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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

老子道徳経 71

2024-03-31 06:30:20 | 老子道徳経

  第七十一章 知病(強知の病)

知りて、知らずというは 上 なり。
知らずして、知るというは 病 なり。
夫唯(ただひと)り 病 を病む。是を以て病まず。
聖人の病まざることは、其の 病 を病むを以て、是を以て病
まず。

 知らないことを、知っているように言ったり、知っているように装ったりすることの多いのは、古から今日に至るまで変らないようであるが、これは、自分を物識だと思われたいたいとか、知らないと恥だとか、知らないと軽視されるとか、何れも強い競争心から起こっていることである。しかし、このことは、人を欺き、自分をも欺くことであって、いつかは偽がわかり、信用を失うことになるのは免れ難いことである。
 誰でも悪いことだと知りながら、知らないことを知っているように装うのであるから、これは万人に共通にある、心の病とも言うべきものである。
 以上に述べたように、知らずして、知っているように装うことは病だと分り、この病を避けるように注意を怠らぬようにするならば、病にかかるおそれはないのである。
 聖人は、病を最もよく知っている人であって、常に慈の心をもって人に接しているのであるから、人が知らないこと、人がひけめを感じるようなことは、決して知っているようには思わせないようにするのである。


老子道徳経 70

2024-03-29 06:09:49 | 老子道徳経

  第七十章 知難(世に知り難い)

吾が言は甚だ知り易く、甚だ行ない易し。
天下能く知ること莫く、能く行なうこと莫(な)し。
言に宗有り、事に君有り。
夫唯(よのひと) 知ること無し。
是を以て、我を知らず。
我を知る者は希なし。我に則る者は貴 し。
是を以て、聖人は褐(かつ)を被(き)て 玉 を 懐(ふところ) にす。

 言葉には主となるもの、基となるものがあるのである。道の言葉の主となるものは、無である。無は無の心、私心のないことを現わすのであって、無私の心に生ずるものは、慈愛の心である。慈愛の心から、すべてのものを大切にする、倹の心が生じ、すべてのものと争わない、譲るという心も生ずるのである。

 第一章と第六十二章において述べたように、無欲になって座るということを習慣とすれば、無の心になることは容易であって、老子の言うことは解りやすく、行いやすいということも明らかになるのであるが、言うことが余り簡単であるために、却って信ずる人が少ないことは、第四十一章に述べた通りである。以上のようなわけで、老子の言うことを知ることができないから、老子を知ることができないのである。

 聖人は貴いところの徳を備えているが、総ての人からよく理解されないところでは、粗末な衣服をきて、目立たない姿でいるのである。


老子道徳経 69

2024-03-23 06:09:02 | 老子道徳経

 第六十九章 玄用(玄を用いる兵法)

兵を用いるに言えること有り。
吾、敢えて主為らず、而して客為(かく た)り。敢えて寸に進まず、
而して 尺 に 退 くと。
是を、行くに行無く、攘(かか)ぐるに 臂 (ただむき)無く、
仍(ひ)くに敵無く、執るに兵無し、と謂う。
禍は敵を軽んずるより大なるは莫(な)し。敵を軽んずるは吾が宝
を 喪 うに幾し。
故に、兵を抗げて相加(あいのぞ)むに、哀れむ者は勝つ。

 古の兵家の言葉として、次のようなことが伝えられている。
 もし兵を用いなければならぬことがあるときは、我からは決して兵を挙げてはいけない。先方から仕向けられたときに、やむことを得ず受けて立つようにせよ。一寸と雖も進むことは、いやしくもしてはいけないが、退くことならば、何尺にても退くようにせよ、と。

 故に、やむを得ずして兵を挙げたならば、敵を軽視することのないように、常に兵の艱苦を思い、慈の心をもって哀れむようにするものは、兵を傷つけることも、物資の損害も少なくてすむわけである。これに反して敵は、無理をして戦いを挑んでいるのであるから、その状態を長く続けることは困難であり、自軍の中に不平や、不和を生じるようになって、自ら敗れ去る公算が多いから、慈の心のある者、哀れむ者は勝つということになるわけである。



老子道徳経 68

2024-03-21 06:08:00 | 老子道徳経

 第六十八章 配天(天に配列すべき高い徳)

善く士為(た)る者は武(たけ)からず。
善く 戦 う者は怒らず。
善く敵に勝つ者は与(くみ)せず。
善く人を用いる者は之が下を為す。
是を不争の徳と謂う。
是を人の 力 を用いると謂う。
是を天に配すと謂う。
古 の極まりなり。

 この章は、謙下の徳と、不争の徳は、自然に、人の力を用いるようになるものであって、これは天の道に適った極意であるということを説く。

 武ならざること、怒らざること、ともに戦わざること、人の下となることは、私の心、対立する心、争う心がないからできるので、以上の徳は、不争の徳である。
 
 不争の徳も、謙譲の徳も、その根本は私心がないから成立つのである。そこへは、百谷の水が、紅海へ向って流れるように、自然に引きつけられて行って、その力を奪いたい、というようになるのである。故に、不争の徳と、謙譲の徳をもって人の力を用いることは天の道に適ったことであって、道に通ずる極意ともいうべきものである。

 与にせずは、相手と闘わないで、うまくかわすことをいう。
 天に配すは、道に一致することをいう。



老子道徳経 67

2024-03-19 06:17:43 | 老子道徳経

 第六十七章 三宝(三つの宝)

天下皆、我を大にして不肖に似たりと謂う。
夫れ、唯大なり。故に不肖に似たり。
肖なるものの若きは久し。其の細(くわ)しければなり。
夫れ、我に三宝有り、持して之を 宝 とす。
二に曰く、倹。
三に曰く、敢えて天下の先と為らず。
慈あり、故に能く勇なり。倹あり、故に能く広し。
敢えて天下の先と為らず、故に能く成器(せいき)の 長 たり。
今、慈を舎てて且だ勇に、倹を舎てて且(た)だ広く、
後を舎てて且だ先んずれば、死せん。
夫れ、慈以て戦えば 則 ち勝ち、仁以て守れば 則 ち固し。
天将に之を救わんとして、慈を以て之を衛(まも)る。

 我には三宝があって、宝としてこれを守っているのである。その一は慈である。他の一は倹である。もう一つの他のものは、敢て天下の先とならない、ということである。
 慈は柔和であるが、勇を生ずるものである。
 女は柔和であるが、母となって子をいつくしみ育てるようになると、自分のことを思わないようになり、無私になるので、おそろしいものがなくなり、勇気のある強いものとなるのである。無私無欲となったものより強いものはないわけであるが、慈は、無私無欲となるから強くなり、勇を生ずるようになるのである。

 慈は、常に幼き者、弱きものをかばい育てよう、憐み、いつくしもうとする心をいう。
 倹は、慈の心を広く万物の上に押しひろげた心をいうのである。総てのものが命を有するものであるように大切にし、物の価値を充分に尊重し、徒費をせぬように経済的に、合理的につかうことである。
 広は、多方面にわたることを指す。


老子道徳経 66

2024-03-15 06:14:57 | 老子道徳経

 第六十六章 後己(己を後にする)

江海の能く 百谷(ひゃっこく) の王為る所以(ゆえん)の者は、
其の能く之に下るを以ての故なり。
故に能く 百谷 の王為(た)り。
是を以て聖人は、人に上たらんと欲すれば、必 ず言を以て之
に下る。
民に先んぜんことを欲すれば、 必 ず身を以て之に後(おく)る。
是を以て聖人は、上に処れども民は重しとせず、前に処(お)れ
ども民は害せず。
是を以て、天下推すことを楽しみて厭わず。其の 争 わざる
を以てなり。
故に天下能く之と 争 うこと莫し。

 江海は、天下のすべての谷の水を下り来らしめ、無限の水をたたえている有様は、天下のすべての谷に対して、王者と万民の関係をなしているのである。
江海が、何故に王者の地位に居ることになるかというと、それは、紅海が、どの谷よりも低い位置にあるからである。

 聖人は、いつも謙下の態度でいるから、上にいても、民は少しも威圧を感じたり、煩わしいと思ったりすることなく、また、先にいても、妨げになるとは考えないのである。
 聖人には、何事についても我意を徹すということ、争うということがないからである。従って、天下において、聖人と争うというものは、ありえないということになるのである。


老子道徳経 65

2024-03-13 06:18:09 | 老子道徳経

 第六十五章 淳徳(淳朴の徳)

古 の善く道を為す者は、以て民を明らかにせんとには非ず、
将に以て之を愚かにせんとす。
民の治め難きは其の智の多きを以てなり。
智を以て国を治むるは国の賊なり。智を以て国を治めざる
は国の福なり。
此の 両者 を知る、亦楷式(かいしき)なり。常に楷式を知る、
是を玄徳と謂う。
玄徳は深し、遠し、物と反す。乃ち 大順 に至る。

 才知の勝れたものは、互いに競争をするようになるものである。才知や才能の勝れたものは、利害関係に明るいから、自分が利益を得るように、損をしないようにと、競争をするようになるものである。従って、これ等の者が多くいるところにおいては、不平を言わさぬようにすることは、非常に難しいこととなるわけである。

 民が功利的になるように刺激することは、国を害うことになり、いつまでも、民を淳朴であるようにしておくことは、国の幸福である。

 楷式は国を治める法式のことをいう。
 玄徳は、真に相手のためを思ってなす徳は、その感化が遠くまで及ぶことをいう。
 反は、本へ還ること、復帰することをいう。
 大順は、至当のこと、自然であることをいう。

老子道徳経 64

2024-03-11 05:25:14 | 老子道徳経


 第六十四章 守微(微を守る)

其の安かなるは持ち易く、其の未だ兆さざるは謀り易(やす)し。
其の脆きは破り易く、其の微なるは散じ易し。
之を未だ有らざるに為し、之を未だ乱れざるに治めよ。
合抱の木も毫末(ごうまつ)より生(な)り、九層の台(うてな) も累土より起こり、
千里の行も足下より始まる。
為す者は之を敗り、執(と)る者は之を 失 う。
聖人は為すこと無し、故に敗ること無し。執ること無し、故
に 失 うこと無し。
民の事を従(な)すこと、常に 幾 (ようや)く成るに於いて之を敗る。
終わりを 慎 むこと始めの如くすれば、 則 ち事を敗ること無し。
是を以て、聖人は欲せざるを欲し、得難きの貨を 貴(たっと) ばず。
学ばざるを学びて、 衆人 の 過 (あやま)つ 所 を復す。
以て万物の自然を輔けて、而して敢えて為さず。

 一抱もあるような大木も、兎の毛のような細い短い芽生えから成長したものであり、九段階もある高台も、一籠に一杯ずつの土を運んで積み重ねたものであり、千里の長い行程も、足下の一歩から始まったもので、始めは皆些細なことが、生長増大して大きなものになったのである。

 聖人は、自ら何をしようということなく、百姓にたいしては、百姓の心をもって臨むという風であるから、失敗することはないのである。
 また、聖人は、常に、人の先に立つということはなさぬのであるから、自ら進んで権力を握るということなく、従って、権力を失うということはないのである。

 聖人は、すべての物が自然の恵を受け、自然の発育発展を遂げるように、常に自然に協力をなし、自分の考えや希望によって、ことを起こすようなことはないのである。


老子道徳経 63

2024-02-22 05:44:25 | 老子道徳経

  第六十三章 恩始(始めを 恩(いつく) しむ)

無為を為(しわざ)とし、無事を事とし、無味を味わう。
大きくせんとすれば小さくし、多くせんとすれば少なくす。
怨みに報ゆるに徳を以てす。
難を其の易きに図り、大を其の細きに為す。
天下の難事は 必 ず易きに作り、天下の大事は 必 ず細きに作
る。
是を以て聖人は終(つい)に大を為さず。故に能く其の大を成す。
夫れ軽く 諾(うべな) うは 必 ず信 寡 (しんすくな)し。
易きこと多ければ 必 ず難(かた)き
こと多し。
是を以て聖人は猶之を難(はば)かる。故に終に難かること無し。

 この章は、道を行う者は、細事も小事も慎重に処理するが故に、難事が生ずることなく、大事を成就なし得ることを説く。

 いかなる難しいことも、始めは容易になすことができるときがあったのである。また、大きな事も、始めは小さいときがあったはずなのである。有道者は、小さいことも、少ないことも、平凡なことも、丹念に観察し、慎重に処理しているのであるから、始末に困るような大事や、難事が起こることはない訳である。
 また、常にものごとを軽易に見るものは、物事をよく観察し、よく考えた上のことでなく、粗雑なものの考え方をしているのであるから、誤った考え方をする場合が多く、始めは軽易に思われたことが、実際は難しいものであったがために、後になって困ることが多いのである。
 故に、いつも心を引き締めてことに当れば、結局は難事がないのと同じことになるのである。

 無為は、名利に関係のない、目立たないことをいう。
 無事は、人の平静な心を乱さない事をいう。
 無味は、淡泊なこと、興味や、旨みのないことをいう。



老子道徳経 62

2024-02-20 06:19:01 | 老子道徳経

  第六十二章 為道(ただ道を為すこと)

道は万物の奥なり。善人の 宝 なり。不善人の保つ 所 なり。
美言は以て市たるべし。尊行あるは以て人に加(こと)なるべし。
人の不善なる、何の棄つることか之有らん。
故に天子を立てて三公を置く。
拱璧 を有して以て駟馬(しば)に先んずと 雖 も、坐して此の道に進
まんには如かず。
古 の此の道を 貴 ぶ所以の者は何ぞや。
日に遠く行かず、求めて以て得ればなり。
罪有るも以て邪を 免 れん。
故に天下の貴為(き た)り。

 道は万物の主であり、すべてのことの根本であって、善人は道を修めることによって益々心が明らかになり、道によって、常にものごとを控えめにするようになるから、精力は充実して健康を維持することができ、何事もよくできるようになるのである。
 また、争う心はなくなり、従って、敗れたり、人をうらむようなことはなくなり、不善をなした者を、心から憎むようなことは起こらず、却って同情し、感化善導することもできるようになるのである。故に、道を行う者、すなわち、善人にとっては、道は、これ以上のものはないという宝である。

 道を修めるということは、座る、ということから始めたと思われる。座れば、身体が動かないから自然に心は落着き、静かになるのである。静かになるということは、心にあるものが少なくなり、自ら心は清らかになり、明らかになるのである。座は、跪くことでなく修めるために座ることである。