
野球人でなくても、イチローの才能は誰しも認めるところだ。
類まれな彼の才能は、同じ野球の道を志した者であれば嫉妬に近い感情さえ抱くことがある。
それだけ頭抜けた才能を有する超一流のアスリートなのだ

では、僧侶の才能とは一体どの様に計られるべきなのか

先日、その様なことをふと考える機会があった。
僧侶としての才能 ―。
それは「学歴」によって計られるものなのか? それとも「安居歴」? いやいや、宗門が規定する「教師分限」か?......どれも自分の中でしっくりこなかった。
そもそも、僧侶の才能って一体何だ

私は、先日ある方との会話の中で、僧侶の才能とは「慈悲心」に尽きるのではないかということを考えさせられた。
「え


私に僧侶としての慈悲心はあるのか

僧侶たる者、「慈悲」という言葉は説教の中でも多用するし、他者にはなるべく寛容且つ優しく接してきたつもりだった。
しかし、私は仏教で説く「慈悲」に対する根本的な誤解を犯していたのである。
つまり、私は「慈悲」という言葉自体は知っていても、それが一体何を意味するものなのか理解していなかったのだ。
慈悲心が具わる僧侶の口から出る言葉、発想などは、どれもみなそれを有さない僧侶のものと次元を異にする。そう、根本的に違う次元の言葉であり発想なのだ。
うまく説明できないが、私などが思い付く発想や言葉とは根本的にレベルが違う......。これを「才能」と呼ばずして何と呼ぶのか

私の発する言葉が、一体どれだけの人に勇気を与えているのか? 私が行じる利他行が、一体どれだけの人の心の支えとなっているのか?
講演ひとつ取ってもそうである。 私と共に費やした時間が、一体どれだけの聴講者の方々の意識を触発しているのか?
檀信徒に対する法要もそうだ。 私の唱えるお経が、一体どれだけの人の心に染みているのか? 説く教えがどれだけの人に安心を与えているのか?
それは決して力の差で埋められるものではなく、他者に対する慈悲の視点そのもので大きく変わってくる。
そう、私の中に今まで「他者」という存在はいなかったのである。他者を介在した慈悲の実践が皆無だったのである。そこに「他者」の存在がないから、慈悲のつもりが実は無慈悲だったのである。情けないが、これが今の現実だ......。
恥ずかしながら、利他のつもりが実は自利に根付いた行動であったり、他者よりも知らず知らずのうちに自分を優先させていたような気もする。
その方との何気ない会話の中から、いわゆる僧侶としての「才能」の違いをまざまざと見せつけられた。
以前、ご本山でお世話になった参学師から「慈悲とは他者に対する想像力を指して言う」というお言葉を頂戴したことがあった。
その時は何となくその言葉の意味を理解していたつもりだったが、真の理解には到底及ばなかったことが数十年経ってから判明した。
自分にとっての他者とは何なのか? 他者を介在した慈悲とは一体どの様な行動を指すのか? それらについて、もう一度じっくり腰を据えて考えてみたいと思った。
「目から鱗が落ちる」という感覚を久々に味わうことができた気がする。そして......少しへこんだ

しかし私は、以前ある特番で語ったイチロー本人の言葉も決して忘れてはいない。
「僕は才能の人ではない、実は努力の人なのですよ

そうかっ


私もふさぎ込んでいる暇などない。その「才能」を凌駕するぐらいの努力を自らに課してみよう

そう自分にムチ打ってみた今日この頃でした




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色々と勉強になりました。ありがとうございます。
私は慈悲の意味を根本的に理解しておりませんでしたm(__)m
また、一から勉強し直しです。。。