不思議活性

青春の旅・・・ 5・6

     5


宗教とは何かの信条の探索じゃない
宗教とはまさに自分の実存の基盤そのものを知ろうとする
まさに自分の存在の岩盤そのものに触れようとする努力だ
その自分の存在の岩盤の体験が
われわれが<真実>という言葉を使うときの意味なのだ
それは実存的なものだ
それはひとつの<体験>なのだ

〇牛を手なづける

“鞭と手綱は必要だ
さもないと
彼はどこかの泥んこ道へそれかねない
よく手なづけられれば
彼も自然におとなしくなる
そうなれば、つながれなくても
彼は主人に従う”

    6


〇牛に乗ってわが家に帰る

牛に乗って
ゆっくりと私はわが家に向かって帰る
私の横笛の音は
夜のしじまに響きわたる
手拍子で脈打つハーモニーをうたい
私は無限のリズムを取る
この調べを聞いた者は
誰でも仲間にはいるだろう”

 * * * * * 

“鞭”は覚醒のシンボルだ
そして“手綱”は内なる統制のシンボルだ
覚醒と統制とは探求者にとって最も基本的なものだ
もし覚醒なしに自分を統制したら
あなたは幽霊に、ロボットになるだけだろう

訓練は必要だ
が、訓練はゴールじゃない
訓練というのはひとつの手段にすぎない
最後には、人は訓練から抜け出してこなければならない
一切の統制を忘れ去らなければならない
もし、あなたが
自分の統制の中にい続けなければならないとしたら
それはただ
その統制がまだ自然なものでないことをあらわしているのだ

はじめのうち
あなたは油断しないようにする
自分の心のエネルギーに新しい通路をつくるのだ
だんだんと、その必要はなくなる
だんだんと
油断しないでいる必要さえもなくなってゆく
人はただただ気をつけているのだ
油断しないでいようとするんじゃない
そうして
その油断のなさが自然になったとき
瞑想がなされるのではなくてただただ起こり続けるとき
はじめてそこに開花がある
それはまさにあなたの<風土>そのものになっている
あなたはその中に生きる
あなたがそれなのだ

“そうなれば、つながれなくても
彼は主人に従う”

 
* * * * *

もしあなたが主人だったら
<心>は影のようにあなたに従う
もしあなたが主人じゃなかったら
あなたのほうが影のように<心>に従わなければならない
そして、<心>というのは外向きのエネルギーという意味であり
<瞑想>というのは内向きのエネルギーという意味だ
同じエネルギー__
ただ向きが違うだけなのだ

 * * * * *

もしあなたが牛を探し探し求めることに本当に興味があるのなら
そのときには、半身で仕事にかかることは無用だ
もし探求したかったら
そのときは、自分自身を全面的にその中へつぎ込みなさい
もし探求したくなかったら
そんなことは全部忘れてしまっていい
世間にトータルにはいって行きなさい
いつか別な日が
探索を始めるのにふさわしい時なのだろう

 * * * * *

一度あなたが生とは何であるかを知ったなら
途方もない美しさがあなたの実存の中に湧き上がる
あらゆるものが光り輝いている
<神>に照らされている
ひとつひとつの石が法を説き
ひとつひとつの静寂が歌となる
人はその祝福が
絶えることなく自分の上に注がれ続けているのを感ずる

“牛にまたがって、頭上の雲を見る。誰が呼び戻そうと、あくまで先へ進もう。”


・次回に続く・・・・。

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