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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

小倉百人一首 50

2024-09-14 02:54:10 | 小倉百人一首
  第五十首

君がため 惜しからざりし 命さへ
長くもがなと     思ひけるかな            
      
藤原義孝            
(954-974) 謙徳公の子で、藤原行成の父。二十一歳で痘瘡にかかり没す。信心深く、極楽往生したと伝わる。

部位 恋  出典 後拾遺集 

主題
命まで惜しくないと思った恋の永続を願う気持ち 

歌意
あなたのためにはたとえ捨てても惜しくはないと思っていた命だけれど、あなたに逢った今となっては長生きをしたいと思うようになってしまったよ。

 たった一度でもお逢いできればと思ったこの身も、逢って帰って来た今では・・・・

 後朝に歌をおくるという美しい習俗の生きていた時代のものであり、二十一歳で夭折した貴公子の、すなおなやさしいひびきをこめて歌ったこの歌は、いくつかの義孝の美しい死をめぐる説話などともに、深く切なく人々の心をとらえていったものといえるのでしょう。

 『後拾遺集』以下に、十一首入集。中古三十六歌仙の一人。


小倉百人一首 49

2024-09-10 00:02:07 | 小倉百人一首
  第四十九首

みかきもり  衛士のたく火の 夜は燃え
昼は消えつつ     物をこそ思へ  
            
大中臣能宣    
(921-991) 伊勢神宮祭主。伊勢大輔の祖父。有名な歌人で、円融・花山両天皇から歌集の献上を度々命じられた。三十六歌仙の一人。

部位 恋  出典 詞花集 

主題
夜も昼も思い悩む恋心の苦しみ 

歌意
宮中の門を守る衛士がたくかがり火のように、夜は燃え、昼になると消えるように、私の恋心も夜は熱い思いで身を焦がし、昼は魂が消えそうになるほど思い悩むのだ。

 衛士のたく暗闇の中にもえる火と心にもえる恋心との比喩は、誰しも連想をよぶことであったらしい。実方は、ある女から、「音にきくこやすべらきのみかきもり」といいかけられてすぐさま「いとども恋に夜は燃えねど」と返している。

 定家も、「暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば」
などの歌をよみ、衛士のたく火の美しさを愛していたのであった。

 しかし、この大中臣能宣の作というのには疑問があり、能宣作とする誤伝が『詞花集』にとりあげられてしまったものであろうということです。

 家集に『能宣集』。『拾位集』以下に百二十四首入集。


小倉百人一首  48

2024-09-08 00:03:00 | 小倉百人一首
  第四十八首

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
くだけて物を     思ふころかな  
 
源重之  男
(?-1000) 清和天皇の曾孫。相模権守など地方官を歴任し、旅の歌を多く残した。三十六歌仙の一人。

部位 恋  出典 詞花集 

主題
つれない女性のために思い悩む片思いのやるせなさ 

歌意
風が激しいので、岩にぶちあたって砕け散る波のように、あなたの冷たさに私の心も砕けるくらいに思い悩む今日この頃だなあ。

 岩にうちあたる波が、ひとりでに砕けるように、あの女(人)は平気でいるのに、私だけが心もくだけるばかり思い悩んでいるこのごろであることよ。

 令泉院の東宮時代に奉った百首歌の中、恋十種の第三首目である。この百首は、形式の整った最初の百首歌として貴重なものだが、それだけに非常に技巧に意を用いた歌が多い。この歌も、譬揄的な序を用いて、片思いのやるせない歌を巧みに歌っている。

 陸奥へは二度以上下向、実方の陸奥守赴任にも随ったと見え、実方の死後まで陸奥のとどまり、そのまま没したようである。

 家集に『重之集』『拾遺集』以下に六十六首入集。



小倉百人一首 47

2024-09-06 02:24:25 | 小倉百人一首
  第四十七首

八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね     秋は来にけり  

           
恵慶法師            
十世紀後半の人物で、生没年不詳。当代一流の歌人らと交流があった。中古三十六歌仙の一人。

部位 四季(秋)  出典 拾遺集 

主題
訪れるものは秋だけという荒れた住まいのわびしさ 

歌意
幾重にも蔓草が生い茂るこの家は寂しいので、こんな寂しい所に誰も訪ねては来ないけれども、秋だけはいつものようにやってきたのだなあ。

 葎(むぐら)は、路傍や草むらに繁茂する蔓性の雑草。
 人こそ見えね の一句が、人間界のことと自然とを対比させて、深い詠嘆を沈ませているのですね。

 河原院は、左大臣源融が、数奇をこらし、わざわざ塩釜の浦の景を模した名高い庭園であったが、融の没後荒れ果てたさまは、源順の「河原院賦」にもうたわれてい、恵慶のころは、親友安法法師が住んでいて、この歌は河原院の昔を思いうかべてよまれたものであるようです。

恵慶法師は、『拾遺集』時代のすぐれた歌人の一人で、特に安法法師とは親しく、おそらくは、同じく王氏の末流源氏であったと思われ、河原院に集まる歌人たちの中心をなしていた。家集に『恵慶集』がある。『拾遺集』以下に五十四首入集。

小倉百人一首  46

2024-08-29 02:33:17 | 小倉百人一首
  第四十六首

由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え
ゆくへも知らぬ 恋の道かな    

曾禰好忠          
(生没年不詳) 教養はあるが、招かれぬ円融院の御遊に参上して追い返されるなど、異色の歌人といわれた。

部位 恋  出典 新古今集 

主題
将来の予測のつかない恋の行く末の不安 

歌意
由良の海峡を渡って行く舟人が、櫂をなくしてどうすることもできず、行く先もわからないで漂うように、これからの私の恋の行く末もわからないことだ。

由良海峡。「と」は、水流の出入りするところ。

「ゆらのとをなどうちいでいふよりたけことがらいかめしき歌なり」(応永抄)とあるように、上三句の有心の序が、いかにも下句の恋の述懐にきいていて、斬新な感じを与える。
 新古今好みの歌であって、この歌が『新古今』にとられたすぐあとには、この歌を本歌とした「かぢをたえゆらの湊による船の便りもしらぬ沖つ潮風」という良経の歌も見られる。
 歌人としての力量はあったが、性格が片意地で社会的には不遇であり、円融院の子の日の御幸に召しいもなく参上して人々に追い出された説話などで有名。家集に『曾丹集』(曾禰好忠集)があり、清新な歌が多く、その新風の系譜は源俊頼に受けつがれてゆく。

 『拾遺集』以下に八十九首。特に『詞花集』『新古今集』に多い。


小倉百人一首  45

2024-08-27 01:23:02 | 小倉百人一首
   第四十五首

あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな           

 謙徳公  
藤原伊尹「これまさ」とも。 (924-972) 貞信公の孫。能書家で三蹟の一人である行成の祖父。

部位 恋 出典 拾遺集 

主題
女に捨てられた男の、孤独な弱い心 

歌意
私のことをかわいそうだと悲しんでくれそうな人が思い浮かばなくて、きっと私は一人恋焦がれて、むなしく死んでいくのにちがいないのだろうなあ。

 私は思いこがれながらむなしくなってしまいそうです。

 この歌の背後には、ひとつの物語が思いうかべられる。『一条摂政御集』(一名、豊陰)という物語性をそなえた私家集の巻頭にあるこの歌からは、定家も歌物語の主人公を思いうかべて興味をもったことと思われる。

 天禄元年(九七〇)摂政、翌二年太政大臣、三年には贈正一位。才貌ともにすぐれ、和歌に巧みで天暦五年(九五一)和歌所の別当となり、『後撰集』の撰集に参画。家集に『一条摂政御集』がある。『後撰集』以下三十七首入集。


小倉百人一首 44

2024-08-25 00:01:55 | 小倉百人一首
   第四十四首

あふことの たえてしなくば なかなかに
人をも身をも     恨みざらまし  

中納言朝忠     
藤原朝忠 (910-966) 三条右大臣定方の子。笙の名人で、三十六歌仙の一人。

部位 恋  出典 拾遺集 

主題
逢ってかえってつれなくなった相手を恨む苦しみ 

歌意
もし逢うことが絶対にないのなら、かえってあの人をも私自身をも恨むことはしないだろうに。

 「未逢恋」(いまだあはざるこひ)の意にとるのと、「逢不逢恋」(あふてあはざるこひ)の意にとるのとでかなり趣は違ってくる。
 ・・・・しかし、定家の『二四代集』の並びを見れば、すでに、逢ってからかえって増す恋心をよんだものと解されていたようであり、やがて、『応永抄』の評釈に見られるような、てんめんとした恋の情緒が余情深く味わわれる作品として愛唱されていったのである。

 三十六歌仙の一。家集に『朝忠集』がある。『後撰集』(四首)以下勅撰集
に二十一首入集。



小倉百人一首 43

2024-08-23 02:08:22 | 小倉百人一首
   第四十三首

あひ見ての のちの心に くらぶれば
 昔は物を 思はざりけり            

権中納言敦忠   
藤原敦忠 (906-943) 時平の三男。三十八歳で早世し、菅原道真の怨霊の仕業とされた。三十六歌仙の一人。

部位 恋  出典 拾遺集 

主題
契りを結んでからの深い恋心の切なさ 

歌意
どうかしてあなたに逢いたいと思っていたが、逢ってみるとかえって苦しく、切ない今のこの気持ちに比べると、逢う前の恋の悩みは何ほどのこともなかったのだなあ。

「あひ見る」は男女が関係を結ぶことをいう。

 若き貴公子の切なる恋の思いをよんだ歌として、いかにもさわやかな感じがする。
 『拾遺集』恋二、710に「(題しらず)権中納言敦忠」として見える。『拾遺集』の詞書や『古今六帖』の「あした」の項にあることから見れば、元来は後朝の歌であろう。
 定家ははたして、どう解釈していたか。『二四代集』の並びからみて、必ずしも後朝と考えていなかったようにも思われる。

 権中納言敦忠は、藤原氏。左大臣時平の三男。琵琶の名手。
三十六歌仙の一。家集に『敦忠集』がある。『後撰集』(十首)以下に四十首入集。

小倉百人一首 42

2024-08-16 00:06:26 | 小倉百人一首
  第四十二首

契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは

  清原元輔            
(908-990) 深養父の孫、清少納言の父。地方官を歴任し、任地の肥後で没した。三十六歌仙の一人。

部位 恋  出典 後拾遺集 

主題
約束を守らずに心変わりした女性の不実をなじる心 

歌意
誓い合いましたね。お互いの涙で濡れた袖を絞りながら。心変わりをすれば波が越すという末の松山を波が越すことがないように、私たち二人の愛も決して変わりはしないとね。それなのにあなたは・・・・・・。

 有名な末の松山の古歌をふまえ、ものやわらかに、しかも激しいうらみをこめて相手の不実をつくまことに巧みな歌である。

 元輔はいわゆる専門歌人として、藤原実頼、師輔、伊尹、源高明ら権門の邸に出入りし、そのあつらえに応じて歌をよんだものであった。この歌が代作であるにかかわらず、いつまでも人々の心をひきつけるだけの力をもっていることも、いわば、その修練のたまものだといえよう。

『拾遺集』(四十八首)以下の勅撰集に約百五首入集。


小倉百人一首 41

2024-08-14 05:17:32 | 小倉百人一首
  第四十一首


恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ     思ひ初めしか  

壬生忠見          
(生没年不詳) 忠岑の子。数々の歌合の作者として活躍したが、官位は低かった。三十六歌仙の一人。

部位 恋  出典 拾遺集 

主題
ひそかな恋が人の噂になってしまったことへの当惑 

歌意

私が恋をしてしまったという浮き名が、こんなにも早く世間に広まってしまった。誰にも知られないよう自分の心の中だけで、ひそかにあの人を思いはじめたのに。

 この歌は、第四十番の兼盛の歌と甲乙つけがたく『天徳歌合』で敗れてしまいましたが、後世には忠見の歌の方を評価する声も多いようです。

 まだき 早くも。まだその時に達しないのに。

 ところで、定家は、兼盛の歌とともに『二四代集』には選んでいるが、いずれも『近代秀歌』以下の秀歌撰にはなく、『百人一首』に並んでとっているのは、歌話的興味にひかれたものと思うのである。
 忠見は、歌の数奇人として、その歌話が『袋草紙』などに伝えられている。三十六歌仙の一。

 『拾遺』十四首、その他勅撰集に二十二首入集。