
既報の如く、今年のお盆もようやく一段落して、お寺の生活も心なしか普段の落ち着きを取り戻してきた様な気がします。
しかし、東京~師寮寺の移動生活が続く私は、早速次のお彼岸の準備に取り掛からなければなりません。
お盆とお彼岸は、昔からご先祖さまがお里帰りを為される時期......お寺はそのご先祖様の御霊を迎えるべく、お盆が明けたら次のお彼岸の準備に取り掛からなければならないという訳です。
ご先祖様もお盆終わってすぐお彼岸のお里帰り......というのでは、夏から秋に掛けてさぞかし移動の方も大変な事でしょう

さて、今日紹介するのは、そのお盆のお斎の席でのお話―。
「ご先祖様は、一体どこへお里帰りをするの?」
お盆のお斎の席で、そのお宅に里帰りをしていた子ども達が私にこう訊ねてきました。
ご先祖様がお里帰りをすると言っても、ご自宅のお仏壇なのか、ご遺骨が眠るお墓なのか、それとも先祖代々の位牌が奉ってあるお寺なのか......

「和尚さん、ファイナルアンサー?

子ども達は無邪気に私に解答を迫ります

「う~ん、ご先祖さまは君たちがお参りをする全ての場所に一緒に付いてきてくれると思うよ。」何とかそう答えました

「へぇ~、じゃぁ、さっき皆でお寺の本堂でお参りした時にはお寺に帰っていたの?それでお墓参りをした時にはお墓?」
「そうだよ、君たちのご先祖さまや、今日ご供養した亡くなったお婆ちゃん(新盆)は、君たちの心の中にお里帰りをしているのかもね」
普段何気なく思っている事を、素直に口にして子ども達に説明してみました。
「だからね、君たちの心の中から、ご先祖様に対する感謝の気持ちや、亡くなったお婆ちゃんの想い出までもが消え去ってしまったら、ご先祖様やお婆ちゃんは何処にも帰ってくる場所がなくなっちゃうかもね。だから、ご先祖様に対する感謝の気持ちやお婆ちゃんの想い出というものを大切にしてね。」
子ども達が、その説明に納得したのかどうかは分かりませんが、その時の私にはその様な説明しかできませんでした。
昔の人はこう言ったという話を耳にした事があります。
人は二回死ぬのだと―。
一回目の死は寿命による死と聞きました。つまり、この世からあの世に旅立つとされる通常の「死」という概念でありましょう。この一回目の死は、この世に生を受けた以上、誰しも平等に迎えなければならない死の現実です。
では、二回目の死というのは一体いつ迎えるものなのでしょうか?
昔の人はこう言ったそうです。二回目の死というものは、遺族や親しい方達など、その故人にご縁のある方々の心の中から想い出としても忘れ去られてしまった時、人は悲しい二回目の死を迎えるというのです。
要は、一回目の死は誰しも避けられない現実の「死」かもしれませんが、二回目の「死」というのは残された我々の想い次第で避けられるものかもしれません。
そういう意味で考えると、先祖や故人の存在というのは、残された我々の気持ちと切り離して考える事はできないという事です。
故人が荼毘に付されてご遺骨に変わろうとも、残された我々が想い偲ぶ故人というのは、我々の心の中に永遠に生き続ける生前の故人のお姿です。それは単純に映像としての「記憶」といった想いで片付けられるものではないでしょう。
なぜなら、お墓参りをするにしても、お仏壇にお供物を上げる時であっても、そこにはまるで生きているが如くの故人の存在があるはずです。単純な映像としての記憶のみではなく、その「記憶」に勝る「想い」というものがそこには凝縮されているものと信じます。
ゆえに、物理的に口にできないであろう供物、例えば故人が生前好きであった食べ物、親しく好んでおられたお酒やタバコなどが供えられるのでしょう。
この様に、あの世での故人の存在というのは我々の心(想い)なくして存在し得ません。
生前の姿を見た事がない先祖であっても同じ事です。今の我々の人生があるのも先祖のお陰という事は誰しも理解できる事です。今の自分の人生に感謝する気持ちがあれば、そこに先祖に対する感謝報恩の気持ちが芽生えてきて当然の話です。
その事を思えば、「先祖や故人はどこへ里帰りするのか?」といった疑問は、単純に「精霊棚(自宅の仏壇)なのか?」、「お墓なのか?」、「お位牌堂が奉られているお寺なのか?」といった、場所や空間に制限される問題でない事が分かります。
少なくとも、ご縁のある方々がお仏壇に手と手を合わせた瞬間には、そのお仏壇に先祖や故人はお里帰りをしているのであり、同様にお墓参りをした時、お寺で法要を勤めた時などは、ご縁のある方々の気持ちと共に先祖や故人は存在をしているのです。
言葉足らずで乱暴な表現かもしれませんが、それが科学と宗教の違いなのかもしれません。
科学の力では、心の中に宿る故人の存在というものを証明する事はできませんが、宗教はその科学の力を以て証明できない世界というのを大切にしてきました。
科学の力で生前の故人は荼毘にふされて遺骨になった事は証明できても、そのご遺骨を通してあの世の故人の存在を固く信じる遺族の気持ちを証明する事は適いません。それに応え得るのは、まさに信仰の世界でしかないのでありましょう。
ご縁のある方々の数の分だけ、先祖や故人は存在し得るものだと固く信じます。それが故人が彼岸(あの世)で永遠に生き続ける証にもなると思います。
お斎の帰り際、さっき私の所へ訊ねてきた子ども達がお仏壇の前で手と手を合わせておりました。その姿を目の当りにして、さっき私が話した内容も子ども達には伝わったのかなと心なしか安堵しました。



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