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サンスクリットから大明呪『ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー、掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶』を解釈

2017年05月13日 15時48分34秒 | サンスクリットからの般若心経の解釈
サンスクリットから大明呪『ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー、掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶』を解釈

要約
(1)般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」は、般若心経・大般若経で『大明呪』などと呼ばれる呪文であり、サンスクリットから『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし』と翻訳できる。

(2)サンスクリットの経典の末尾の「iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam」は、
『彼岸に渡るための智慧(叡智)の核心が完結した』
と翻訳できる。

つまり、大般若経に非常に数多く書かれている『般若波羅蜜多』という言葉は『彼岸に渡るための智慧(叡智)』であることを意味しており、それは『大明呪』などと呼ばれ、それを『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし』と唱える方法を教えるのが般若心経である。
それは大般若経の核心、つまり大乗仏教の核心の経典であり、それがここに完結したことを宣言していると解釈できます。


1.般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」とは、般若心経・大般若経で大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪と呼ばれている
『ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶』
という呪文であり、これを漢訳ではなく、サンスクリットから翻訳した2つの文献から考察しました。


(1)中村元・紀野一義両氏の著書 「般若心経・金剛般若経 (岩波文庫1960/7/25)」

出典:
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)
中村 元 (翻訳), 紀野 一義 (翻訳)
出版社: 岩波書店; 改版 (1960/7/25)


本文のp.15には次のように呪が訳されています:

『ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)48』

註のp.36には次のように書かれています:
『48住ける者よ・・・・
この真言は文法的には正規のサンスクリットではない。俗語的な用法であって種々に訳し得るが、決定的な訳出は困難である。
この真言は本文の内容を総括的に神秘的に表出するものであるから、古来、不翻(翻訳しない)とされている。
だから漢訳もチベット訳も音写のみで、内容を訳していない。
ここにはただ参考のため、一訳をかかげた。
原文は、gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā. である。
gate以下の四語は恐らくgatāなどという女性形単数の呼格(vocative)であろう。
完全な智慧(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと解せられる。
bodhiも呼格である。(Cf. Edgarton: op.cit. p.71, §10.34)
スヴァーハーは、願いの成就を祈って、呪の最後に唱える秘語である。
白石教授は「弥栄(いやさか)」と訳しておられる。
またgateを於格(locative)に解すると、次のようにも訳し得る。
往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあれ、スヴァーハー
ともかくいずれにしてもpāramitā(到彼岸)という語の通俗語源解釈に従っているのである。』


ブログ著者の解釈
中村元・紀野一義両氏は、
「この真言は本文の内容を総括的に神秘的に表出するものであるから、古来、不翻(翻訳しない)とされている。だから漢訳もチベット訳も音写のみで、内容を訳していない。ここにはただ参考のため、一訳をかかげた。」
と述べておられますから、著者の基本的スタンスは、古来からの伝統に従い、この呪は翻訳しないで神秘的な原語のままにしておくというものです。
つまり、基本的には、呪文の意味を考察することは考えずに、原語のまま唱えるとされています。

しかし、本文と註に参考のための訳があり、中村元・紀野一義両氏の呪の訳は
「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」
「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあれ、スヴァーハー」
の2つが書かれています。

この訳に登場する「彼岸に行く(渡る)」では、人の知識・知恵では渡ることのできない大河の両岸を想定して、人の願いがまだかなっていない状態を「此岸(しがん)」、願いがかなった状態を「彼岸(ひがん)」と想定します。

中村元・紀野一義両氏のこの2つの訳では、「此岸(しがん)」から「彼岸(ひがん)」に、「行く(渡る、渡った)」、「完全に行く(渡る、渡った)」ことが呪に含まれていることが分かります。


(2)大崎正瑠氏(日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)のサンスクリットの翻訳に関する考察

文献名
サンスクリット原文で『般若心経』を読む
大崎 正瑠 (日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)
総合文化研究第19巻第1・2 号合併号(2013.12)p.41-59
http://www.bus.nihon-u.ac.jp/laboratory/pdf/oosakimasaru.pdf

著者経歴
http://camp.ff.tku.ac.jp/tool-box/TKU/faculty/data/osaki.html
東京経済大学の教員一覧:大崎 正瑠
大崎 正瑠:教授:経済学部:ビジネス英語:
略歴:おおさき・まさる
1944年9月生まれ。
慶應義塾大学商学部卒業。キャノン株式会社等勤務を経て、早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。
大妻女子大学助教授、教授を経て、1999年、東京経済大学経済学部教授。
研究分野は、ビジネス・コミュニケーション、異文化コミュニケーション。
日本コミュニケーション学会理事(1998-2000)。
主要著作: 『ビジネスレターの英語』(1994:荒竹出版)、『ビジネス・コミュニケーション論』(1995:西田書店)、『韓国人とつきあう法』(1998:ちくま新書)、『英文契約書を読みこなす』(1999:丸善ライブラリー)
(資料:ご本人からいただいた情報:『CAMPUS NETWORK』68,p6)


サンスクリットの般若心経のテキストには様々なものが知られているそうですが、大崎正瑠氏は、「中村元が校訂したテキストを基準とした」と書かれていますから、(1)のものと同じサンスクリットの経典に関する検討です。


大崎氏の翻訳と解釈は次のように記載されています:

『❖ gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.:揭帝 揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝 菩提僧莎訶
【試訳】行った,行った,彼岸に行った。彼岸へ完全に行き着いた。悟りよ,幸いあれ!

 gate には,少なくとも3つの解釈がある7)。
① 根√gam-「行く」「着く」の過去受動分詞gata- の男性・単数・処格で非人称絶対処格構文。
② 去受動分詞gata- の女性形gatā-「行く人」の単数・呼格。
③ gati-「行くこと」の女性・単数・呼格。
②と③ではprajñāpāramitā (f.)「智慧の完成」を,女性尊格として呼びかける。
pāra-saṃgate は, pāra-(adj.)「向こうへ」「彼岸に」,saṃ-(pref.)「完成」,gate と合わせて「完全に彼岸に行き着いた」という意味となる。
bodhi-(m.,f.)「悟り」は,女性名詞bodhī の単数・呼格で問題ないが,男性名詞ではどの数・格でも該当しない。
従って文法的には上記②と③が正しいとの見方があるが,この呪文の箇所は,梵語として正規でないとの説もあるので,柔軟に考えてみたい。音写とするのが一番無難ではあるが。svāhā は,祈祷の終わりに用いるもので,「幸いあれ!」である。
漢訳者がこの部分を訳さず音写にしたのは,呪文だから訳さない方がいいという理由の他,決定的な訳が不可能という理由があるようだ8)。』



(3)ブログ著者の解釈

中村元・紀野一義両氏の呪の訳は、
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。
往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあれ、スヴァーハー
の2つが書かれています。

この訳に登場する「彼岸に行く(渡る)」では、人の知識・知恵では渡ることのできない大河の両岸を想定して、人の願いがまだかなっていない状態を「此岸(しがん)」、願いがかなった状態を「彼岸(ひがん)」と想定します。

中村元・紀野一義両氏のこの2つの訳では、「此岸(しがん)」から「彼岸(ひがん)」に、「行く(渡る、渡った)」、「完全に行く(渡る、渡った)」ことが呪に含まれていることが分かります。


大崎氏は、大明呪「gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā」を
「行った,行った,彼岸に行った。彼岸へ完全に行き着いた。悟りよ,幸いあれ!」
と翻訳されています。

この大崎氏の解釈でも、「此岸(しがん)」から「彼岸(ひがん)」に「行った(渡った)」、「完全に行った(渡った)」ことが呪に含まれていることが分かりますので、この部分は(1)で述べた中村元・紀野一義両氏の解釈と一致しています。

中村元・紀野一義両氏は、スヴァーハー菩提僧莎訶について、
『スヴァーハーは、願いの成就を祈って、呪の最後に唱える秘語である。白石教授は「弥栄(いやさか)」と訳しておられる。』
と書かれています。

いや‐さか【弥栄】 の意味は、デジタル大辞泉によれば、次のように書かれています。
[名]ますます栄えること。「国の弥栄を祈る」
[感]繁栄を祈って叫ぶ声。ばんざい。

このため、スヴァーハー菩提僧莎訶は、日本語に訳すと、「万歳」「めでたし」という意味に解釈しても良いと思われます。

以上より、中村元・紀野一義両氏と大崎氏のサンスクリットの翻訳に基づいて、大明呪は、次のように翻訳しても正しい解釈であると考えられます。
『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし』



2.サンスクリットの般若心経の最後の言葉『iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam.』は、『彼岸に渡るための智慧(叡智))の核心が完結した』と述べている


(1)中村元・紀野一義両氏の著書 「般若心経・金剛般若経 (岩波文庫1960/7/25)」は、この『iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam.』の部分は、
『ここに、智慧の完成の心が終わった』
とサンスクリットから翻訳しています。
hṛdaya-(n.)は、『フリダヤとは心臓の意味であるが、ここでは精髄、精要を意味する』として「心」「心臓」「精髄」「精要」と解釈しています。


(2)大崎正瑠氏(日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)のサンスクリットの翻訳
サンスクリット原文で『般若心経』を読む
大崎 正瑠 (日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)
総合文化研究第19巻第1・2 号合併号(2013.12)p.41-59
http://www.bus.nihon-u.ac.jp/laboratory/pdf/oosakimasaru.pdf
には、
サンスクリットの般若心経の最後の結びの言葉について、次のように解釈されています:

『❖ iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam.:般若波羅蜜多心経
【試訳】『般若心経』が完結した。
 iti(adv.) は,色々な意味があるが,ここでは引用符の意味と解釈する。
 Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ は,Prajñāpāramitā-(f.)「智慧の完成」+ hṛdaya-(n.)「心」「心臓」で,格限定複合語となる。
合わせてPrajñāpāramitā-hṛdaya の中性・単数・主格。直訳は『智慧の完成の心』であるが,ここでは日本でよく知られている『般若心経』とする。
『般若心経』は,お経ではなく膨大な『般若経』600 余巻のうち『摩訶般若波羅密経』(『大品般若経』)の「神髄」を纏めたものとする見方があるが,確かに「心臓」にはものごとの「中心」「芯」「核心」という意味がある。
hṛdaya は,英語のheart およびcore とともに同じ語源を共有する9)。
 samāptam は,sam-(pref.)「完成」+語根√āp-「達する」の過去受動分詞āpta- の中性・単数・主格である。全体として「完結した」。』


(3)ブログ著者の解釈

iti(adv.) は,大崎氏に従い、引用符の意味と解釈します。

Prajñāpāramitā-(f.)は、中村元・紀野一義両氏と大崎氏が採用されている通説の「智慧の完成」ではなく、既に述べたように『彼岸に渡るための智慧(叡智)』と解釈します。

hṛdaya-(n.)は、中村元・紀野一義両氏と大崎氏に従い、「心」「心臓」と解釈し、「心臓」にはものごとの「精髄」「精要」「中心」「芯」「核心」という意味があるため、ここでは『核心』という言葉を選択します。

samāptam は,大崎氏に従い、『完結した』と解釈します。

全体として、iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptamは、
『彼岸に渡るための智慧(叡智)の核心が完結した』
と翻訳できます。

つまり、大般若経に非常に数多く書かれている『般若波羅蜜多』という言葉は『彼岸に渡るための智慧(叡智)』であることを意味しており、それは『大明呪』などと呼ばれ、それを『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし』と唱える方法を教えるのが般若心経である。
それは大般若経の核心、つまり大乗仏教の核心の経典であり、それがここに完結したことを宣言していると解釈できます。



3. 般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(英知)」=「大明呪」の使い方

「彼岸に渡る」では、人の知識・知恵では渡ることのできない大河の両岸を想定して、人の願いがまだかなっていない状態を「此岸(しがん)」、願いがかなった状態を「彼岸(ひがん)」と想定します。

ブログ『般若波羅蜜多prajñāpāramitāは、サンスクリットから「彼岸に渡るための智慧(叡智)」と訳することは可能』
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/b5e3d537cac572b818f491f56df45458
にまとめたように、
此岸から彼岸に渡って願いをかなえるための『根源的な叡智』が、『般若波羅蜜多prajñāpāramitā彼岸に渡るための智慧(叡智)』であるという解釈になります。


その「彼岸に渡るための智慧(叡智)」とは、次のような素晴らしい呪文であると般若心経と大般若経に説かれています:

(1)般若心経: 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し、罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離して、究竟涅槃す。
翻訳: 菩薩(凡人から聖者までの真理を知り願いを叶えたいと思っている人)は、「彼岸に渡るための智慧」を実行するので、心に怒りや不安のようなとらわれがない、とらわれがないので恐怖心がない、全ての間違った考えを捨て去って、願いをかなえている。

(2)般若心経: 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
翻訳: 現在・過去・未来の仏様も、「彼岸に渡るための智慧」を実行されるので、無常正等正覚と呼ばれる素晴らしい悟りを達成された。

(3) 般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」は、「大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪」と呼ばれている呪文である
般若心経: 故に知るべし、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり。
翻訳: だから知るべきである。「彼岸に渡るための智慧」は、偉大な神と呼ぶべき呪文(大神呪)である、偉大な智慧の呪文(大明呪)である。これより上のものはない呪文(無上呪)である、これに等しいものはない呪文(無等等呪)である。

(4)その呪文は「能除一切苦(全ての苦しみを取り除く能力を持つ)、真実不虚(真実であって嘘ではない)」
般若心経: 能く一切の苦を除く(能除一切苦)。真実にして虚ならず(真実不虚)。
翻訳: 全ての苦しみを取り除く能力を持つ。これは真実であって嘘ではない。
(ブログ著者注: 現実の有効率は80-90%。詳しくはブログの記事『能除一切苦: サンスクリットからの翻訳と能除一切苦の現実』
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/e7d142a03d373b2f1b097b715c416fbe
を参照)

(5)その呪文の唱え方は、般若心経によれば
「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」
「渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし」
である


般若波羅蜜多である大明呪「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」が「一般形(一般式)」で書かれており、具体的な個々の目的に合わせて自由に変形させて使うという、大明呪の具体的な使い方に気づき、実行され、多くの人の命や人生を救われたのは巽直道先生でした。

一般式とは、例えば数学の1次関数を一般式で y = ax + bと書き、aとbを変化させることにより、無数の1次関数を作ることができます。
これと同様な書き方が大明呪「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」でも行われており、これは一般式です。
大明呪を一般式の元の形(原形) 「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」「渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし」で唱えても効果はありません。
具体的な個々の目的に合わせて変形させて使う必要があります。

例えば、
病気の場合には、「治る、治る、きっと治る」「治った、治った、完全に治った」
何かをやりたい場合には、「できる、できる、きっとできる」「できた、できた、完全にできた」
と、声に出して、あるいは心の中で、何千回、何万回、何十万回も唱え続けると、願いがかない、苦しみから解放されます。
(空=言葉には時間・空間が存在しませんから、呪文を過去形、現在形、未来形のいずれの時制で唱えても同じ効力があります)

経典は抽象的・一般的に書かれており、これだけでは分かりにくいので、具体的な大明呪の応用と実績に関しては、詳しくは、巽直道先生の著書とサイトをご覧ください。
60年余りに渡る膨大な症例の実績があります。
http://www.maroon.dti.ne.jp/jikidoukai/


(備考: 以下の部分の詳細は、ブログの記事
『(2015年1月24日改訂: 青字部分) 想念の力: 一切の苦しみを除く般若波羅蜜多「大明呪」の調査』
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/352e5efcc677944eeeb28be52e505bc2
を参照して下さい。)


大般若教600巻には、般若波羅蜜多が大明呪などと呼ばれる極めて重要な呪であるとは書かれていますが、非常に奇妙なことにその呪の実行方法は全く書かれていません。

しかし、般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)には、般若波羅蜜多の呪文の実行方法が「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」であるとはっきりと書かれています。

「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」という言葉自体が大般若教600巻には存在しません。
このことは、東京大学大学院の「SAT大正新脩大藏經テキストデータベースSAT 2012やSAT2015」にキーワード「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」を入力して検索すれば、大般若経からの出力は全くないことが確認できます。

このため、大般若経600巻だけを学んでも、般若波羅蜜多の大明呪の実行方法を手に入れることができません。
般若心経を正しく解釈して大明呪を行じなければ般若波羅蜜多は手に入りません。

これらの事実により、般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)は、大般若経600巻の肝心要の部分である般若波羅蜜多の大明呪の実行方法「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」を教えるための、仏教の中でも最も重要な経典であると考えられます。

なぜなら、般若波羅蜜多である大明呪「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」の実行により、一切の苦厄を解消し、菩薩が涅槃され、仏陀が無上正等正覚を達成されるからです。

このため、般若波羅蜜多である大明呪の行法が膨大な量の大般若経600巻の中に埋没しないように、大般若経600巻とは別に、わざわざ独立させて般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)を説いて、大明呪の実行方法「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」を教えたと考えられます。

般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)は、般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」=「大明呪」の実行方法を教えるという特別な位置づけをされており、仏教の核心中の核心であると思われます。
しかし、今では、このことに一般の学者や僧侶は誰も気づいていません。

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