コーヒーブレイクⅧ

おもに、国際政治経済情勢を論じます。宗教論、音楽、歴史(古代史が主)についても論じます。

神道の起源とアマテラス

2021-04-04 16:36:12 | 国際政治経済
Twitterでも論じてきましたが、この国における神道の基礎であるアマテラス信仰について、まとめることとします。
というのは、BS朝日の、「もう一度近現代史」という番組のなかで、満州国皇帝溥儀のアマテラス招聘を傀儡政権の具体的な愚かさの証のように紹介されていたことについて、違和感を感じたからです。
そうであるなら、弥生の祭祀遺跡でアマテラスが祭られていたとは考えられないから、歴史的時点は違うが同じことになると考えられるからです。

確かに、日本の神道を考えるとき、一般的には、縄文16000年を考慮きないのが一般的です。しかし、こうした視点は、現実的ではありません。祭祀遺構があるのは弥生の水稲コミュニティだから、定立されたものとしては無視されがちに過ぎないのでしょう。
しかし、縄文と弥生は、前者が否定されて、後者が勃興したのではなく、文化的継承がみられるというのが、最近の研究の結論のようです。

結論的に言うと、アマテラス信仰は、天皇制の確立とともに整理されたということになります。
これを解くカギは、古代における、大王と天皇の存在にあると考えます。つまり、国譲り神話として神話化されたことは、大王が、天皇に地位を譲るという形式で、大和の宗教的権威と、大王の実質的権力が融合した歴史の表現であり、このなかに、アマテラス信仰、日本神道の確立を見ることができるという論理的指針です。

宗教的な論理を持ち込んだのは、私の推論でも、秦氏ということになりますが、受け入れる素地は縄文にあると考えるのが相当です。内容を形を与えただけのことです。欧州のキリスト教化の過程とは異なります。アマテラス信仰は、母性信仰であり、それは、縄文から続く信仰であり、スサノオ的なものは、政治過程の中で、事実の神話化、総合化、純化の中で確立したものと考えられます。

アマテラス信仰、つまり、母性信仰は、私の歴史論(母系社会として存在した原始社会が、父系氏族社会に移行し、さらに、国家形態の社会からの独立(疎外、外下)のなかで、世界宗教が誕生したという宗教一般の歴史観)でも、世界的な、一般歴史的な観点から、どこの国でも当てはまる信仰となります。黒人のアマテラスや、白人のアマテラスがあっても不思議ではありません。ある意味、始原的な宗教です。もちろん、自然崇拝とは異なる。コミュニティの宗教です。
さらに言うならば、少数派的な母性宗教であり、それは、観音仏教が日本において広まる基礎にもなっています

古代史の歴史的な変わり目は、聖徳太子の時代から壬申の乱までと考えるのですが、日本国家の大きな歩みは、神天皇、つまり、卑弥呼の時代ではないかと考えられます。つまり、地方の分家が、本家との何らかの連合政権を樹立したのではないかという推論。

応神朝は、河内摂津を本拠地にしているのは、天皇陵の位置から推測されますが、機内の支配権は、大和が有し、分家は外的拡大を目指したと考えられます。結局、応神の日本統一を機に、実権は自然に移行します。オオキミ、大王家(大物主家)が生まれ、本家の流れは天皇家となり、権威的な象徴として生き残ったと考えられます。アマテラスとは、天皇の別読みである可能性が高い。スサノオとの違いは明白です。母性神と、男性神の共立が、神道の特質になっています。

この推論が、正しければ、天皇制は、縄文文化の流れを引いた、日本の歴史そのものということになる。

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