
先日、とある各寮ブログに、来期から阪神タイガースのユニホームが刷新される旨の記事をアップさせました。
阪神タイガースと言えば、「六甲おろしにぃ、颯爽とぉ~



そこで、「六甲」つながりという訳ではないのですが、今回は「六甲のおいしい水」(ハウス食品)をテーマにした記事を取り上げたいと思います

「六甲のおいしい水」って、誰もが知っている有名なミネラルウォーターですよね

発売当初は、まさにミネラルウォーターの“走り”として一世を風靡した感さえあります。
日本という国において、「お金を出して水を買う感覚」は、まさにこの「六甲のおいしい水」から始まったと言っても過言ではないでしょう。
今日は、「六甲のおいしい水」と言う場合の“おいしい”という部分に拘ってみたいと思います。
成分表を見ると明らかですが、「六甲のおいしい水」の成分は水としての純度が高く、水道水と比べてもその差は歴然だそうです。
老若男女を問わず、この「六甲のおいしい水」って美味しいですか



でも、この「六甲のおいしい水」って......本当に美味しいのでしょうか

それでは、ちょっと設問の仕方を変えてみたいと思います。
例えば、水をたくさん飲み干した後にこの「六甲のおいしい水」を口にしたとしても、本当に美味しいと思える人がどれくらいいるでしょうか ―?
ちょっと意地悪な質問でしたが



殆どの人は、たとえ「六甲のおいしい水」であっても、ちょっともう勘弁して欲しい


要は、水の「美味しさ」とは、水の味そのもので決まるものでもなく、その水を口にする人の状態如何でも変わり得るという事です。
つまり、同じ成分の「水」であるにも関わらず、時に美味しくなったり、そうでなくなったりする道理がここに現成します。
その微妙な“絡繰り”を、仏教では「空」(くう)という教えを用いて説明する時があります。つまり、水の味そのものには実体などなく「空」なるものという考え方です。
また、既述もした「その水を口にする人の状態如何」という部分には、仏教で説くところの「縁起」(えんぎ)という教えを当てはめて説明する場合があります。
つまり、ここで言う「縁起」とは、「水」とその水を口にする「人」の関係性や条件そのものを指して言う言葉です。
時の禅師家(宗乗家)がよく口にした「縁起現成のいのち」という言葉は、そういう文脈で解される自己の在り様(ありよう)を指して言う言葉かと思われます。
それでは、試しにこの「水」という部分に「人生」という言葉を置き換えてみましょう。
我々の「人生」も、水と同じように初めから「成分」そのもので「味」が決められている訳ではありません。
それを口にする人の状態如何で、その「味」が変わり得る要素をも持ち合わせています。
つまり我々の「人生」も、我々の「味わい方」次第でその「味」は変わり得るとも言えましょう。
「人生」そのものが、「諸行無常」、「諸法無我」という言葉に象徴される「空」なるものであれば、我々の「味わい方」次第でその味は美味しくもなり、そうでもなくなるという妙味がそこに出てきます。
その微妙な“絡繰り”を、今後さらに“おいしく”味わっていければと考えております。
― 注 記 ―
既述もした「空」の論理は、我々の人生には確たる「根拠」もなく、普遍的な「意味」を持ち合わせないという論拠をも提供します(=畢竟空)。
しかし、それでは単なる虚無主義(ニヒリズム)と変わりのない無味乾燥的な教えと化してしまう事でしょう。
仏教では、一度それらを「苦」として受け容れ、且つそれを「結論」ではなく生きていく上での「前提」と位置付け、縁起現成の自己を体現し続けていく覚悟を我々に求めてくる教えだと解釈しています。その覚悟を貫く姿勢こそが「仏者の生き方」とも言えましょう。
また、その「縁起現成の自己」の具体的な体現法として規定されるのが叢林における修行かと思われます。宗門にて『清規』を重んじる姿勢はそこに理由があると個人的には考えます。
また、それは叢林以外の日常生活の場においても然りでありましょう。畢竟空なるがゆえに、我々は自己と他者との関係性において、前向きに自らの人生を施設していく事が可能となり、また必要になってくるとも言えると思います。
しかし、ここで注意しなければならないのは、ここで説く「空」の論理は、時に仮設された事象をも無条件に「空」として取り込み、まれに「悪しき現状肯定」を促したり、「諦めの論理」を他者に強いる場合があるという事です。
この部分に注意していかないと、「空」の思想は「本覚思想批判」と同じ構図として捉えられる事となってしまいます。
ここで説く「空」の教えとは、我々が生きていく上での大前提(入口orスタートライン)として理解され、そこから縁起現成の道理を介して仏者としての自己を確立していく道標となるものだと理解しています。
現実の我々の人生に「悩み」や「苦しみ」が尽きないのであれば、「空」の教えはその「悩み」や「苦しみ」にも根拠がなく意味を為さない事をも規定します。
であるならば、それらは「悩み・苦しみに甘んじる為の思想」として曲解するのではなく、現実に「悩み・苦しみを抱える人生を前向きに変えていく為の思想」として理解され、機能すべきものでなければならないと思います。
ゆえに、「空」の教えを日々の信仰の糧(心の支え)として前向きに生きていこうとする姿勢こそが、仏教という宗教の持つダイナミズムでもあると考えます。



コメントありがとうございます
今後とも宜しくお願い致します。