
當山の各寮ブログも久々の更新となります。
彼岸明けから今月まで多忙を極め(いつもの事ですが......


相変わらずの力不足を痛感しております

そんな中、またショッキングな事件が発生しました。
「自宅の近所だから狙った」 大阪コンビニ店員殺害事件(朝日新聞) - goo ニュース
大阪府寝屋川市のコンビニエンスストアで6日未明、アルバイト店員の上内健司さん(27)が万引きした少年らを追いかけて刺殺された事件で、逮捕された工員の少年(19)は当時、所持金がほとんどなく、大阪府警の調べに「自宅から近いコンビニ店を狙った」と供述していることが分かった。万引きの理由について「ビールを飲みたかった」と話しており、府警は短絡的に欲求を満たそうとしたとみている。
この様な事件を耳にする度に思うことは、最近の子ども達は「畏れ」という概念をあまりにも知らな過ぎるのでは

ここで言う「畏れ」とは、いわゆる「恐れ」とは内容を異にする「畏敬」という意味での「畏れ」を指して言います。
仏教に限らず、人々が宗教というものに触れる際には、この「畏れ」という概念は非常に重要なものだと感じています。
この「畏れ」という概念から成るある種の「謙虚さ」が、今の世の中失われつつあると思うのです。
神仏に傅く際に湧き上がる「畏敬」という概念は、読んで字の如く「敬う」以前に「畏れ」という概念が先立ちます。
人は、得体の知れないとてつもなく大きな存在の前では、「敬う」ことよりも先にこの「畏れ」という概念が先立つのでありましょう。
その「畏れ」という概念の背景には、長年において培われた人々の信仰の形があったり、その人々の祈りに象徴される想いが凝縮されているのだと感じます。
私の立場で過度に「畏れ」という概念を強調すると、今の時代は何か別な意図がある様にも勘繰られますが、やはり幼少期から神仏の前で手と手を合わせて心を落ち着かせる習慣は必要なものだと考えます。
その行為の積み重ねが、「畏れ」を前提とする「敬い」の概念を育み、他者に対して謙虚で、かつ寛容な人間を育てるのだと思うのです。
それらの習慣が今の日常から廃れつつあるから、「畏れ」や「敬い」といった概念とは程遠い凶悪事件や、他者の尊厳を蔑ろにする社会現象が頻繁に起きてしまうのではないでしょうか。
前にも似た様な記事を載せた記憶がありますが、ここで言う「畏れ」とは得体の知れない何かに対する「従順さ」を強制するものではなく、人が他者を尊重し共生していくためのある種の「謙虚さ」を保障する概念だと考えます。
その「謙虚さ」さえあれば、異なるものを排除しようとする社会現象(いじめ問題や諸々の紛争)など今よりも減るでしょうし、何よりも異なる価値観や文化・習慣を背負った人たちとも対等な関係が築ける様になるのだと感じます。
宗教が社会に還元し得るものの一つに、この「畏れ」という概念を前提とするある種の「謙虚さ」という概念があると思います。
これは、心の問題が叫ばれる今の世にとって、非常に重要な役割を果たすものとなるでしょう。
大事なことは、「信仰」という言葉の意味を履き違えない事だと思います。
「畏れ(畏敬)」という概念に基づく信仰の形とは、決して他者を排除する為の術ではなく、他者に寛容になるためのある種の「謙虚さ」を保障する概念なのです。



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