
先日、些細なことがきっかけで見知らぬ方と口論になりかけました
相手の勘違いが原因だったのですが、元来「争い」そのものを好まぬ私は、適当にその場を取り繕い何とか事なきを得ました。
しかし、よくよく考えてみると、言われなき中傷を受けたような気がして、数日経った今でも何か判然としない気持ちでおります。
恐らく相手は今でも自分に非はないと思っているでしょうし、とばっちりを受けた私がこのような気持ちでいることなど知る由もないでしょう。
私もその場で簡単に引き下がらずに、きちんと事情を説明していれば双方納得がいったのかもしれません。
その努力を怠った私にも責任はあるのですが、時間が経つにつれて、自分の不甲斐なさが相手に対する歪んだ感情
に変わりつつあります。
事あるごとに今回のことが頭を過り、この感情をどこにぶつけて良いのか分からず悶々とした日々が続いていました。
そんな折、ある仏教系季刊誌の「涅槃会」に関する特集記事が目に入りました。
その記事の中で、仏教で説く「涅槃」とは「こころの中の煩悩の炎が消えた安らかな状態である」と解説が付されておりました。
程度の差こそあれ、今の私の気持ちはここで言う「煩悩の炎」に苛まれた状態なのかもしれません。
仏教では貧(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の「三毒」を説きますが、この三毒の炎に苛まれた状態が人々を「涅槃」から遠ざけるのでありましょう。
私の今のこころの状態も、この「煩悩の炎」が燻った「涅槃」に程遠い状態です。
この「煩悩の炎」とは非常に厄介なもので、今回の私のように些細な感情であっても、まるで喉奥に刺さる小魚の骨の如く、事あるごとに痛みを感じて「こころの平静」を失い兼ねません。
しかしその「煩悩の炎」を消すために、相手に同じ感情をぶつけたとしても、今度は相手のこころに炎が燃え移るだけで根本的な問題の解決には至らないでしょう。
それではいくら自分自身が楽になっても、新たな「負の連鎖」を生みだすだけです。
であるならば、ここは釈尊の「涅槃」の精神に因み、独力で炎の火を消してみようと思い立ちました。
炎の原因がはっきりしているのであれば、その炎を元から断てば良いだけの話です。
ちょうど、来月15日(2月15日)は釈尊の涅槃会です。
その日まで私のこころの煩悩の炎は鎮火しているのでしょうか
今日から釈尊の涅槃に因んだ報恩修行が始まります
一押し頂けたら幸いです

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相手の勘違いが原因だったのですが、元来「争い」そのものを好まぬ私は、適当にその場を取り繕い何とか事なきを得ました。
しかし、よくよく考えてみると、言われなき中傷を受けたような気がして、数日経った今でも何か判然としない気持ちでおります。
恐らく相手は今でも自分に非はないと思っているでしょうし、とばっちりを受けた私がこのような気持ちでいることなど知る由もないでしょう。
私もその場で簡単に引き下がらずに、きちんと事情を説明していれば双方納得がいったのかもしれません。
その努力を怠った私にも責任はあるのですが、時間が経つにつれて、自分の不甲斐なさが相手に対する歪んだ感情

事あるごとに今回のことが頭を過り、この感情をどこにぶつけて良いのか分からず悶々とした日々が続いていました。
そんな折、ある仏教系季刊誌の「涅槃会」に関する特集記事が目に入りました。
その記事の中で、仏教で説く「涅槃」とは「こころの中の煩悩の炎が消えた安らかな状態である」と解説が付されておりました。
程度の差こそあれ、今の私の気持ちはここで言う「煩悩の炎」に苛まれた状態なのかもしれません。
仏教では貧(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の「三毒」を説きますが、この三毒の炎に苛まれた状態が人々を「涅槃」から遠ざけるのでありましょう。
私の今のこころの状態も、この「煩悩の炎」が燻った「涅槃」に程遠い状態です。
この「煩悩の炎」とは非常に厄介なもので、今回の私のように些細な感情であっても、まるで喉奥に刺さる小魚の骨の如く、事あるごとに痛みを感じて「こころの平静」を失い兼ねません。
しかしその「煩悩の炎」を消すために、相手に同じ感情をぶつけたとしても、今度は相手のこころに炎が燃え移るだけで根本的な問題の解決には至らないでしょう。
それではいくら自分自身が楽になっても、新たな「負の連鎖」を生みだすだけです。
であるならば、ここは釈尊の「涅槃」の精神に因み、独力で炎の火を消してみようと思い立ちました。
炎の原因がはっきりしているのであれば、その炎を元から断てば良いだけの話です。
ちょうど、来月15日(2月15日)は釈尊の涅槃会です。
その日まで私のこころの煩悩の炎は鎮火しているのでしょうか

今日から釈尊の涅槃に因んだ報恩修行が始まります




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拙僧も最近、ちょっとしたいざこざがございました。まぁ、拙僧は「争いを好む」タイプですので、ご指摘のように、争いの炎は両者ともに焼いているわけですが、どこかで「話せば分かる」と思っているので、争っても仕方ないと思っていたのです。
しかし、その方は、話しても分からない方でした。病的なまでに頑なで、これは「話しても分からない」と感じました。そういう人がいると経験できたことを糧に、拙僧自身はその争いを昇華したいと思っております。
管理人様の炎も、いっそ徹底的に燃えてみるというのも一案かと・・・萌えではなくて(汗)
最近更新が滞っておりました。
> 拙僧は「争いを好む」タイプですので、
あはは
羨ましい限りです......
得手不得手があるのでしょうか。
> しかし、その方は、話しても分からない方でした。病的なまでに頑なで、これは「話しても分からない」と感じました。そういう人がいると経験できたことを糧に、拙僧自身はその争いを昇華したいと思っております。
私もその精神を生かして鎮火に努めます
> 管理人様の炎も、いっそ徹底的に燃えてみるというのも一案かと・・・萌えではなくて(汗)
う~ん
和尚さまのお話とはちょっと違いますが、
私も、信頼しておりました方に約2年間に渡って騙されていたことが昨年判明しまして(凄まじい脚本のもとに)、大変苦しみました。今でも相手に対する怒りと自分自身に対する不甲斐なさの感情とが時々交互にフラッシュバックのように現れてくるような状態です。『ダンマパダ』の著名な一節も、孔子や老子のそれも、一時の安楽は与えてくれるものの、なかなかその「煩悩の炎」を鎮火するまでには至りません。
昨夜、何気なく昭和50年2月のある月刊誌を読んでおりましたら、服部松斉という方が「耐える心」との題で涅槃会に因んだものを書かれておりました。そこには次の様な文章が『遺教経』から引用されておりました。
忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わ ざる所なり、能く忍を行ずる者は乃ち有力 の大人となすべし。
私には和尚さまこそまさに「有力の大人」たるお方のように思えます。私も和尚さまに倣い、自身の「煩悩の炎」を鎮火するためにも、お釈迦様のお涅槃に因んだ報恩行を行じなければとと改めて思った次第です。
ご丁寧なる解説を含んだコメント、誠にありがとうございます
この「煩悩の炎」が点き始めたころは苦痛ですよね。自分の感情ではコントロールできない病に苛まれます。
最近では、人としての感情を持つ以上、その炎からは避けられないことに気付きました
よって、火が点った後は先人たちの足跡に倣い、その炎と如何にうまく付き合うかを模索することにしました。
その煩悩の炎から暖を取るぐらいの図太さを持ち合わせたいものです
また色々とアドバイス下さいませ