねばならん。王者としての責任を果たさないといかん、という気分になる。それが人情や。
それを人間はつまらん存在だ、罪深い存在だと言われつつ、それで責任ある行動をとれと言われでも、そういうことは言われるほうがわりにあわんわな。きみかて、ヒラ社員やけど社長の責任を果たせと言われでも困るわな。それなら私を社長にしてくださいと言いたくなる。
人間がつまらん存在だとするのは、わしからすれば、無責任になってもいいという意味に聞こえる。自然を破壊し、公害や汚染をだすように勧めておるようなもんやな」

しかし松下は、人間の力が偉大だとは言っているが、人間は本来善であるとか悪であるとか、強いとか弱いと言っているわけではない。
人聞は偉大な力があるから、その力の発揮の仕方によって善は大きな善になるし、悪は大きな悪になると言っているのである。
よく切れる包丁は、それ自体は善でも惑でもない。使い方によって善になり悪になる。
どう使われるかが大事だということである。
ここを誤解すると、松下の人間観は倣慢だ、不遜だという誤った解釈になる。

しかし、文明の発展度合いと歴史的背景から仕方ないとはいえ、いままでの人間観はあまりにも人間の力を軽視していた。現在の科学技術と未来におけるさらなる発展から考えると、松下の「人間が自らを王者として自覚しなければ、この宇宙の全生命は救済されない」という考え方は、これからの人類の歴史において重要な位置を占めることになるだろう。

「人聞は偉大である。人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。
そういう新しいというか、正しい人間観を人類が確立せんかぎり、人聞は平和と幸福と繁栄を手に入れることは不可能やと思うな」

(以上)

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