
昨日は春の彼岸入りでした
この時期、私の地元の教区では恒規の施食会が厳修されます。
最近では適齢期
という事もあり、法要前の法話のお役は大概私に回ってきます。
そういう意味では、本当に良い勉強をさせて頂いております
うちの教区の恒規は、盆・彼岸の施食会と大般若祈祷会。
施食会と大般若で、話す内容も適宜変えております。
施食会の法要(恒規)と言えば、各家ご先祖さまの合同供養祭。
自分なりに参列者の方々に対して、供養の意味について分かり易く説明させて頂いているつもりです。
で、今回はその施食会でのお話……。
「魂って、見た事ありますか
」
こういう立場(僧侶)になると、この様な質問をよく受けます。
「魂はあるのか、ないのか?」、「死後の世界は存在するのか、しないのか?」などなど。
特に、ご先祖様の供養を勤めた後などが顕著です
厳密に言うと、仏教の供養は「魂の有無」とは違う次元で成り立っている様な気がします。
要は、「魂が見えるから供養をする、見えないから供養をしない
」といったモノサシのみで計れない現実があるという事です。
咲いた花を見るならば、咲かせた根っこの恩を知れ―。
咲いた花を見て純粋に「綺麗だなぁ
」と感じる時、我々は誰しも地中に深く身を潜めた根っこの存在にまで想いが及ぶ事はありません。皆が皆、目に見える「花」のみを見て特別な感情を抱くのではないでしょうか。
仏教の立場で言えば、目に見える「花」を見た時には、同時に目に見えない「根っこ」の存在にまで想いを馳せるべきなのだと感じます。
「目には見えないけど、確実にあるもの」といった視点に立つと、先祖の供養は「魂の有無」だけでは計れない現実がある事に気付かされます。
我々は、近いホトケに関しては心の中に「想い出」や「記憶」として残っており、遠い先祖に関しては自分たちの「ルーツ」に組み込まれている事を自覚しています。そういう意味では、目に見えてなくても「先祖の存在」は決して蔑ろにできない事を知っているのです。
この様に、「見えるから信じる、見えないから信じない」といった二元的なモノサシのみで仏教の供養を計る事はできません。
例えば、我々が亡き故人に対して想いを馳せる時、誰しも荼毘に付された後の「ご遺骨」に想いを馳せる人は皆無なのではないでしょうか。やはり、荼毘に付される前の生前の「故人の姿」に想いを馳せるのだと思います。
人は誰しも、目に見える形での故人(ご遺骨)ではなく、目にする事が叶わなくなってしまった故人(生前の姿)に想いを馳せるものなのです。
咲いた花を見るならば、咲かせた根っこの恩を知れ―。
その言葉の通り、我々の人生を満開の花に喩えるのであれば、その目に見える「花」(我々の人生)を咲かせてくれた、目に見えない「根っこ」(先祖)の恩を知るべきなのでしょう。
「先祖に対する供養」をその様に捉えてみれば、魂の有無といった問題は「無記」そのものでしかない事に気付かされます。
一押し頂けたら幸いです

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この時期、私の地元の教区では恒規の施食会が厳修されます。
最近では適齢期

そういう意味では、本当に良い勉強をさせて頂いております

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施食会と大般若で、話す内容も適宜変えております。
施食会の法要(恒規)と言えば、各家ご先祖さまの合同供養祭。
自分なりに参列者の方々に対して、供養の意味について分かり易く説明させて頂いているつもりです。
で、今回はその施食会でのお話……。
「魂って、見た事ありますか

こういう立場(僧侶)になると、この様な質問をよく受けます。
「魂はあるのか、ないのか?」、「死後の世界は存在するのか、しないのか?」などなど。
特に、ご先祖様の供養を勤めた後などが顕著です

厳密に言うと、仏教の供養は「魂の有無」とは違う次元で成り立っている様な気がします。
要は、「魂が見えるから供養をする、見えないから供養をしない

咲いた花を見るならば、咲かせた根っこの恩を知れ―。
咲いた花を見て純粋に「綺麗だなぁ

仏教の立場で言えば、目に見える「花」を見た時には、同時に目に見えない「根っこ」の存在にまで想いを馳せるべきなのだと感じます。
「目には見えないけど、確実にあるもの」といった視点に立つと、先祖の供養は「魂の有無」だけでは計れない現実がある事に気付かされます。
我々は、近いホトケに関しては心の中に「想い出」や「記憶」として残っており、遠い先祖に関しては自分たちの「ルーツ」に組み込まれている事を自覚しています。そういう意味では、目に見えてなくても「先祖の存在」は決して蔑ろにできない事を知っているのです。
この様に、「見えるから信じる、見えないから信じない」といった二元的なモノサシのみで仏教の供養を計る事はできません。
例えば、我々が亡き故人に対して想いを馳せる時、誰しも荼毘に付された後の「ご遺骨」に想いを馳せる人は皆無なのではないでしょうか。やはり、荼毘に付される前の生前の「故人の姿」に想いを馳せるのだと思います。
人は誰しも、目に見える形での故人(ご遺骨)ではなく、目にする事が叶わなくなってしまった故人(生前の姿)に想いを馳せるものなのです。
咲いた花を見るならば、咲かせた根っこの恩を知れ―。
その言葉の通り、我々の人生を満開の花に喩えるのであれば、その目に見える「花」(我々の人生)を咲かせてくれた、目に見えない「根っこ」(先祖)の恩を知るべきなのでしょう。
「先祖に対する供養」をその様に捉えてみれば、魂の有無といった問題は「無記」そのものでしかない事に気付かされます。



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必要ならば、この「お話」に枝葉を付け、根を深く太くし、世の中に広く深く知れ渡る大樹に育つような、そんなシステムが、ネット社会のなかに確立されないものかと、つねづね期待しています。
将来には必ず、そのようなシステムが確立されると確信しています。そのための資料集めのシステムは既に存在しているのですから。
素晴らしいお話から学ばさせていただきました。
ありがとうございました。
拙文にて真に失礼しました。お許しください。
いい話ですね。
どこかで、使わせていただきますm(_ _)m
科学で説明できないものがあると思っている人は多いのだろうと思います。
それがスピリチュアルの流行になっているのかもしれません。
でも、そういう人は、見えない説明できないでは納得せず、誰かにはっきりと「見える」といってほしいのでしょうね。
自らが思いをはせるということでいいと思いますが。
コメントありがとうございます
法話のメモとして書き綴った記事に、この様なコメントをお寄せ頂き身が引き締まる想いがいたします。
この度頂いたお言葉を糧とし、今後更なる精進を重ねていく所存です。
貴ブログも拝見をさせて頂きました。とても内容が充実しており大変参考になりました。
今後も適宜に訪問をさせて頂き、勉強をさせて頂きたいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌
> 単頭和尚さま
コメントありがとうございます
>そういう人は、見えない説明できないでは納得せず、誰かにはっきりと「見える」といってほしいのでしょうね。
そういう意味では、我々には忍耐力
我々は「見えない・説明できない」という無常・無我の事実に、どれだけ耐えていけるかが勝負なのかもしれません(笑)
確かに、誰かに「見える」と言ってもらった方が楽な場合があります。
宗教の果たす機能として、そういうのも有りかと思いますが、仏教はその「見えない・説明できない」という事実から目を逸らさずに直視をする姿勢を説いているのだと感じます。
そういう意味ではやはり忍耐力が要る宗教だと思います
しかし、それゆえに支持される理由もあるのかと思っています。合掌