
日本の殆どの僧侶は妻帯をして家庭を持っているため、時に「出家」の形態を取っていないと批判を受ける時があります。
中には極端な人もいて、「家族を持つ事自体が仏教の教えに反する

恐らく、仏教という宗教が持つ価値形態の一つに、釈尊が家族を捨て「出家」をしたという事実が大きく起因しているものと思われます。
確かに、道元禅師の仏法を語る上で、「出家」という生き方の選択は決して看過する事ができない重要なファクターの一つです。
「出家」至上主義と称される様に、「出家」という生き方に何ら異論を挟む余地がないことも事実です。
私個人の現状を申し上げれば、寺としての実家、実家としての寺に居住している以上、「家を出る」という意味での「出家」の形態を取っていません。
但し、冒頭述べた批判に対して、真っ向から反論するつもりもありませんし、だからと言って極端な「出家」原理主義に走るつもりも毛頭ありません。
この種の問題は、厳密に言えばサンガや入叢林の問題とも絡んでくるのでしょうが、冒頭述べた批判がそれらの問題まで視野に入れたものでない以上、建設的な議論に発展する可能性は皆無かと思われます。
要は、現在の自分にとって「家を出ているか否か」というモノサシは、あまり拘るべき問題ではないという事です

ただ、一つ拘りたいのは、その「家を出ているか否か」というモノサシのみで「出家」の価値が計られる事に関しては、ある種の疑問と違和感を感じざるを得ません。
極論すれば、「家を出ている・出ていない」のみで計られる「出家」の価値とは、間違いなく本来の「出家」の意味を貶める遠因にもなり得ましょう。
「出家」という生き方は、あくまでも現象面の問題(家を出ているか否か)のみで語られるのではなく、例えば「家」という言葉が象徴する、既成の価値体系(概念)からの脱却という意味において真意が計られるのも手かと感じます。
釈尊が家族を捨て家を出たという事実は、あくまでも結果としての一形態に過ぎず、家を出る事自体が問題の核心ではないものと思われます。
要は、「出家」を単なる「家出」と混同してはならないという事です。以前、拙ログの「似ている様で違うもの!?」でも述べた様に、我々は「出家」と「家出」の違いについて明確にしておく必要がある事でしょう。
つらつらと「出家」に関する妄想を巡らしてみました。



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やはり、こういっては何ですが、不満のはけ口として、文句を言う相手として、坊さんが選ばれているのかな?なんて感じもする一件ですね。
最近の、特に妻帯を批判する風潮は、まぁ、様々な新宗教系の団体の動きもあるようですし、或いは南方仏教の原理主義者の動きも看過できません。
日本仏教に於ける妻帯は、すでに平安時代から始まっていた事実がある以上、これは日本文化特有の事象であり、形だけの正しさを求めるような考えは切に批判されるべきなのであります。
まぁ、「出家」について色々想いを巡らしていたら、観じる事があったので記事にしてみました。
過度の原理主義は、歪んだ排除の論理に繋がるので私もちょっと敬遠しちゃいます
「出家」の身なれば、背負うものが多いよりも少ない方が良いのでしょうが、重さに耐える覚悟も大乗菩薩僧には必要かもしれませんね
また、逆に軽い身だからこそ、凡夫より多くのものを背負えるという言い方が可能かもしれません。
また、彼岸明けに色々ご教示下さい
遅れ馳せながら、コメントありがとうございます
新年度となり、かなりバタバタしていてネット上をすっかり留守にしておりました。
返信が遅れて申し訳なく思っております。
さて、間伐材の塔婆使用運動の件、今後の動向に注目したいと思っております。
これが大きなうねりとなればすごいですね。
徐々にではありますが、落ち着き次第當寮も復活を期したいと思っております。
今後とも宜しくお願い申し上げます