
「和尚さん、おばあちゃんが火の熱さを感じないように一生懸命お経をあげて下さい。」
これは私が僧侶になりたての頃、とある火葬場でのご供養の際にご遺族の方から言われた言葉です。
人は息を引き取ってしまえば、「暑さ」・「寒さ」はもちろん、「痛み」さえも感じなくなるのは周知の事実であります。
しかしそうは言っても、亡き人がいよいよ荼毘に伏される時、故人が感じるはずのない火の「熱さ」を慮るご遺族がいることも事実です。
冒頭紹介したご遺族の言葉がその象徴でありましょう。
その時に私は思いました。
火の「熱さ」を感じるのは、故人ではなくご遺族の方なのではないかと......。
決して「熱さ」を感じる事のない故人に対して、その「熱さ」を慮るご遺族の気持ちこそが供養の原点なのだと思います。
私は、これはご遺族の方にとって故人はまだ死んでいない証なのだと思いました。
裏を返せば、そういう故人に対する「想い」がある限り、故人は決して亡くなることはないのでありましょう。逆に、永遠に生き続ける存在となるのです。
「おばあちゃん、火が点されて熱かろう......」
そのおばあちゃん(故人)が決して感じることのない火の「熱さ」を、生きている私たちが感じてしまうその事実が、故人が確実にその人の心のなかに生きている証拠です。
その「想い」がある限り、ご遺族にとって故人は決して「死者」ではありません。まさに「ホトケ」として手と手を合わせる存在になるのです。そういったご遺族の「想い」とともに、故人は永遠に生き続ける存在となるのです。
ご命日には、故人が好きだった食べ物をお仏壇にお供えしたり、故人が生前好んだ花などをお墓に飾ってあげて下さい。まるで、生きているが如くに故人と接してあげて下さい。
その行為そのものが、亡き故人が貴方と共に生き続ける証となります。故人の第二の人生は、まさに残された貴方とともに存在し続けるのです。



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檀家さんが、亡き人を思って言った言葉、しかしそれが実は、自分たちの思いだったという御指摘、勉強になりました。合掌
最近ご縁のあった方とも同じような会話をして思い立った記事でもあります。
亡き人は残されたご縁のある方々(ご遺族等)と共に存在するものと思います。
その想いなくして供養は成り立たない......というのが現在の私の信条でもあります。